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蛍光灯で照らされた室内にはもやもやとした黒い霧が立ちこめ、たった一メートル先も見通せないほどに視界が悪い。亡霊が見える千佳には一目で黒い霧がこの世のものでないことが理解できた。
「忍。瑠璃は? 瑠璃はどうしたの!?」
呼びかけても忍は応えない。悪い予感に千佳は自身の胸元を手でさぐるが、忍のペンダントは無い。チェーンも、剣のミニチュアも、綺麗に消えてしまっている。
まさか失敗したのか? 消えた瑠璃と忍のペンダント。そして立ちこめる不吉な黒い霧。それらから察するに、賭けは失敗したとしか思えない。瑠璃がはじけて消えてしまったという確信と、それを認めたくない気持ちが胸の中で激しくぶつかり合う。
千佳はふらりと立ち上がり、おそるおそる部屋の外へと歩み出した。千佳の部屋だけでなく廊下や階段にも霧が充満している。真っ暗な霧の中を千佳は手すりを頼りにして慎重に階段を降りていき、いつも父親と母親がくつろいでいるリビングへとどうにかたどり着いた。
リビングの中も霧で黒く染まっている。点けっぱなしのテレビから場違いなほど明るいバラエティ番組が流れ、その明かりのおかげで部屋の中に倒れている人の形に気がついた。
それは母親だった。絨毯の上にあおむけに倒れ、目を閉じたままぴくりとも動かない。呼吸で上下しているはずの胸も止まっている。つまり、呼吸をしていないということ。
ソファーの上には父親が横たわっていた。こちらも眠ったように目を閉じたまま息をしていない。つまり、死んでいるということ。
幽姫の力を無効化する体質の千佳には黒い霧の影響がない。しかし、両親はそうもいかないようだ。この黒い霧の正体は瑠璃がためにためこんだ呪い。瑠璃がはじけて呪いが外へ飛び出し、千佳の部屋から家中へと拡散し、呪いに触れて両親は死んだ。この呪いの霧は命を侵蝕する猛毒も同然なのだ。
仕組みを理解したと同時に千佳は悲鳴を上げ、たまらずに家の外へと裸足で飛び出す。家の中だけでなく、千佳の見渡す限りに黒い霧が広がっている。まるで街全体が霧の海に沈んでしまったかのようだった。
家の前の道路を見れば、そこに倒れている人が何人も目に入る。千佳の部屋から広がった呪いに当てられて、ちょうど近くの道を歩いていた人たちが死んだのだ。倒れた自転車のそばで横たわっている人もいる。
涙を流し、全身を震わせながら千佳は道を歩いていく。車が電信柱に突っこんだまま煙を上げていた。火事になり、火を吹いている家もある。そこかしこで悲鳴や助けを呼ぶ声が響いている。
千佳は道の真ん中に座りこみ、瑠璃と忍の名前、そして両親の名前を泣きながら叫ぶ。だが、千佳を助けてくれる者は誰もいない。瑠璃も両親も死んでしまった。きっとこの近くに住んでいる桃香も同じだろう。もう千佳の頼れるものは何も残っていない。千佳の愛すべきものはすべて壊れてしまったのだ。
……枕元のうめき声で瑠璃は目覚めた。ベッドの横に千佳が座り、瑠璃の手を握ったまま苦しげにうめいている。どうも眠っているらしい。
瑠璃は上半身を起こし、自分がベッドにいることから苦しみのあまりに気を失ってしまったらしいことに気がついた。そのことを悔しく思うよりも先に、気絶する前よりも身体が数段軽くなっていることにまず驚いた。
ため続けた呪いの圧力でたえず感じていた息苦しさや身体のだるさ、抑えつけられていた痛みがずっと楽になっている。胸のつかえが取れたような爽快な気分だった。
「忍。いるんでしょ、忍。いったい何がどうなっているの? 説明して」
いつまで待っても返事が返ってこない。眠っている千佳の首を見るが、ちゃんとペンダントは下がっている。ペンダントは健在だから、忍自体が消滅したわけではない。どうも一時的に機能停止しているらしい。
「いやだ……みんな死んじゃうなんて……そんなの絶対いやだ……」
千佳が寝言を言っていた。悪夢にうなされているらしい。身体の調子が良くなったことに気を取られていたせいで気づかなかったが、よく見てみれば千佳の頭の上に一羽の烏が留まっていた。もちろん本物の烏ではない。鳥の姿をとった不浄霊だ。それが千佳に取り憑き、悪夢を見せているらしい。
「なんで? 千佳の部屋には不浄霊が入ってこられないはず……」
瑠璃は意識を澄ませて部屋の中に感覚を張り巡らせる。するとすぐに部屋のドア近くに結界のほころびを見つけることができた。ドアの方へ目を凝らせば、盛り塩が一つ崩れているのが分かった。千佳が蹴飛ばしたらしい。そのせいで部屋を外界から遮断していた結界に穴が空き、そこから不浄霊が入ってきたのだ。
瑠璃が念じるとたやすく右手に短剣が浮かび上がった。剣の生成が不可能なほどに弱っていた少し前が信じられないほどの快調だった。
剣を振り、千佳の頭に留まっている不浄霊を両断する。烏は霧散し、それとともに千佳の寝顔が安らかなものへと変わる。
