15話 魔女
魔女はメルを前にして、ふとたじろいだ。
攻撃が防がれるとは思っていなかったのか、あるいはよそ見をされたことに苛立ったのか、表情が一瞬だけ乱れる。彼女は杖をぎゅっと握り直し、メルを鋭く睨みつけた。
「見ない顔だな」
「引きこもりですから」
メルの返答はいつものように軽いが、どこか冷ややかさがあった。
魔女はメルを舐めるように観察すると、口角を不敵に上げて続ける。
「ただの引きこもりに私の攻撃を防げない」
その言葉とともに、魔女の周囲の空気が冷たく引き締まる。
雨粒が一瞬止まったように見え、庭の空気が鋭く澄んでいく。
「名乗りなさい。お前ほどの魔女の名が知られていないわけがない」
「お断りします。目立つのは苦手です。それに……」
メルもゆっくりと杖を構える。
「あなたに名乗るような名前を持ち合わせていません」
メルが言い終わる前に、魔女の杖先から鋭い光が放たれた。
だがそれも、メルはあっさりと防いだ。まるで透明な壁がそこにあるかのように、魔女の魔力は弾かれ、空間に小さな破片のような火花が散った。
防御魔法だろうが、発動までの予備動作がほとんどない。普段は呆けているが、ここは任せて良いだろう。
空気が揺れ、雨の音が断続的に乱れる。魔女は眉を寄せ、メルは目を細める。
互いの魔力がぶつかり合い、庭の空気は激しく波打った。
私はその間に、霆鳥の下へと向かった。
普通なら近づくだけで電気が走り、雷が落ちるだろうが、今は明らかに消耗していて、こちらに気を向ける余力もないように見えた。
念のため気配を消し、足音を殺して近づき、やがてその巨体の羽根伝いに体を登っていく。
近づくほどに、その大きさに息を呑んだ。羽毛の一本一本が人の背丈ほどもあり、翼の付け根はまるで小さな丘のように盛り上がっている。まるで山を一つ越えているような感覚だった。
メルのちんまりとした家など、比べものにならない規模だ。
ようやく顔のあたりまで辿り着くと、私はそっと雛を差し出した。
霆鳥の体はまだ震えているが、目はしっかりとこちらを捉えている。
「大丈夫だ。お前のとこのガキだろ」
声は低く、無理に優しくしたわけではなく、ただ事実を伝えるように言った。
霆鳥は一瞬だけ目を細め、私の手元と雛を交互に見やった。
警戒の糸がゆっくりとほどけるのを感じると、羽を大きく広げていた肩をゆっくりと折りたたみ、まるで子を包み込むかのように翼を回した。
羽の内側からは温かさと湿り気が伝わり、包まれると同時に世界が柔らかく沈むようだった。
私はその羽に深く入り込むわけにはいかない。雛を確かに親の胸元に下ろす。するとくちばしでそっと雛を受け止め、羽の中へと引き込んだ。雛は一瞬だけ鳴いてから、親の羽の中で小さく身を寄せた。
よし、私の任務はこれで終わりだ。
私は素早く体を翻して、羽根の流れに沿って滑り降りるようにして地面へ戻った。
ほんの少しだけ、雨が弱まった気がした。
それは霆鳥の機嫌が和らいだ証かもしれない。天候に影響を及ぼすほどの存在、やはり規格外だ。
だが、それを追い詰めるあの魔女の腕前も相当なものだろう。
私は空を見上げ、メルの戦況を見つめた。
彼女の周囲で魔力が渦を巻き、光と影がぶつかり合う。遠くからでも伝わる緊張感に、胸がざわつく。
「雛を匿っているだなんて、あなたも霆鳥が目当てだったの?」と魔女が問いかける。
メルは一瞬だけ顔をこちらに向け、雨に濡れた髪を指で払った。
「いいえ、怪我した雛を手当てしただけです。あれも貴方がしたんでしょう?」
メルは視線を霆鳥の方へ移し、小さな雛が親の羽に包まれているのを確かめる。
「ええ、霆鳥の防御が堅くて狩りが面倒だったから、守っていた巣を攻撃したら手っ取り早く隙がつくれたの。雛がいたとは気づかなかったわ」
魔女の声が鋭く響き、霆鳥の低いうなりが返る。
「ここまで追い詰めて、もう少しで殺せたというのに。邪魔をしないでくれないかしら」
そう言って魔女は、霆鳥に狙いを定める。
「炎天彗撃…!」
杖を振りかざすと、魔女の背後から数えきれないほどの隕石のような火球が出現し、上空から降り注いでくる。
「氷晶結界」
メルの周囲に氷の壁が出来上がり、火球を撃ち落としていく。
しかし量が多くて、全て防ぎきれていない。
火球はそのまま霆鳥へと向かっていく。
「チッ……」
私は力強く地面を蹴り、隕石の正面に到達すると、猫パンチで相殺する。
量に振り切っているせいで、威力は大したことはないが、今の霆鳥には大ダメージになりかねないな。雛にあたれば、致命傷だ。
「まったく、考えなしにぶっ放しやがって」
私が魔女を睨むと、目が合った。
好奇の目。
あぁ、こいつも知っているくちか。目立つべきではなかったな。
「あれは靈魔猫? 初めて見たわ」
「うふ、可愛いでしょ」
「ええ、霆鳥のついでに狩っていこうかしら」
私は思わず飛びかかる寸前だった。その発言だけでも侮辱的だ。
「……つまらん冗談だな」
メルに任せただけで、もともと私もお前に腹が立っているんだ。
