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立ち上がって両腕を大げさに振り回し、しっぽを激しくうねらせるトラは思いつく限りの言葉を尽くす。それでも氷菓の表情はあいかわらず冷めている。ゴミ箱から空き缶を一つ拾い上げ、サッカーボールをリフティングするように左手の人差し指一本で缶をぽんぽんと浮かせ続ける。
「トラはさあ、瑠璃がはじけて街が滅茶苦茶になっちゃってもいいの?」
「……そりゃ、よくはないけどさ……」
「大きな事をするためには小さな犠牲はやむをえないよ。早く瑠璃を殺さなきゃ、氷菓達の作戦の被害よりもずっとずっと大きな災厄が生まれるわ」
リフティングしていた缶を左手でキャッチし、そのままたやすく握りつぶす氷菓。そのせいで缶の底に少しだけ残っていたフルーツジュースが飛び出し、氷菓の手を汚した。
「うわぁ。べたべただぁ」
「おいおい、オレの身体になすりつけるのはやめてくれよぉ、氷菓」
ジュースで濡れた手で無邪気にクマァをなで回す氷菓に、トラはすっきりしないものを感じていた。
たしかに理屈は通っている。クマァの考えたおびき寄せ作戦が正義か悪かはおいておいて、目先の小さな危険の可能性よりも瑠璃という大災厄の種を優先して潰すべきだというのは正論だ。
しかし、やり方が乱暴すぎる。街の人間のことを大事に思うならもっと他に安全な方法があるはずだ。氷菓からは街を大切にしたいという感情が感じられないのだ。瑠璃を殺すという目的のためには手段を選んでいないという印象をトラは抱いていた。まるで街の平和よりも瑠璃の殺害の方にこだわっているような雰囲気だ。
残念ながらトラの頭では瑠璃をうまく見つけ出す方法をひねり出せない。氷菓のやり方に不満はあっても、代案を出せないトラはだまって従うしかなかった。
ベッドの上で寝ている千佳の額に手を当てるスーツ姿の女性。千佳の母親だ。スーツ姿で、左手首に巻いた腕時計をしきりに気にしている。そろそろ家を出なければ出社時刻に間に合わないからだ。
「熱があるわね。学校には連絡しておくから今日はお休みね」
赤らんだ顔でうなずく千佳に「ちゃんと風邪薬を飲みなさい」と優しく言い、母親はあわただしく部屋を出て行った。
ドア越しにとどく足音が遠ざかり、階段を降りきったころに瑠璃が部屋の中央に現れた。幽世側の部屋から現世へ移動してきたのだ。瑠璃は千佳に洗濯された服をまとい、パジャマ姿だった時のやわらかい雰囲気とは違う。
「ぐ、具合はどうなのよ?」
「身体がだるくて、熱い。それに、眠い。身体の中で何かがどろどろ動いてるみたいな感じ……」
ベッドの前に立った瑠璃は吸収した呪いで苦しむ千佳を見下ろし、千佳と目が合うとすぐに顔をそらした。
「勝手な事して苦しまないでよ! 私の中の呪いを千佳に移すなんて、そんな危ないこと、頼んでないわよ」
「へへ。瑠璃の苦しさがちょっとだけ分かって、私は嬉しいな」
「なっ、何言ってるのよっ!? このバカっ、お人好しっ、考え無しっ!」
「私をベッドに寝かせてくれたのは瑠璃でしょ? お母さんが入ってきた時も何も言わずに幽世に隠れてくれたし、良いとこあるじゃない」
「そ、そんなの当たり前じゃない。千佳には部屋に住まわせてもらっているし、色々助けてもらっているし……。もしも千佳に何かあったら、私は……」
「え? 声が小さくてよく聞こえないよ」
「何でもないわよ! 気にしなくていいわよ!」
「瑠璃。一つ、気になることがある」
千佳の枕元に出現した忍が真剣な顔で瑠璃を見上げる。
「何よ? あんたまで私をからかおうっていうの?」
「違う。この街に突然大量の不浄霊が現れた。しかも幽世側ではなく、現世側にだ。奇妙な現象だ」
忍の報告に瑠璃は一瞬固まり、下を向く。少しだけ重い表情だった。思わぬ負担に気分が沈む。そんな顔だった。それを千佳は見逃さなかった。
瑠璃はすぐに顔を上げ、軽くため息をつく。
「仕方ないわね。狩りに行くしかないか」
「四季という幽姫は異常に強い力をもってはいるが、あの性格だからね。街の危機だからといって動いてくれるとは思えない。四季は当てにはできないな」
「千佳。少しの間、案内役に忍を借りるわ」
千佳の胸元からペンダントの重みと感触が消え、次の瞬間には瑠璃の右手にペンダントのチェーンがにぎられていた。幽姫の力で瞬間移動させたらしい。忍は瑠璃が創り出したしもべだから、空間を移動させることもできるようだ。
瑠璃はペンダントを首に下げ、忍のサポートが得られる態勢を整えた。
「無理しちゃダメだよ、瑠璃……。いくら瑠璃の負担が軽くなったからって、まだまだ辛いはず。そうなんでしょ?」
「たしかに本調子じゃないけれど、それでも不浄霊を狩るくらいならまったく問題ないわ。千佳のおかげで、本当に身体が軽くなったの」
