二ヶ月後
エリカがヘデラを専属騎士にしてから二カ月が過ぎた。
前世からの記憶を辿っても、これほどまでに穏やかな日々を過ごした時間はなかった言えるくらい何もなかった。
侍女が怪しい動きをすることも、異母姉兄たちからの嫌がらせも、両親たちからの監視の目も、弟が内緒で会いに来ることもなかった。
まるで嵐の前の静けさ、なようで嫌だったが、何も考えずに過ごせるのが幸せなことだと初めて知った。
そんな日々を過ごしているうちに、日課となった花園でお茶を飲んでいると後ろから誰かが近づいてくる気配を感じた。
ヘデラも気づいているようだが、警戒する様子を見せないあたり、彼より身分が上な人間であることは間違いがない。
皇族の誰かだろうと後ろを振り返れば、突然風が吹いた。
咲いていたバラが風のせいで散り、宙を舞った。
エリカは美しい光景だと目を奪われた。
ただ、宙を舞ったバラの花びらの中を歩いて近づいてくるマルベリー・ガランサスがいなければ最高だったのにと思わずにはいられなかった。
エリカは彼の姿をとらえた瞬間、あからさまに顔を歪めた。
マルベリーが現れるということは、この穏やかな日常の終わりを告げるということを意味する。
「殿下」
マルベリーが座っているエリカの横に立ち声をかけ、そのまま頭を下げた。
「傷跡一つ残っておりません。今日から護衛の任務に復帰させていただきます」
マルベリーの表情は頭を下げているせいで見えない。
エリカは突然穏やかな日常を壊されことに腹が立った。
二度と戻ってこなければいいのに、と思っていた男が目の前に現れた。
「どうして戻ってきたの?」
エリカはマルベリーの方を見ずに冷たい口調で問いかける。
ヘデラは二カ月間、第二皇女の専属騎士として長い時間ともに過ごしたが初めて見る表情に驚いた。
高貴な血筋の人間とはどういうものか、たった二カ月だが傍にいて教えられた。
歩き方、所作、笑い方、口調、どれも優雅で目を奪われる。
そのうえ、美しい顔立ち。
誰もが目を奪われる容姿をしている。
そんな皇女の表情を変えたマルベリーにヘデラは内心羨ましいと思った。
どうせ、この後専属騎士を解任される。
マルベリーが戻ってくる間だけだと思っていたが、できることならこのまま専属騎士を続けたいと分不相応なことを願ってしまった。
「傷跡が消えたので」
マルベリーは顔をあげ、淡々と答える。
エリカはそんなマルベリーの態度が気に食わなかった。
「そういうことを聞いていないとわかっているでしょう。なぜ、私の元に戻ってきたのかと聞いているのよ。そのまま、お姉様のところに行くこともできたでしょう」
「私は第二皇女の専属騎士なので」
事実を淡々と述べているだけだが、その言葉を聞いた瞬間、エリカは怒りが静かに消えていった。
怒りだけでなく感情そのものが消えていった。
「ヘデラ卿」
エリカはマルベリーの目を見つめたまま男の名を呼んだ。
「はい」
ヘデラは突然名前を呼ばれて驚いたが、自然に返事をした。
「少しの間、外してもらえるかしら」
「畏まりました」
ヘデラはこの二カ月で上達した礼を指先まで集中させた。
少しでも二人の目に優雅に映るようにと。
だが、ヘデラが頭をあげると二人はこちらに見向きもせず、互いを睨みあっていた。
ヘデラは急に恥ずかしくなり、その場から逃げ出すように去った。
自分のような身分の人間がたった二カ月、第二皇女の専属騎士になったからといって、何かが変わるわけでもないのに、いつの間にか変な期待を持っていた。
エリカはヘデラの気配が遠くに行ったのを感じると、「でも、あなたはお姉様の婚約者でしょう」と尋ねる。
前世では異母姉の、いや自分と母以外の皇族に忠実な番犬だった。
顔も名前も全て一緒なのに、性格だけが違うなんてことはあり得ない。
エリカは目の前の男の目的が急に知りたくなった。
ただ、ロベリアの嫌がらせのためだけに手元に置いていたが、何を命じても前世とは違い顔色一つ変えずにこなした。
今思い返すと、まるで罰を受けている囚人みたいに思えてくる。
「はい。その通りです。ですが、私の役目は殿下を守ること。それが何よりも最優先でございます」
その言葉を聞いた瞬間、前世のマルベリーが異母姉に向けて言った言葉を思い出した。
今と大して変わらない感情のない瞳で忠誠を誓った。
「殿下にこの身を捧げることを誓います」
誰が見ても男の顔は愛する者に言っているものではなかった。
ただ、皇族に忠誠を誓う貴族の一人。
それだけだったが、周囲で見守っていた貴族たちは今世紀最大のプロポーズだと称えていた。
それさえ言えばいいみたいにいい。
エリカは殺したいほど嫌いな異母姉と同等に扱われた気がして、消えた感情が一気に蘇った。
殴りたい衝動を必死に抑え、冷静さを取り戻す。
強く握りすぎたせいか、手のひらに深く爪の跡が残った。
「そう。なら、私があなたを解放すれば最優先はお姉様になるのね」
皮肉のつもりで言っただけなのに、マルベリーの瞳が一瞬揺らいだ。
気のせいかとも思ったが、見間違いではなさそうだった。