しかし爪を立てて前傾姿勢になる寸前で身体が止まった。背筋を走る冷たいものに、全身の力が一瞬で引き絞られるようだった。
背中越しで表情は確認できない。
ただメルの周りの空気がガラッと変わった。電撃が走ったかのように引き締まり、杖の先に雷が宿るのが見えた。
「させないわ」
その声は低く、抑揚のないものだった。
次の瞬間、メルの杖から放たれた雷が空気を切り裂いた。
これまでの攻撃とは、比べものにならないほどの、凄まじい威力。雷光が空全体に広がり、空間をねじ曲げ、雷鳴が轟いた。
魔女は驚愕の表情を浮かべ、叫びを上げる間もなく、放たれた魔力の反動に押し戻されるように後ろへ崩れた。
魔女の杖は粉々に折れ、魔女の影はぱたりと消えた。周囲に渦巻いていた冷気と刃のような光が、まるで風に吹き消された火の粉のように散っていく。
霆鳥はメルの魔法に呼応したように、低く唸りを上げ、羽をぎゅっと畳んで雛を守りに入る。
雷光がなくなり、視界が明瞭になると、魔女がいたはずの場所には、曇天の雨雲しかなかった。雨音だけがしばらくの間、異様に大きく聞こえた。
私は膝の力が抜け、へたり込む。
いくらメルが作ってくれたアクセサリーの魔具があるとはいえ、長時間だとやはり疲れる。
胸の奥で重く安堵する気持ちがのしかかってきて、大きく息を吐いた。
上空にいたメルも息を整え、静かに霆鳥の方を見た。その瞳には、さっきまでの冷ややかさはなく、いつもの気の抜けたような表情だけが残っていた。
雛は親の羽の縁でちょこちょこと動き回り、私の指先にじゃれつくようにくちばしを擦りつけた。親の大きな羽の間で安心しきったその仕草は、まるで「見ていて欲しい」とでも言うように、何度も小さく羽をばたつかせる。
私が軽く手を振ると、それを真似するように小さな翼をぱたぱたと動かした。遊び半分、練習半分。雛は親の動きを真似て、飛ぶ真似を繰り返す。
霆鳥はそんな雛をじっと見守り、時折低く唸りながらも羽をゆっくりと広げて子を包むように動く。
親の羽の温もりに包まれた雛は、安心したように目を細め、またすぐに好奇心を取り戻して羽を震わせる。私たちの間に流れる緊張が、ほんの少しだけ柔らいだ。
やがて雛は、これまでより少しだけ力強く翼を振った。小さな羽が空気を掴む感触を覚えたのか、体がふっと軽くなり、親の羽先からふわりと浮き上がる。最初は数センチ、次にもう一度羽ばたいて、今度は親の背を越えて小さな弧を描いた。
風が雛の羽を撫で、雨粒がその軌跡を淡く光らせる。
霆鳥は一瞬だけ警戒の声を上げたが、すぐにそれは喜びに変わった。親は翼を広げ、子の進路をやさしく導くように空気を切った。雛は親の後を追い、ぎこちないながらも確かなリズムで羽ばたきを続ける。庭の上で二羽は短い練習飛行を繰り返し、やがて霆鳥が高く舞い上がると、雛もそれに続いて空へと伸びていった。
私とメルは窓辺で息を呑み、ただその光景を見送った。雛が小さな影となって雲間に溶けていくと、霆鳥は一度だけ低く鳴き、羽を大きく広げて空を切った。雨はさらに弱まり、空に差す薄い光が二羽の輪郭を淡く縁取る。
それから私は窓辺の方を振り返り、広くなった棚の上を、まじまじと見つめて、ホクホクとする。
メルが窓際に寄り、濡れた髪を指で払ってから私を見た。
「行っちゃいましたね」
「礼のひとつもないとは、なんて奴だ」
「いつかまた会えるわよ」
「は?」
私はぴくりと耳を揺らし、あからさまに顔をしかめる。
「誰がだ。あんなの、二度と顔を見たくないね」
「ふふ、そういう言い方する時って、大体そうじゃない?」
「決めつけるな。論理が飛躍してる」
「寂しいんでしょ?」
「ようやく邪魔者がいなくなったんだ。寂しいはずがない」
しつこいなこの阿呆は。
面倒くさくなって、私は話題を変える。
「それよりも、メル。あんな魔女程度なら、さっさと倒せただろ。エンジンがかかるのが遅過ぎだ」
「すみません、同族と戦うのは久しぶりでしたから」
メルは困ったように眉を下げ、申し訳なさそうに微笑む。
「まったく甘いんだよ、お前は。敵は敵だろうが」
「そうなんですけど、彼女のことも知っておく必要があると思って、少し躊躇してしまって」
たしかにあの魔女はなかなかの手だれだった。素性を調べておく必要もあっただろう。
今回はメルが消し炭にしてしまったわけだが。
私は小さく鼻を鳴らしながら、ゆっくりとそこへ歩みを進めると、クッションに寄りかかる。
「躊躇してる間に燃やされてたらどうするつもりだ?」
「そんな物騒なこと、言わないでくださいよ」
「危うく霆鳥に攻撃が当たっていたぞ」
「はい。でも、そう言いつつタズもちゃんと雛を守ってくれましたよね?」
「そりゃ、私もあの魔女にはムカついていたからな。あの鳥を助けたかったわけじゃない」
「そうですか」
メルは私の顔を覗き込んで、にんまりとする。その態度がイケすかない。
ただそんなことに突っかかっていても、体力の無駄だ。
私はクッションに顔を埋めて体を休める。いつもより静かで、少し落ち着かない。耳を澄ますと遠くでまだ雷鳴が低く唸っている。その音はどこか温かく聞こえた。




