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Pandora Ark Online.  作者: ミッキー・ハウス
蜜病狂騒編
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第72話

昼も夜もなく続いた調合作業は、ようやく成果を見せはじめた。

一つ、また一つと成功品の試験管が並ぶたび、仲間たちの顔にわずかな安堵が浮かぶ。


机いっぱいに広がった青い液体は、一部の区画に配れる量となった。

その光景に橘花は胸を撫で下ろす。

だが――本当の地獄はここからだ。


「……配布を始める。最初に届けるのは、赤に判定された者たちだ」


声に迷いが滲むのを悟られないよう、橘花は言い切った。

症状確認と隔離管理を言い渡した時、診察した患者を布の色で判別する方法を喜んで取り入れたいと言っていた医者たち。それの本当の意味を、彼らはこれから知る。


――赤。節々の痛みを訴える中期感染者。

――黄。容体は安定しているが治療が必要な初期~中期症状者。

――緑。初期症状あり、自力で生活可能な者。

――黒。吐血した末期症状の者。


橘花は医師たちに「トリアージ」の概念を説明する。

優先度として赤、黄、緑、最後に黒――。

その言葉に、空気が一瞬で張り詰めた。


「黒は末期だぞ! それを最後になんて……患者を見捨てろというのか!」


医者のひとりが叫ぶ。

涙に濡れた瞳は、必死に誰かを守ろうとする人間そのものだった。


だが橘花は、心から理解していた。

ここで情に流されれば、助かるはずの命すら巻き添えにしてしまう――と。


喉が焼けるように痛い。胃がねじ切れるほど苦しい。

それでも口にした。


「……なら、お前が次の感染源になるのか?」


冷酷に言い放った瞬間、医者は泣き崩れた。

黒に判定されたのは――彼の家族。

その事実を知りながら、突き放すように告げた言葉が橘花の胸を深く抉る。


(……分かってる。分かってるんだ)


なぜなら、橘花自身もかつて“選ばれなかった側”に立たされた経験がある。


――幼い頃。

山間の街を襲った鉄砲水に呑まれ、祖父母とともに流された。

必死に手を伸ばしたが、押し寄せる濁流に掻き消され、次に目を開けたときには瓦礫の中。

祖父母は助からず、橘花だけが救助隊に引き上げられた。


そのとき耳にした言葉――


「若い子を優先しろ」

「年寄りは……後回しだ」


幼い心には、見殺しにされたという苦い記憶だけが残った。

だからこそ、泣き崩れる医者の気持ちは痛いほど分かる。

目の前で家族を選別される苦しみを、誰よりも知っているからだ。


(本当なら、私なんかがこの役をやるべきじゃない……)


叫び出したい衝動を、奥歯を噛み締めて飲み込む。

だが同時に理解もしていた。

あの日、自分が助かったのは、誰かが冷酷な判断を下したからだということを。


(……だから、私は言うしかない。憎まれても、嫌われても)


街を守るために。

そして、今度は、自分があのとき失ったものを誰かに背負わせないために。


橘花は視線を逸らさず、震える手を必死に握り締めた。

私は英雄でも医師でもない。ただの一般人だ。

それでも――この街を守るために、冷酷な役を演じなければならない。


やがて初級ポーションを持った配布班が走り出した。

指定された区画で待つ最初の配布者たち。門番や住民代表が薬を受け取るたび、張り詰めていた空気が少しずつほどけていく。


「……これで、助かる」

「本当に……ありがとう」


その声を配布班の一人から聞いた瞬間、橘花の肩がわずかに震えた。

救ったはずの命の数を誇ることはできない。

けれど、あの言葉こそが――橘花にとって唯一の報酬だった。



――トリアージ。


現実世界でウェンツたちも聞いたことのある言葉だ。

医療ドラマではよく登場する。

最初はただの振り分けだと思い、深く考えずに見聞きしていたウェンツたち。


しかし今――


「なぁ、症状的に黒の人からの方が……」


こそっとロイヤードがウェンツやエレンに耳打ちする。

頭では理解していても、感情は揺れる。

黒――末期の患者から先に手を施したいという思いが、理屈より先に心を動かすのだ。


だが現場では、理屈より優先すべきものがある。

ソータが冷静に声を張る。


「ダメだよ。初級ポーションが足りない状況で黒の人から配布したら、赤の人が次の黒になる。誰も助けられない」


その言葉に三人は息を呑んだ。

ただの理屈ではない。命の重さが、ここで決まる。


「何のために橘花さんが憎まれ役を買ってくれてると思ってるの。この間にも、ぼくらは一本でも多く初級ポーション作らないと」


ソータはそう言うと机に向かい、調合スキルを使い始めた。

ドラマでしか知らない命の選択。

いち早く橘花が悪役をかった意図に気付いたソータのその背中に、決断の重さを感じる。


ウェンツたちも机に向かい調合を始める。

命を助けられずに嘆く医者たちと繰り広げられるやり取りに、四人は固唾を飲んでただ聞き耳を立てているしかない。

理屈では理解していても、目の前で泣き崩れる医者と、優先順位に従って動く橘花――その対比が胸を締めつける。


(――これが、命の現場の現実か……)


ウェンツは拳を握り、エレンは唇を噛みしめた。

ロイヤードはわずかに目を伏せ、ソータの手元に一本完成した初級ポーションを見る。

目の前の一瞬一瞬に、助かる命と失われる命がある。

その重みを、四人は初めて肌で感じた。


橘花の冷静さと厳しさは、単なる冷酷さではない。

すべては、この街の命を守るため――そのための苦渋の選択なのだ。


嗚咽が響く調合室で四人は現場の厳しさと、人の命を守るために必要な覚悟の重さを、深く胸に刻んだ。

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