8話 星火
夜になると、窓から差し込む光が冷たくなる。
それが私のグレーの毛色に当たると、氷のように煌めいた。
普段ならメルと同じ部屋の私専用のベッドに潜り込み、柔らかな毛布の感触に身を委ねるところだ。しかし今夜はどうにもその気になれなかった。
理由は単純だ。
窓の向こうに広がる夜空は、雲一つなく澄み渡り、無数の星が静かに瞬いている。
森の闇に沈みながらも、星明かりだけは確かにそこにあり、まるで世界の光が空に奪われてしまったかのようだった。
私は窓枠に顎を乗せ、尾をゆったりと揺らす。
この光景こそ、私の眠りにふさわしい。そう思わせるだけの、完璧な夜だった。
瞬きをゆっくりして、眠気に身体を預けようとした。
そのとき背後で微かな物音がした。振り返ると、メルがローブを羽織り、そっと扉に手をかけているところだった。
足音を忍ばせ、まるで私に気づかれないつもりでいるらしい。
普段ならポヤポヤと寝惚けている時間なのに珍しい。
夜更けに外出とは、ろくな用事ではなさそうだ。私は目を細め、窓際から動かずに声をかける。
「こんな夜更けに、どこへ行くつもりだ?」
メルは一瞬だけ肩をすくめて振り返った。
戸口に立ったまま、外の闇と私を交互に見やる。
「今夜は星火という魔法素材が獲れるの」
「星火?」
聞き返すと、メルはどこか楽しそうに微笑んだ。
「そう。26年に一度、星渡りの回廊の夜にだけ、地上へ落ちてくる魔力の欠片よ」
私は鼻を鳴らした。
天を横切る光の川。星渡りの回廊と呼ばれる流星群の話なら聞いたことがある。
だが、星火などという素材があるとは、初めて聞いた。
そんな名を持つ欠片が本当に地上に降り注ぐのかと、思わず目を細めて夜空を見上げる。光り輝く夜空を見ると、否定することができなかった。
「しかし聞いたことがないほどの幻の素材か」
「ええ、私以外は採ったことないんじゃないかしら」
メルはそう呟きながら、ふと夜空を見上げた。
流れる星の帯を指先でなぞるように視線を滑らせる。
星の光に照らされた彼女の横顔は、子どものような無邪気さと研究者の自負が入り混じった不思議な表情だった。
「難易度が高いのか?」
「私が入手方法を開発したわけだしね」
「ふん、なるほどな」
天才仕様に組まれた魔法式か。習得できるものは居ないだろうな。
そのうえ、メルが書いた魔導書は、都にはほとんど流通しない。それこそ幻だ。
「しかしそれを拾いにいくのは危険だな」と私が言うと、メルはふんわりと微笑んで首を振る。
「拾いになんて行かないわ。降ってくるのを、待つの」
そう言ってメルは庭へ駆けていく。
「ふん、面白そうだな。見てやるよ、どんなもんか」
私は悠然とクッションの上で姿勢を整える。完全に観戦モードだ。
メルは片手に魔導書を開いた。
紙面には細かな魔法式と、やたらと複雑な陣の図がびっしりと描かれている。
それから彼女は地面に膝をつき、魔導書を傍らに置くと、指先を地面へ伸ばす。
指が触れた瞬間、土の表面がわずかに光を帯びた。淡い魔力の線が、糸を引くように浮かび上がっていく。彼女は円を描き、次に幾何学的な線を重ね、要所ごとに小さな魔法式を書き添えていった。 動きは丁寧で、呼吸に合わせるように一定のリズムを刻んでいる。
魔法陣は次第に複雑さを増し、幾重にも重なる線が、ひとつの秩序を形作っていった。
外周は堅牢な防御魔法。それだけは見て取れる。
だが内側に刻まれた細かな分岐や記号は、私にはほとんど解読できない。
最後に彼女が中心点へ指を置くと、魔法陣全体がふっと呼応するように明滅した。
それからメルは腰のポーチを探り、小さな瓶を取り出した。
手のひらほどの大きさだ。どれを魔法陣の内側に沿ってひとつ、またひとつと並べていく。間隔は均等、配置に一切の迷いはない。数えてみれば、全部で十個ほどだ。
「ここに星火を誘導するわ」
そう言って、瓶の位置を微調整する彼女の横顔は、いつもの阿保な魔女というより、研究者のそれだった。
「なるほど。そういうことか」
私はようやく合点がいき、小さく息をつく。捕まえるのではない。
呼び寄せ、ここへ来るのを待つのだ。あの空から強引に引きずり下ろすより、よほど理にかなっている。
とはいえ、相手は星そのもの。地上を滅しかねない危険な代物だ。
先ほどから描かれているあの念入りすぎる防御魔法陣を見れば、その不安も薄れる。
衝撃を受け止め、熱を逃がし、魔力の暴走を封じる。
