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「瑠璃。とりあえず幽世から出よう。そうすれば確実に逃げられる」


「……そうね」


 氷菓は瑠璃からやや離れた道の真ん中に立ち、きょろきょろと見回して見当違いの方向を探している。そんな氷菓を警戒しつつ、瑠璃は幽世から現世へと移動した。

 通行人に不自然だと思われない程度にスピードを落とし、街の中を走る。とにかく、すぐにトラと氷菓がいる地点から遠ざかることが大事だった。


「けっこうやられたね。大丈夫かい?」


「こんなの、放っておけばすぐに治癒するから」


 トラの爪がかすり、腕や脚のいたるところに浅い切り傷ができていた。血がにじみ、痛みを意識する。それでもトラ相手にこの程度の傷で済んだのは幸運だった。致命傷を食らってもおかしくない厳しい戦いだったのだから。

 千佳との心安らぐ生活のせいで瑠璃は忘れていた。幽姫の日常とは戦いなのだ。命を賭けて不浄霊と戦い続けることが当たり前だった。まさか同類の幽姫に命を狙われるとは今まで考えもしなかったが、剣を振るう手が以前よりもずっとにぶってしまっていたことを思い出して瑠璃は唇を噛む。戦いから気持ちが遠ざかってしまっている証拠だったからだ。

 いったいこれからどうすればいいのだろう。瑠璃は重い気持ちのまま、トラと氷菓の二人から逃げるしかなかった。




「こりゃ、逃げられたなぁ」


「あーあ。瑠璃があんなに弱いんだったら、最初から氷菓がやればよかったなあ」


 ふぅとため息をつく氷菓の後ろにトラが立つ。いちいちトラが聞かなくても、標的の瑠璃が逃げてしまったのは見れば分かる。

 澄ました顔をしている氷菓にトラの怒りが爆発する。氷菓の前へ回り込み、胸ぐらをつかみ上げて顔を引き寄せる。


「何で邪魔した!? お前が邪魔しなきゃ絶対瑠璃は殺せたんだぞ! 瑠璃は逃げた。これでまた一からやりなおしだ! お前のせいで作戦が台無しだぞ!」


 邪魔をされたことと同じくらいにトラの怒りをあおっているのは全身の痛みだ。氷菓が放った黄色い球と家の壁の板ばさみになったトラは無視できないダメージを受けた。いくらトラの身体が非常に丈夫だといっても頭や胸や脚がずきずきと痛む。

 トラに激突したオレンジ色の球はトラの背丈を上回るほど大きく、表面がざらざらしていて何で出来ているのか分からなかった。岩でも金属でもない。うっすらと透き通っていて、半透明のビー玉を巨大化したようなものだった。

 激怒して耳としっぽを逆立てるトラにも氷菓はにやにやと笑うだけでまるで反省していない。小さな身体ごと引き寄せられても少しも恐がっていない。


「瑠璃を仕留めるのは氷菓だもん。トラにはあげない」


「……!」


 食われるような錯覚にぞっとし、トラは思わず服をつかんでいた手を放した。氷菓は落ち着いた様子でドレスの乱れを直し、「これからどうしようか、クマァ?」と腕の中をのぞいている。最初からトラのことなどどうでもよく、瑠璃以外に眼中にないのがよく伝わってくる。

 こいつはいったい何を考えている? クマァと無邪気に相談をする氷菓を横目で見ながら、トラは得体の知れない恐怖を覚えていた。

 "お菓子の氷菓"という二つ名をもつ以上、幽姫としての実力は無名のトラよりも氷菓の方が上だ。だが力の差とは別のものがトラに疑惑と恐怖を抱かせる。氷菓の内面が……本心が読めない。暗黒のベールに包まれた氷菓の中身がトラの恐怖心を増幅させる。

 本当に街の平和を考えるならはじけそうな瑠璃をさっさと消すことが最優先のはずだ。トラと氷菓のどちらが瑠璃を殺そうと問題ではない。それなのに、どういうわけか氷菓はトラを邪魔した。氷菓自身の手で瑠璃を始末しないと気が済まないらしい。

 本当に氷菓に付き従ったままでいいのか? トラはそんな疑問と不信感を胸に芽生えさせた。そのことにクマァとのおしゃべりに夢中の氷菓は気づかない。



 二日後の昼。千佳はパジャマ姿のままベッドに腰かけていた。背筋は伸び、顔色も良い。忍のペンダントを首に下げ、体はほぼ回復していた。瑠璃から吸収して千佳を苦しめていた呪いも鎮まり、今ではほとんど感じ取れないほどだ。

 千佳の前には浮かない顔の瑠璃が座っている。この二日間、瑠璃はずっと沈んでいる。そのことが千佳には気がかりだったが、熱やら息苦しさやら手足の痛みやらで瑠璃と話す余裕がなかった。ベッドの上で苦しむ千佳を瑠璃は黙って見守るだけで、彼女は何もしゃべろうとしなかった。


「……千佳が元気になるまで話さない方がいいと思ったの。そのことを話してもいいかしら」


「う、うん」


 瑠璃は口を開き、胸にためていた秘密をようやく話す。重く、低い声だった。同類の幽姫二人に命を狙われたこと、そして氷菓と猫のような姿をした幽姫の特徴を瑠璃はうつむいたまま話す。瑠璃の話すべてが千佳には驚きだった。


「氷菓と猫みたいな幽姫、そのどちらが私を始末しようと言い出したのかは分からない。でも、氷菓……黒いドレス姿で変なぬいぐるみを抱いた方の幽姫は……何かとても薄気味悪い感じだった。氷菓の目にたしかな殺意を感じたわ。できれば関わり合いになりたくないような子ね」