瑠璃はしゃがみ、目を閉じて顔を赤らめる。
「私の力を信用しなさい。千佳はここで身体を休めていればいいんだから」
目を閉じたまま、布団越しに千佳の胸をぽんぽんと叩く瑠璃。瑠璃は立ち上がり、部屋の端に置いてある靴を拾い上げる。そんな瑠璃の後ろ姿に、元気になって嬉しい気持ちと不安を千佳は同時に覚えていた。
「瑠璃。気をつけて。絶対無理しちゃだめだよ」
「やばそうだったらちゃんと逃げるから。心配しないで」
「瑠璃」
「何? まだ何か心配事がある?」
「ううん。いってらっしゃい」
呪いの苦しみで息を荒げながらも微笑む千佳に、瑠璃は照れて赤くなる。目をそらしながら小声で「いってきます」とつぶやき、ガラス戸を引いてベランダへ出た。そして現世から幽世へと消える。
時刻は朝早くだというのに幽世の空は黒い。瑠璃は人家の屋根を疾風のような速さで走り、屋根から屋根へと跳び移りながら目的地を目指す。道路に沿っていちいち地面を走るよりも縦横無尽に素速く移動できるこっちの方法が瑠璃は好きだった。
走る先に不浄霊を見つけるとすれちがいざまに剣で斬り捨てる。相手は瑠璃の速度にまったく反応できず、勝負にならない。
身体にため込んでいた呪いの量が減り、はじける寸前だった呪いを抑えつけるための力が使えるようになった。そのせいで体力もある程度戻り、剣を生み出すことにも支障はない。現時点は絶好調の半分ほどの力しかないが、それでも歩くだけでめまいを起こす時よりははるかにましな状態だった。
「忍! 千佳に勝手なことをしないでよ! 私の呪いを移動させるなんて、千佳にもしものことがあったら大変でしょ!?」
屋根の上を走りながら剣のミニチュアを持ち、瑠璃は怒りの声と目を向ける。そんな瑠璃にも忍はペンダントの中に引っ込んだままだ。
「何度も言っているだろう。僕の主人は千佳だ。主人に頼まれたから僕は要求に従って施術をした。道具としては当然の行動だと思うけど?」
「私に創ってもらった恩も忘れてぬけぬけと……!」
瑠璃はミニチュアを握る手に力をこめ、小さな剣がみしりと音を立てる。
「千佳のことが相当大事みたいだね」
「……忍。あまり私を怒らせると、この場であんたをぶっ壊して忍二号を新しく創るわよ……」
「べつに怒らせたいわけじゃない。千佳といっしょに居る君はとても楽しそうだ。瑠璃に創ってもらった元しもべの僕としても嬉しいわけさ」
瑠璃はミニチュアの剣から手を放し、宙を跳びながらため息をつく。そしてしばらくの間、前を向いたまま黙って走り続けた。
「千佳を危険に巻きこみたくないのよ。あの子は幽姫の私を友達扱いしてくれた人間だから」
「……瑠璃。昨日の四季の言葉を憶えているかい? この街に二頭の猟犬がやってきたと四季は言っていた。彼女の言葉と謎の不浄霊発生は何かの関係があるのかもしれない。油断しないようにね」
「そういえばあの幽姫、そんなことを言っていたわね。あんなわけの分からない性格だから、もともと意味らしい意味なんて無いんじゃないかしら」
「だといいんだけど」
人家の屋根から路面に飛び降りた瑠璃は辺りを見回した。何の変哲もない通り道。ここが忍のいう不浄霊の発生場所だ。幽世側には特に異常は見られない。幽世側からは現世側の人間が半透明の人型に見える。人通りが絶えた時を見はからい、瑠璃は現世へと移動する。
「何よ、これ……」
瑠璃は路肩にたたずんだまま一瞬我が目を疑った。細い道路の至る所に巨大な不浄霊がひしめいている。通りからあふれた不浄霊は屋根の上や空中をさまよい、彼らの身体から放たれる穢れで瑠璃は息が詰まりそうだった。こんなにたくさんの不浄霊が密集している様子はいままで見たことがない。まさに異常事態だった。
不浄霊の群れの中を通学途中の学生や通勤中の社会人が何も気づかずに行き交っていた。不浄霊の悪影響を強く受けるのは千佳のような亡霊が見える人間だ。普通の人間には感じ取れず、勘の鋭い人間がここは何となく嫌で気味が悪い場所だと感じる程度だろう。
通行人にはまだ被害が出ていない。しかし、これほど大量の不浄霊を長く放置しておけばこの付近一帯は間違いなく汚染される。交通事故は頻発するようになるし、不浄霊に免疫が無い人間はここを通っただけで気分を悪くし倒れてしまうだろう。
こうなった原因は分からないがとにかく早く狩る必要がある。左右の手に力を集中し始めた時、瑠璃は背後からゆっくりと近づいてくる気配に気づき振り返った。小さな女の子だった。真っ黒なドレスに身を包み、不気味なクマのぬいぐるみを両腕で抱きかかえている。瑠璃には一目で理解できた。女の子は人間ではない。瑠璃と同じ幽姫だ。
「あはは。クマァの作戦通り、本当に来てくれた。初めまして、瑠璃。氷菓だよ。氷菓は瑠璃のこと、よーく知ってるよ。"剣の瑠璃"」




