第74話
査察官ヘーゼル・カーヴィルは深く息を吸い込み、広間に響き渡る声で告げた。
「ガンジ殿。本部よりの通達を伝える。アルミル支部の新たなギルド長として、再び君に任を託す。――再度、君に期待している、とのことだ」
その言葉に、広間がざわめいた。
一瞬にして緊張が走り、誰もが耳を疑った。だが、続いた言葉がその疑念を払拭する。
「以前、君が罪を着せられ、長を追われた件について再精査が行われた。結果、あれは左遷された貴族らが仕組んだ狂言であることが判明した。
さらに、君の声を無視してマーキアドを就けた役職者どもも、甘い蜜に誘惑されたと自供し、すでに左遷の処分を受けた」
広間にいた職員や冒険者たちの間から、抑えきれぬ嗚咽が漏れる。
それは歓喜であり、無念をようやく解き放つ涙でもあった。
ガンジは黙って頭を垂れた。
かつての理不尽な追放を、彼は決して言い訳しなかった。
――反発したギルド職員や冒険者たちが、不審な怪我を負い、ある者は命を落とした。
――罪なき者たちが犠牲になるのを見かね、彼は相談役という立場に甘んじ、ただ耐えた。
「俺が黙っていれば……皆を守れる」
そう信じて。
だからこそ、彼のために泣いてくれた仲間の想いを裏切らぬために、心を殺して生きてきた。
その長い沈黙と苦悩が、今ようやく終わろうとしていた。
ヘーゼルは小さく笑みを浮かべ、言葉を重ねる。
「蜜病……奇しくも、甘い蜜に群がった者たちが淘汰されたのと同じ名を持つ病が、この街で駆逐された。まるで喜劇として仕組まれたような終幕だと思わんかね」
「……そうですな」
ガンジはしみじみと頷いた。
それはただの皮肉ではなかった。
街の人々が力を合わせ、理不尽な支配と病の恐怖に打ち克った――その勝利の象徴でもあったからだ。
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査察官ヘーゼル・カーヴィルからガンジの再任が告げられた瞬間――街は震えた。
それは驚きではなく、待ち望んだものをようやく手に入れた歓喜の震えだった。
「やっと……やっと終わったんだ……!」
「マーキアドめ……あれほど好き勝手に……!」
かつてのギルド長、マーキアドは冒険者ギルドを私物化し、己と取り巻きのために利用してきた。
それを訴え出ようとした者たちはどうなったか。
――同じ甘い蜜を啜る行政官たちは取り合わず、
――送った手紙は行き先で封を切られ、証拠ももみ消され、
――牢に引きずり込まれ、拷問の末に「狂言である」と自白を強いられた。
その後は首から鉄板の「罪人」の札を下げられ、街中を引き回される。
人々に見せしめるために。
それを見た者たちは、声を失った。
誰もが沈黙を選び、ただ耐え、祈ることしかできなかった。
だが――それも、今日で終わった。
「うおおおおっ!」
「ギルドは……ギルドは帰ってきたぞ!」
「ガンジさんだ! 俺たちのギルド長だ!」
街のあちこちから声が上がる。
喜び、涙、笑い、抱き合う姿。
その全てが、長きにわたり燻り続けた人々の想いの解放だった。
街に平和が戻った。
それはただの安堵ではない。
長く押し殺されていた住人たちが、堂々と声を上げるに足る理由だった。
――街は取り戻した。
理不尽を許さない未来と、声を上げられる誇りを。
そして人々の視線は、残りの感染症対策を慌ただしく進める橘花へ自然と集まる。
五年前、未知の敵から世界を救ったのも鬼人族。
そして今、病と腐敗から街を救ったのもまた、鬼人族。
ガンジの胸に熱いものがこみあげる。
「世界が望んだのは、きっとこういう在り方なのだろう」
彼は拳を握りしめ、涙を堪えた。
この瞬間、街は確かに一つになり、新たな歩みを始めたのだった。