千佳と手を繋いだまま瑠璃は考えをめぐらせ、なぜ今のような状況になったのかをおおむね理解した。千佳が忍と協力し、瑠璃の中の呪いを取り除いてくれたのだ。
千佳の手が温かい。千佳と手を繋いだのは初めてではなかったが、これほど温かいと感じたのはこれが最初だった。空いた右手で千佳のほおに触れ、そっと頭をなでる。
「ありがとう。千佳」
報われない戦いに明け暮れてきた日々では味わったことがないほどに気持ちが穏やかだった。胸の中から敵意が消え、その代わりに千佳への感謝があふれている。瑠璃はひざの上の布団を千佳の肩に掛け、千佳と手を繋いだまま夜を過ごした。
その同時刻。歩き疲れたトラは道路の路肩に脚を伸ばして座りこみ、ため息をつきながら夜空を仰ぐ。
「ダメだぁーー……。街のどこを探しても瑠璃の影も形も見当たらない。なんで見つからない? 瑠璃は現世にいるはずだって言っただろ?」
「そのはずなんだがなぁ」
トラの横に立つ氷菓。氷菓が抱えたしもべのクマァが気のない返事をする。すぐそばの自動販売機の明かりに照らされて闇の中にぼんやりと浮かぶ氷菓は、その黒ずくめのドレス姿もあって亡霊のようだった。
「瑠璃はすでに限界を迎えている。そんなへろへろの幽姫が強い不浄霊でいっぱいの幽世にわざわざいるはずはねぇんだ。危ねぇ幽世よりは安全な現世を選ぶに決まってる」
「うん。氷菓もそう思うな」
「じゃあどうして見つからないのさ? この街を探し始めてからもう三日も経った。端から端までしらみつぶしに探してみても瑠璃の居所の手がかりさえつかめない。氷菓とクマァの考えが間違ってるんじゃないの? もしかしたら瑠璃ってもう呪いに負けて死んじゃったんじゃないの?」
「街は綺麗なもんだ。呪いで汚染されてはねぇ。ってことは瑠璃はまだはじけてねぇ。弱ってても必ずどっかで生きてやがるんだ。探し方に問題はねぇから、問題があるとすれば探す場所だなぁ」
「探す場所ぉ!? 街を何周も何周も回って探して、もう探す場所なんか残ってないよ!」
激情のあまりにトラの猫耳としっぽが飛び出した。いら立つトラは手足をじたばたさせ、頭の耳をぴくぴくと震わせる。
「まだ氷菓達が探してない場所、あるよ。たとえば人間の家の中とか」
「氷菓達が探してきたのはあくまで屋外限定……道とか公園、建物の裏側とかだからなぁ。もしもどこかの家の中に隠れてるんだとしたらいくら外を探しても見つかるわけはねぇ」
「家の中……!? 無理言うなよ、この街に人間の家がいったい何軒あると思ってるのさ?」
冷たい路面にあぐらをかいて二本のしっぽをにょろにょろと動かすトラと同じように氷菓もご機嫌ななめだった。背後のコンクリート塀に背中を預け、販売機の横に設置してある空き缶用のゴミ箱からあふれたスチール缶を何個も軽々と踏みつぶす。身体は小さくても氷菓は幽姫。人間離れした身体能力をもつのは他の幽姫達と変わらない。
「それに、そもそも瑠璃が人間と暮らしてるなんてありえるかぁ? 瑠璃は人間じゃない。亡霊側に属している幽姫なんだ」
「瑠璃が幽姫だといっても姿形は人間と何も変わらねぇ。瑠璃を人間だと勘違いして世話を焼くような物好きがいても不思議はねぇなぁ」
「じゃあ本当に一軒一軒調べていくしかないわけ……?」
「いや、そいつはトラの言うとおり無理がある。調べる家の数が多すぎるし、だいいち氷菓もトラも幽姫だ。人間が住んでる家を次々にのぞいて回るなんざ目立ちすぎるぜぇ。下手すりゃ警察が動く。幽姫は正体を知られるようなマネはできねぇ」
「どうすればいいの? クマァ」
腕の中をのぞきこむ氷菓に、クマァは「げげげっ」と悪魔のように笑う。
「こうなりゃどっかに隠れてる瑠璃の奴をおびき出すしかねぇなぁ」
「おびき出すぅ? どうやってさ?」
クマァが口を開けると、中から小さな人魂が飛び出した。人魂は氷菓の前に止まり、またたくまに人型の巨大な不浄霊に変わる。不浄霊は金縛りにかかっているかのように直立不動のままぴくりともしない。
「なっ、なんでそんな危ないもんを持ってる……!?」
「げげげっ。氷菓にはコイツら不浄霊が必要なんだよ。捕まえた不浄霊をストックしておけるような構造にオレは作ってもらってある」
「で、幽霊ちゃんを使ってどういう風に瑠璃をおびき出すの、クマァ?」
「簡単なことさぁ、氷菓。ここらに不浄霊をバラまいて瑠璃を呼び寄せるんだ。あいつも穢れを狩る幽姫なら、さすがに何らかの反応を見せると思うぜぇ」
「なるほどなるほど。良い子だね、クマァ」
笑顔でクマァの頭をなでなでする氷菓にトラは開いた口がふさがらなかった。最初は手の込んだ冗談ではないかと疑ったほどだ。
「何考えてるんだ、お前ら!? 人間が住んでる現世に幽世側の凶暴な不浄霊を解き放てば……どれだけ被害が出るか分からないぞ。そもそも現世を清浄に保つのが幽姫の役割だろ? 幽姫が穢れの源の不浄霊を現世にバラまくなんて行為、許されるはずがないよ」