あれは失敗を想定した備えだ。メルとは思えない。
私は窓越しに魔法陣を眺めながら、低く鼻を鳴らした。
メルは庭の中央へ進み、静かに深呼吸をひとつした。夜露に濡れた草を踏みしめ、魔導書を閉じると、今度は杖を地面へと突き立てる。
低く、澄んだ声で詠唱が始まった。
言葉とともに、足元に描かれた魔法陣が淡く光り出す。
線は次第に鮮明になり、幾重にも重なった紋様が夜闇を押し返していく。
それに応じるように、空がざわめいた。星々が、ほんのわずかに軌道を変える。
やがて、流れ星がひとつ、またひとつと弧を描き、魔法陣の上へと引き寄せられてきた。
光の尾を引きながら、まるで意思を持つかのように集まってくる。
魔法陣の中心には、あらかじめ用意されたガラス瓶が置かれている。
口を開いたまま、星火を待ち受ける器だ。
メルが杖を魔法陣に押し込むと同時に、星火が一気に収束する。
ガガガッ、と乾いた音を立て、光たちが勢いよく瓶の中へ吸い込まれていった。
光が暴れ、瓶の内側で渦を巻く。
だが、割れない。溢れない。
10個の瓶の中に、ひとつずつ。やがて音が収まり、庭に静寂が戻る。
ガラス瓶の中では、淡い光が脈打つように揺れていた。
上手くいったようだ。
私は目を細め、メルの横顔を見る。
彼女は小さく息を吐き、満足そうに微笑んでいた。
「上手くいくなんて珍しいな」
「ひ、酷い言い草ですね」
「今回も大惨事になるかと身構えていたぞ」
「そんなことにはならないですよ〜」
だが、静寂は長くは続かなかった。
ガラス瓶の中で、星火が激しく暴れ始めたのだ。
すべてが密閉され、逃げ道はない。瓶の内側で光が跳ね、ぶつかり、何度も反射する。
星火は外に出ようとしているのか、それとも単に閉じ込められたことが気に入らないのか。
いずれにせよ、落ち着きがない。光景としては、確かに壮観だ。
庭一面が昼間のように照らされ、影がくっきりと浮かび上がる。
だが、問題はそこではない。うるさい。ガン、ガン、と硬質な音が次々と響き、耳に障る。
眠りにふさわしい夜は、すでにどこかへ消えていた。
「どうした?」
私が慌てて尋ねると、メルは魔導書を開き、対処法を探し始める。
「早くしろ、頭がおかしくなりそうだ」
私は耳を畳み、その上から前脚で押さえつけるが、それほど意味をなさない。
ガラス瓶の中で、星火がまたひときわ強く光った。
しばらくして、ようやくメルは該当箇所を指差す。
「あったわ。瓶に入れる前に、水魔法で鎮静させるのを忘れていたわ」
「阿保。そうじゃなくて、この状況に対処しろ」
「星火が沈静化するまで3日間」
「そ、そんなにかかるのか……」
「そうだわ。ガラス瓶に命を吹き込みましょう」
メルがひらめいたように声を上げる。
「止めろ!」
私は即座に遮った。
ついこの前、動くティーカップでどうなったか、もう忘れたのか。
床を跳ね回り、割れかけ、挙げ句の果てに説教する羽目になったあの惨状を。
まずいな。蓋を開ければ、星火は一斉に逃げ出すだろう。
かといって、このまま暴れさせ続ければ、三日三晩か。
光は強く、衝突音はますます激しくなる。夜はすでに、完全に騒音に支配されていた。
それから私は、耳障りな衝突音を聞き流しながら、静かに思案した。
頭の中で状況を整理し、選択肢を削っていく。
「……まだ、魔法陣は有効か?」
私は声を潜め、地面に刻まれた紋様へと視線を落としたまま問いかけた。夜気に晒された魔法陣は、淡い光を保ったまま、静かに脈打っている。
メルは一瞬だけ言葉に詰まり、指先を胸元に当てて考える素振りを見せたあと、こくりと小さく頷く。
ええ。まだ解除していないもの。効力は維持されているわ」
その返答に、私はわずかに口角を上げる。
「水魔法以外に、対処法は?」
「そうね……」
メルは顎に指を当て、少し困ったように視線を彷徨わせる。
「強い衝撃を与えれば、魔力の流れが乱れて止まるはずだけど……」
「なら話は早い」
私は短くそう言い切り、窓から庭に躍り出た。
あとは実行するだけ。尾がゆらりと揺れる。
「私の合図で、一つずつ、蓋を取れ」
低く告げると、メルが思わず声を漏らす。
「……え?」
戸惑いを含んだその声をよそに、私は視線を逸らさず続けた。
「魔法陣の内側からは、まだ出られないはずだ。一瞬で終わらせる」
その言い切りに、メルの目がわずかに見開かれる。彼女は一度だけ息を呑み、何か言いかけてから、それを飲み込んだ。そして無言のまま、魔法陣の外へと下がる。
