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忍の冷静な声で千佳と瑠璃の二人は我に返った。止まっていた時間が動き始めたようで、千佳も瑠璃も呼吸を思い出す。千佳は深呼吸をくり返し、ずっと固まっていた瑠璃はようやくしなやかな雰囲気に戻った。
「敵はこちらの位置情報をつかんでいない。だからこれからも絶対にこちらの情報は渡せない。敵はどこにいるか分からないから瑠璃は外出禁止。現世にも、幽世にも出て行ってはいけない」
「そうね。仕方ないわ」
「向こうも幽姫の身分で人間の家を一軒一軒探して回るほどバカじゃないはずだ。瑠璃が千佳の部屋に隠れたままでいれば見つかるはずがない。下手にこちらからさぐりを入れて氷菓達に見つかったり戦いになるほうがよほど危険だ。こちらからは動かず、向こうが諦めるのを待とう」
「待つだけ? それでどうにかなるの? 忍」
肩の上の忍に目を向ける千佳と同じように、瑠璃も疑わしいという顔で忍を見た。
「あの猫型幽姫は瑠璃がはじけて呪いが飛び出す前に始末すると言っていた。つまり、この街の安全を重要視しているわけだ。何日待っても街に何も起こらなければ瑠璃ははじけないと判断して去っていくだろう。心配の種の瑠璃に問題がなければ街にとどまる理由が無くなる」
「やられっぱなしは悔しいけれど今の私じゃ二人には勝てないし、隠れているのが賢明ね。でも、気になることが一つあるの」
下を向いて言葉を詰まらせる瑠璃に場の空気が重くなる。千佳も忍も瑠璃が口を開くまで大人しく待った。
「あの氷菓という子どもの幽姫が気にかかるの。あの子、本当に街を救いたいと考えてるのかと思って」
「猫型幽姫と二人がかりで瑠璃を倒そうとしているかと思えば土壇場で仲間の猫型幽姫を邪魔したり、たしか不可解な幽姫だね」
「瑠璃。その氷菓って子と会ったことはないの?」
「無いわよ。あんな幽姫、この街では見たことないもの。猫みたいな幽姫も、氷菓も、別の街の幽姫だと思うわ。……でも氷菓は私のことをよく知っていると言っていたわね」
「もしかして、何か怒らせるようなことをしたんじゃないの? そのことに瑠璃が気づいてないとか」
「してないわよっ!」
「瑠璃の方に自覚は無くても、瑠璃の何かについて氷菓が一方的に怒っていたり恨んでいるとか……」
「千佳の考えが正しいかもしれないね。猫型幽姫は義務感で瑠璃を狩ろうとしていたようだけど、氷菓の方からは義務感ではない、何か個人的な感情が伝わってくるようだった。もしも本当に私情で瑠璃を殺したいのならそう簡単には諦めないかも知れないな」
「氷菓のあの目……ぞっとする。夢に出てきそうな恐い目だった。私をどうしても消したいという強い意志を感じたわね」
「とにかく氷菓達が諦めてくれる方に賭けるしかない。戦ったって、今の瑠璃じゃどうしたって勝てないんだから」
「そうね……。二人相手に勝つだけの力はないし、千佳を危険にさらしたくないし」
いくら身体の中にたまった呪いが減ったといっても瑠璃は全力を出せる体調ではない。力不足に落ちこむ瑠璃に、千佳は何とかしてあげたいという気持ちで胸がいっぱいになった。
「色々話してお腹空いちゃったよ。お母さんがプリンを買って冷蔵庫に置いてくれてあるから、いっしょに食べよう。瑠璃」
「い、いいわよ、べつに……。幽姫は食べなくても平気な体だし、千佳が食べて体力をつけた方がいいわ。呪いに苦しんでいたせいで、千佳はろくに食べてないじゃない」
「いいから、瑠璃に食べて欲しいんだってば。プリンは甘くて美味しいよ。ほら、キッチンへ行こう」
とまどう瑠璃と腕を組み、強引に立ち上がらせる。部屋のドアを引く千佳に、瑠璃も困ったような笑みを浮かべた。
「疲れた時は甘いもので気を落ち着けよう? 氷菓達が諦めるまで待つことしかできないんだから、ゆっくり休もうよ」
「……うん。そうね、私も、千佳も、休むことも大切よね」
瑠璃は目を閉じ優しい声でそうつぶやくと、千佳に引っぱられて階段を降りていった。
休み時間、千佳は幼馴染みの桃香と肩を並べて窓の外を眺めていた。換気のために開け放った窓から冷たい冬の風が吹きこんでくる。久しぶりに登校すると慣れきっていた校庭の景色でも新鮮に映る。
「――千佳ちゃん、何か変わった?」
「言っておくけど、好きな人ができたとか、そういうのはないからね」
「ううん、そういう意味じゃなくて……。何というか、上手く言えないんだけどぉ」
窓のサッシに両腕をのせて灰色の曇り空を眺める千佳。その右隣に立つ千佳がまじまじと千佳の顔をのぞきこんでくる。あと少しで唇同士がぶつかりそうな距離まで桃香が顔を寄せるので、千佳は顔を赤らめながらあわてて頭を後ろへ引く。
「千佳ちゃんだけど、今までの千佳ちゃんじゃない。新しい別の千佳ちゃんに変わったみたいな……そんな感じがする。ねえ、千佳ちゃん。学校をお休みしたのは本当にただの風邪が原因だったの?」