その一方で、椅子に崩れ落ちたマーキアドは、血のにじむほどに唇を噛みしめていた。
「……なぜだ……。娘を守ることが、そんなに罪だというのか……」
それは確かに言葉だった。だが、誰一人として答える者はいない。
なぜなら彼が守ったのは「娘の命」ではなく「娘の気まぐれと虚栄」だったからだ。
彼にとっての『守る』とは――
娘の欲しいものを奪ってでも与えてやること、
娘にとって邪魔な人間を消し去ること、
娘の誇りを少しでも傷つける声を封じること。
その全てを、愛だと信じて疑わなかった。
「……私が、何を間違えたというのだ……! 父が娘を甘やかして、何が悪い!」
震える声は哀れにも開き直りに変わっていく。
それは、今しがた群衆の口から放たれた怒号や歓喜とはまるで噛み合わぬ、空っぽな独白。
傍から聞けば聞くほど、彼の「罪」に対する理解は見当違いであり、その滑稽さは、むしろ哀れみすら誘うものだった。
――結局、この男は最後まで「己と自分の娘のこと」しか見ていなかったのだ。
奥のギルド長室から聞こえる駄々っ子のような言い訳に、冒険者たちの間に嘲りにも似た沈黙が広がる。
もはや彼の声に耳を傾ける者はいない。
その孤独さえ、本人には理解できぬまま。
⸻
【後日、橘花のひとり反省会】
「……え? ガンジさん、元ギルド長? で、マーキアドが後ろ暗い貴族? え、マジで?」
後になって事情を聞かされた橘花は、その場での話を軽くしただけで切り上げた。
部屋に入りひとりになると、思わずその場で額を押さえた。
脳裏に蘇るのは――あの場面。
(あれの前で私、思いっきりキレてたよな……)
怒鳴ってはいないけど威圧を込めた恫喝に近い言葉を投げ、ついでに睨み合い、あわや掴みかかる寸前。
あと一言、琴線に触れる言葉をあの狸が吐いたら、殴り飛ばしていたかもしれない。
(あー……絶対まずいやつだった。いや、でもあれは仕方なかったろ! あの時点での私は“ただのギルド長”が横暴してるって思ってたんだし! ……でもなぁ……ガンジさんは何も言わず耐えてたのに……私、ひとりで先走って空気ブチ壊してない?)
確か、最初の頃に受付にいたギルド職員のマリアに色々と教えてもらったけれど、それは世間話程度でちゃんと覚えていなかった。
悶々としながら部屋の中でひとり悶絶。
「……はぁぁぁぁ……でも後悔はしてない!」
そう言い切って、どこかスッキリした顔で天を仰ぐ。
「私は私だし。むしろミブロ一番隊隊長の看板背負ってんだから、ああいう時に黙ってられるかってんだ!」
言いながらも、ちょっとだけ頬をかく。
――次からはもう少し、加減しよう。
そう、心の奥でこっそり小さな決意をした橘花だった。
歴史的補遺
後世の史家たちは、この時の橘花の振る舞いをめぐって、二つの大きな見解に分かれている。
ひとつは――
「橘花は無鉄砲なまでに正義漢であり、己が身を顧みずに立ち上がる性格であった」説。
もうひとつは――
「彼はミブロという治安維持組織の一員としての責務を背負っていたため、たとえ一人でも横暴に立ち向かう覚悟を常に持っていた」説。
どちらの陣営も数多の文献を掘り起こし、膝を突き合わせて論戦を繰り広げている。
「正義感の人か、組織の矜持か」。
論じる彼らの目は真剣そのものである。
――しかし、誰も知らない。
当の橘花が、あの場で本当に思っていたことは、ただひとつ。
(いやもう、人道的な話しすら通じん奴にキレちまっただけなんだよな……!)
後の学者たちの熱い議論を横目に、歴史の向こうで橘花はきっと苦笑しているに違いない。
「正義でも覚悟でもなく、ただ我慢ならんかったんだ」
――そんな真相は、歴史書には記されていない。