「現世を綺麗にする幽姫が幽姫を襲うなんて、そんなこと……」


「同類ってだけで、私達幽姫はもともと協力し合う仲間でも友達でもないけれど、つぶし合うような敵でもないはず。さすがに参るわね」


「瑠璃」


 掛ける言葉が見つからずに名前を呼ぶことしかできない千佳に、瑠璃ははっとして顔を上げた。


「私が本気を出せばどうってことのない相手よ! 心配無用よっ!」


 忍が千佳の右肩に姿を現し、やれやれと言いたげに肩をすくめる。


「強がりはやめることだな、瑠璃。今の君じゃ、あの猫型幽姫一人にさえ勝てない。もう一人の氷菓の実力や能力も未知数だ。瑠璃を殺そうとするしっかりした意思をもっている以上、氷菓の方が危険だと考えた方がいい」


「猫みたいな幽姫の方はともかく、氷菓は話して分かるタイプじゃなさそうだものね」


「これからどうしよう? 瑠璃」


 おそるおそる問いかける千佳に、瑠璃は顔をうつむけ……その後にしっかりと千佳の目を見つめた。


「奴らは私を狙っているわ。私といっしょにいれば千佳にも危険が及ぶ。本当はここでこうして話しているだけでも危ないけれど、千佳にはちゃんと話しておきたかったし……。だからお別れを言うために、千佳が元気になるまで待っていたの」


 そこまで言って瑠璃はふたたび目を伏せた。涙を流さずに泣いている。そんな顔だ。瑠璃は何も言わないが千佳にはちゃんと伝わっていた。ここに残りたいという気持ちと残ってはいけないという現実の間にはさまれて苦しんでいるのが千佳にはすぐに読み取れた。


「お別れって、いきなり何言ってるの? 瑠璃がいなくなるなんて、そんなの私、嫌だよ」


「もともと千佳の部屋にいるのは私の身体が治るまでの間って約束よ。その約束はもう果たされたはず。千佳のおかげで私ははじけずに済むし、千佳の身体にも予想外の負担をかけてしまったわ」


「そんなの、何でもないよ。負担って言っても風邪を引いたような軽いものだし、瑠璃を助けられて嬉しいって私は思ってる。それに、何だか前にも増して元気な感じだしね」


 千佳は笑いながら両腕を曲げて力こぶをつくって見せる。口から出任せの嘘を言っているわけではない。すべて本当のことだった。心から思っている真実だった。

 身体に、呪いを吸う前には無かった何かが宿っている。千佳にはその何かの正体が分からなかったが強い力がみなぎっているようだ。内側にうずまいている力のせいでどうにもうずうずし、寝てばかりいたせいでなまった身体を思いきり動かしたいような気分だ。

 瑠璃が悲しむのは胸が痛むが、同時に千佳はどこか嬉しい気持ちだった。幽姫で、気高くて、雲の上のような存在だった瑠璃が自分のことを気にかけてくれている。同じ目線の高さに立って心配してくれている。それが千佳の心をはずませた。


「で、でも、いつ氷菓達がこの部屋に来るか……。私だけじゃなくて千佳まで襲われるかも知れないし、これ以上迷惑をかけられないわ」


「人間が瑠璃に協力しているらしいことは読んでいても、その人間が誰でどこに住んでいるのかまではつかんでいないと僕は思う。つかんでいるのならとっくにこの部屋まで乗り込んで来ているはずだからね。とりあえず、現時点では瑠璃は安全だと考えていいだろう」


「そうだよ、瑠璃。外に出たら見つかっちゃうよ。それなら私の部屋に居た方が良いよ。そうしなよ」


 千佳はベッドの上から降りて床に座り、うつむく瑠璃の顔をのぞきこんだ。ベッドに腰かけたまま、瑠璃の頭の上から偉そうに勧めるようなことはしたくなかったからだ。千佳はあくまで瑠璃と対等の立場でいたかった。友達として、瑠璃に居て欲しいと思っていたのだ。


「引き止められるなんて思ってもみなかった。千佳にお別れを言ってすぐに出て行くつもりだった。一人で氷菓達と戦うつもりだった。今まで私はずっと一人だったから、同じように一人で決着をつければいいと思っていた」


 瑠璃は下を向いたまま、赤い顔をしてちらちらと千佳の目を見る。


「こんなこと、初めてだから自分の気持ちがよく分からない。今の気持ちが上手く言葉で言い表せないの。でも」


 瑠璃はおそるおそる左腕を伸ばし、床の上の千佳の右手に触れて、手の甲に手を重ね合わせた。千佳は驚き、動揺でいつものように顔が真っ赤になる。


「千佳のおかげで、また私は戦えるようになった。取り戻したこの力で、必ず千佳を守るわ。たとえ命を失ったとしても、最後まで私は貴女を守る剣になる。今日まで大切にしてきた私の誇りに賭けて誓うわ」


 そこまで途切れ途切れに言って、瑠璃は千佳と重ね合わせた手を離した。瑠璃は顔を赤く染めたまま苦しげに目を閉じ、ひざの上に置いた手を強く握りしめている。プライドの高く他人を寄せつけない瑠璃からすれば限界を超えて千佳に歩み寄ったのだろう。背筋を伸ばして固くなっている瑠璃を見ていると千佳まで気恥ずかしくなってしまう。


「さて、話もまとまったところでこれからの対策だけど」

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