私は尾を軽く振り、地面に刻まれた魔法陣へと足を踏み入れる。
結界の縁を越えた瞬間、空気が変わった。ひんやりと張りつめ、魔力が毛の内側をなぞるように流れ込んでくる。
足元で光の紋様が脈打ち、星火たちが一斉にこちらへ反応する。
夜風が一瞬だけ、強く吹く。
私は体勢を低くし、星火の動きを見極める。
この距離、この数、この広さ、問題ない。動きは速そうだが、ひとつずつなら対処できる。
私が門に手をかけると、力が流れ込んでくる。青白い紋様が一気に全身へと走り、雷鳴のような音が私の内側から弾ける。
「……やれやれだ」
「わぁ、相変わらず可愛らしい姿ですね」
「おい、茶化すなよ。クリスタルのお陰で長く立ち回れるとはいえ、間に合うか分からん」
骨格がきしみ、身体がひと回り大きく膨らんでいるのだ。
本来は、こんなところで使うべきものじゃない。
「……よし、いいぞ」
「はーい。ちゃんと順番、あっ」
間抜けな声が漏れると、乾いた音を立てて、瓶の蓋が外れる。
その瞬間だった。
カチ、カチ。軽い音が十回、ほぼ同時に響く。
視界の端で、すべてのガラス瓶の蓋が一斉に外された。
「お、おい!」
反射的に声が荒ぶる。
「ひとつずつって言っただろうが!」
怒鳴るのと同時に、私は地面を強く蹴った。
解き放たれた星火は、抑えられていた鬱憤を晴らすかのように弾ける。
ぱん、と乾いた破裂音が連なり、魔法陣の内側を縦横無尽に跳ね回った。
オレンジ色に輝く光の玉が十個。
互いに衝突し、反射し、軌道を狂わせながら、目まぐるしく空間を切り裂く。
熱が肌を撫で、魔力の波が足元から突き上げてくる。まるで、小規模な爆発が、箱の中で暴れ回っているようだった。
視界が光で埋まり、距離感が狂う。
「うおおおお……!」
吠えながら、私は一つ目に飛びかかる。
空気を裂く感触。星火を掌で掴み、力を込めてねじ伏せる。
一つ。間髪入れず、次へ跳ねる。
星火は素早いが、無闇に飛んでいるわけじゃない。予測できる動きだ。
反射の癖、減衰のタイミング、それを見切る。
二つ、三つ。今度は尻尾で叩く。光が一瞬、視界を焼く。毛並みは逆立ったまま収まらず、風を切り裂いた。
だが構わず突っ込む。四つ、五つ。全身を使って、衝撃を与える。
腕の奥で力が唸り、青白い紋様が脈打つたび、力が研ぎ澄まされていく。
息が上がる頃、ようやく最後の一つを捕まえた。魔法陣の光が、次第に効力を失っていく。
私はその場に座り込み、荒い息を吐いた。
「……回収、完了だ」
私は深く息を整え、星火を瓶の中に一つずつ戻していく。
ようやく庭に、夜らしい静けさが戻った。
焦げた空気も、暴れていた魔力の余韻も、ゆっくりと夜気に溶けていく。
顔を上げると、少し離れたところでメルが立っている。
縮こまってはいない。むしろ肩の力が抜け、腕をだらりと下げたまま、終わったぁとリラックスした顔だ。達成感と疲労がない交ぜになったような、悪びれない表情。
私はゆっくりと歩み寄る。
「……なあ、メル。ひとつずつと言っただろう」
低く呼びかけると、彼女はこちらをちらりと見て、気まずそうに笑った。
「あはは。ちょっと、張り切りすぎましたね」
「張り切るな。ちゃんと話を聞かないからこういうことになるんだ」
「ごめんなさい。分かっていますよ」
メルは肩をすくめて、首の後ろを軽く揉んだ。
「でもほら、結果的にはうまくいきましたし……」
「勢いでめちゃくちゃするな」
ぴしゃりと言い切ると、彼女は一瞬きょとんとし、それからふっと息を吐いた。
反省しているのか、していないのか。
私は小さく鼻を鳴らし、尻尾を一度だけゆらりと振る。
するとメルが訊ねてきた。
「例のクリスタル。問題はないですか?」
私が首元に手を置くと、ひんやりとした感触の奥で、魔力が静かに脈打っているのが分かる。
メルはすぐに表情を引き締め、私の首元へ視線を落とした。
「……うん、大丈夫そうね。過剰な逆流もないし、共鳴も安定してる」
彼女は安堵したように、小さく息を吐いた。
「ちゃんと受け止めてくれてる。よかった」
「そうか」
短く答えて、私は踵を返す。
星明かりの下、窓際へと戻り、いつものクッションに身を沈める。
夜風が毛並みを撫で、さっきまでの騒ぎが嘘のように静かだ。
「次にやったら、星火より先に封じ込めてやるからな」
「はーい、肝に銘じます」
軽い返事を背に受けながら、私は目を閉じた。
今度こそ、本当に静かな夜だ。




