第50話
村襲撃の数分前。
影がひとつ、目にも止まらぬ速さで森を駆け抜けていく。
その軽やかな影の正体は、橘花だった。
常人には異常とも言える速度だが、本人はそれに気づいていない。
ただ、マーカーが示す目的地を目指してひたすら走り続けているだけだった。
急いでいるわけではない。
息苦しさもほとんど感じず、後ろの景色が流れていく。
障害物があれば体を少し傾けて避けるだけで、まるでゲーム画面を見ながら小さな操作だけをしているような感覚だ。
本来なら休憩を挟むべき距離でも、ゲーム感覚でそのまま進もうとしている。
ただし、ゲームとは異なるものも確かに存在した。
「ギギッ!」
「ちょっ、いきなり出てくんなー!」
「ギギィッ!?」
突然、目の前に飛び出したレッサーラビットを避けようとしたものの、飛び越え損ねて思い切り踏みつけてしまった。
急に止まれないのは、人も車も同じだ。
数メートル進んで止まると、踏みつけた罪悪感にかられて橘花は戻った。
「あっちゃー……先制攻撃に含まれるのかな、これ。レベル差あって即死かぁ」
たぶん、頭か首あたりを踏んだのだろう。
そこには白目を剥いて伏せたまま動かないレッサーラビットの死体があった。
ゲームならHPゼロで魂魄が宙にフェードアウトし、敵の体は消える。
アイテムは自動的にイベントリに入るが、今は剥ぎ取りが必要で、所持品が減っていく。
何度か倒して感覚は慣れたが、剥ぎ取りはまだまだ苦手だ。
それに、踏みつけた状態でイベントリに入れるのも抵抗がある。
誰だって死んだ動物を自分の鞄に入れたくはないだろう。
食材としての肉と、死骸としての感覚は別物だ。
そこはツッコまないでほしい。
「つーか、前に俺の腕に穴開けたレッサーラビットより一回り小さい気がするな。個体差かな?」
牛ほどの大きさなので目測だが、最初に戦ったあのレッサーラビットの爪傷はトラウマ級だった。
あれはこっちでの初戦闘だったせいもあり、強烈な印象を残している。
あのときはイベントリに入れたくなくて、担いで帰ったものだ。
今回は目的地へ向かう途中で、無駄な荷物は増やしたくない。
イベントリに入れれば問題はないのだが、やはり気が進まない。
「すまん!」
両手を合わせて謝罪すると、アイテム欄からスコップを取り出し、せっせと穴を掘る。
即席の墓を作って、レッサーラビットを埋めた。
これがコンピューター相手なら、迷わず捨てていたはずだ。
だが、リアルに近い世界で命を奪った罪悪感は違う。
駆除の名目で倒した時とは感覚が異なる。
要は、橘花の気持ちの問題なのだ。
巨体を埋め終えると、再度手を合わせてから走り去る。
マーカーの近くに差し掛かると、橘花は速度を落とし、村の入口の目印を探し始めた。
昼間だ。誰か見張りがいれば声をかけてくれるだろうと考えていた。
ーーーー村の入口の柱に寄りかかるように倒れている青年の姿を見つけるまでは。
「ん、なんだ、昼寝か? これだけ天気がいいからな、わからなくもないけど……まったく。おーい、そこの青年! 見張りになってないぞーぅ」
前に来たときにあれだけのことがあったのだから、さすがに自分の顔くらい覚えているだろう。
そんな思いから気安く声をかけたが、数十メートルも離れているせいか、青年はまったく起きない。
「これは本格的に寝入っているな……」と肩を竦め、忍び笑いを漏らしたその瞬間だった。
鼻をかすめた錆びた臭いに、橘花はふと周囲を訝しげに見渡す。
「なんだ?」と首を傾げる。
森の中で、緑と土の匂いしか感じられない。
さっきのレッサーラビットのものかと思い服を確かめても、臭いの元と思しきものは付いていなかった。
この体になってから、女性特有の匂いも消えたはずだ。兆候もない。あったら逆に怖いが。
ふと風が吹き、錆びた臭いが一層強く香り立つ。
村の中から吹き抜けてきたその風に、戦の匂いが混じっていることに橘花は眉をひそめ、嫌悪感を覚えた。
鬼人族の鋭い嗅覚が、これまで感じたことのない危険信号を発した。
理解できなくとも嫌な予感は額の汗となって滲み出す。
いつの間にか刀の柄を握りしめ、心臓は早鐘のように高鳴っていた。
恐ろしいまでの緊張が体を支配している。
だが、なぜか。
まるでゲームのキャラクターがイベントの進行条件に縛られているかのように、橘花は一定の距離までゆっくりと歩みを進めた。
青年の側に近づくほど、匂いは鮮血の湿り気を伴い、一層強くなった。
橘花は息を飲んだ。
見なければ……そんな後悔は、もう遅い。
青年はすでに息絶えているだろう。目は見開き、腹からは何かがはみ出している。
その異形を見ようと視線を動かしたが、無理に逸らす。
目を閉じ、気持ちを落ち着けようと試みるも、呼吸は浅く、歯を食いしばっていた。
淀んだ水の臭い。湿った空気。朽ちた生き物の匂い。
フラッシュバックする、忌まわしい光景。
――――大丈夫。これは、あの人じゃない。
どこからともなく、幼い声が耳の奥で囁いた気がした。
「……は、はぁ、はぁっ」
冷や汗をかきながら、脳裏に浮かぶ映像を無理やり押し込める。
どうにか……何かを……助けなければ……。
焦燥と混乱のなかで、まともな判断はできない。
現実の感覚を置き去りにしたまま、橘花はイベントリからアイテムを取り出した。
戦闘不能のキャラクターを全回復させる万能霊薬だ。
医療の知識も技術もない橘花にとって、これが唯一の手立てだった。
指を切った時は回復薬で傷口が塞がった。ならば万能霊薬も効くかもしれない。
一縷の望みをかけ、恐る恐る青年に近づき、霊薬を傷口にかける。
重点的にかけるが、青年の服は濡れるばかりで変化は起きない。
この世界に来てかなりの時間が経つ。
現実と同じように使用期限が切れている可能性もある。
効果がないのかと試すため、自分の指にわざと刀で傷をつけ、最後の一滴を塗る。
すると傷は瞬く間に塞がった。
「なんで……」
自分の指は治るのに、青年には何の変化も現れない。
蘇生には飲ませる必要があるのかもしれないと考え、橘花は弟に教わった方法で青年の口を開け、霊薬を流し込む。
手を離すと、口の隙間からぽたぽたと液体が零れ落ちるばかりだった。