「……風邪だよ。心配しないで、桃香。わざわざお見舞いに来てくれてありがとね。嬉しかった」
「もう! そんなの当然じゃない! 千佳ちゃんに万が一のことがあったら私の方が先に死んじゃうもの」
桃香は顔に両手を当てて嬉しそうに身をよじり、千佳の右肩に頭を寄せる。
吸い取った呪いに苦しんで学校を休んでいる間、桃香は毎日見舞いにやってきてくれた。瑠璃は何も言わずに自分から幽世へ隠れてくれたので部屋に上がってくる桃香には何も知られずに済んだが、瑠璃とは別の異変を桃香はかぎ取ったらしい。桃香は非常に勘が鋭い少女なのだ。
千佳自身も何かが変わったことに気づいていた。身体が軽く、かつてない強い力が内側にこもっている。まるで借り物の身体を使っているようだった。ずっと寝ていたベッドから起き出して登校する間にはすでに身体の違和感を覚えていたが、勘の鋭い桃香にまで指摘されたとなると、もう千佳の気のせいではないのかもしれない。
「!」
何かが近づいてくる。それは桃香に大きな危険をもたらすもの。目や耳で確認する前に、頭の中に直接情報が流れこんでくるような奇妙な感覚だ。
とっさに上を見れば、植木鉢の底が猛スピードで近づいてくるのが分かった。桃香の頭に向かって上の階から植木鉢が降ってくる。実時間にすればわずか一秒ほどだろうが、千佳にはその数倍の長さに感じられた。
桃香は校庭の先の街並みを見ていて、頭上の植木鉢には気づかない。植木鉢はどんどん桃香の頭に迫る。まばたきするほどの短い時間の光景がゆっくりとスローモーションで千佳の目に映った。
桃香を植木鉢から遠ざけなければ。実時間の何倍にも引き延ばされた体感時間の中で冷静に考えた千佳は、まず右手で桃香の胸に触れ、桃香の後ろ側に誰も人がいないことを確認してから彼女の身体を押し出した。
次は落ちてくる植木鉢をどうにかしなければ。視界の端にはまだ植木鉢が宙に浮いている。植木鉢の底を空いている左手で受け止め、取りこぼしがないように手を動かして平行にバランスを取る。
桃香は? そこまで頭が回った時、ようやく時間の感覚が元に戻る。桃香は二メートルも後ろに飛ばされ、床に尻もちをついて「いたた……」とうめいている。上の階の窓から「ごめんなさい、大丈夫ですかーーっ!?」と声が届いているし、桃香を救った離れ業に教室の中がざわついている。しかし、千佳にはどうでもいい。完璧にキャッチした植木鉢を近くの机の上に置き、桃香にかけよって抱き起こした。
「桃香! 大丈夫? 怪我してない!?」
「千佳、ちゃん……? 千佳ちゃん、だよね……?」
千佳の顔を見つめる桃香の手がわずかに震えていた。おびえたような桃香の表情に千佳はハッとして目をそらし、うつむく。変わってしまった千佳にとまどう桃香と同じように、千佳は人間離れした力や感覚をもつ自分自身に他の誰よりも恐怖を覚えていた。
助けてくれたお礼を何度も言う桃香を追い出すように自分の教室へ戻らせ、誤って窓から植木鉢を落としてしまった男子達がやって来たので何も言わずに鉢を返した。教師の話もろくに聞かないまま午前の授業を終え、食欲もわかないのに給食をむりやり腹におさめ、昼休みになって千佳は屋上へと続く階段を上った。ここはもともとほとんど人が来ない場所だ。屋上の扉が目の前にある踊り場にたどりついた千佳は周りに誰もいないことを確認し、制服の内側に隠してある剣のミニチュアを引き出した。
「説明して、忍。どういうことなの? 桃香を突き飛ばした力、どう考えても普通の女の子の力じゃない。植木鉢だってけっこう重い。重くて、しかも上から落ちてくる植木鉢を片手で簡単に受け止めるなんて変だよ。それに……なぜか落ちてくる前に危険に気づいた」
「こんなケースは初めてだから何とも言えないけれど――」
ミニチュアをのせた左手の上に忍が現れる。あごに手を添え、顔を上げて千佳を見つめてくる。
「タイミング的に考えて、瑠璃の呪いを体内に取り込んだことが影響しているとしか思えない。瑠璃由来の幽姫の力が君の力強さや反応の良さ、普通の人間以上の勘の良さになっているんだろう」
「私の身体の何がどれだけ変わったか分からないの……!?」
「分からないな。さっきも言ったように初めてのケースだから前例が無いんだ」
「そんな……」
忍を乗せた手が震える。言葉が出てこない。頭が真っ白になってどうすればいいのかが分からない。
小型の亡霊が近づき、千佳の頭の周りをふわふわと漂っている。ぶつぶつと恨み言のようなものをつぶやき続け、霊的な存在と相性の良い千佳にからんでくる。ショックを受けている最中の千佳にはたまらなくわずらわしかった。
「うるさい!」
亡霊の胴体をつかんで捕まえ、そのまま握りつぶす。何の感触も抵抗もなかった。亡霊は霧散し、消滅する。これでうるさいつぶやき声を聞く必要が無くなった。
「……そんなことまでできるようになったのかい? 千佳」
「わ、わかんない。できるのが当たり前みたいな感じがしたから」
「ふむ。前例が無いのなら、一つ実験してみないか?」




