第49話
――――自衛のために使え。
空耳かと思った。
しかし、師匠の声がどこかで確かに響いた気がして、ペーターは無意識のまま短刀を鞘から引き抜いた。
そこからはもう、我武者羅だった。
戦闘経験など皆無のペーターに、頭で考える余裕はない。
ただ教わった動きを体が覚えているままに、少しだけ横にずらして目の前の銀色の塊を受け流すことだけに集中した。
ギャリギャリーッ──
耳元で鉄が擦れる嫌な音を聞きながら、渾身の力でその重い塊をガキンッと押し返す。
「なっ!? 餓鬼が俺様の剣を弾いただとっ!?」
「これは師匠直伝、『居合い斬り』ぃぃいーっ!!」
ペーターが短刀を振り抜く。シュッ、と風を裂く音が響いた。
届かぬと判断したベルゼは一歩下がり、嘲笑した。
「届かねえぞ、餓鬼がっ」
だが、笑い声が腹に響き、ベルゼは自分の体を見て仰天する。
最強を誇るはずの赤竜の鎧が、右半分、脇腹から正面にかけてパックリと割れていた。
痛みが全身に走る。
「があああっ! くそがっ、平民風情がっ、ゴミ屑がっ、俺様に手傷を負わせただとぉぉおおおおっ!?」
「くそっ、もう一発、居合いぎ―――ッ!?」
ベルゼの驚愕と怒りの声を、怯みと判断したペーターが追撃にかかる。
しかし、見えない速さで大きな手が短刀を握るペーターの手を掴み、そのまま持ち上げた。
ゴッ!
顔面に激痛が走る。鼻をベルゼの大剣の柄頭で殴られたのだ。
痛みにもがき、息苦しさで短刀を放り投げ、ペーターは地面に転がった。
「舐めるなよ、餓鬼がっ。簡単に殺してやらねえぞ。じっくり嬲り殺してやる!」
冒険者ギルド所属、戦闘経験豊富なベルゼは、子供の刃物ごときで怯むはずもない。
転がるペーターに怒声を叩きつけ、手にした黒塗りの短刀を見る。
赤竜の鎧を貫通し傷つけるほどの逸品。
己のものになると思えば、腹の痛みも幾分和らぐような気がした。
後方では魔人と格闘中の新人たちがまだ苦戦している。
ベルゼはそれを後回しにし、ペーターの懐にあるはずの鞘を奪おうと身を屈めた。
「だめっ! それは、きっかからのなのー!」
幼い声が響いた。
ベルゼの短刀を握る手に、小さな影が飛びかかり噛みついた。
律だった。逃げたはずの妹が、死角からの奇襲をかけてきたのだ。
ペーターもベルゼも、その光景に呆気に取られる。
律の小さな口は、短刀を持つベルゼの手の小指と薬指にかろうじて噛みついた。
手袋もなければガードもない部分を咬まれ、ベルゼは思わず短刀を放した。
律は噛みつきながらしっかりと柄を握っていたため、柄が放たれると勢いよく後ろに倒れ込む。
短刀はベルゼの手から離れたが、状況が好転したわけではない。
「ケフッ、なん……どぅ……にへろ……りふぅっ……!」
なぜ戻ってきた。
どうして逃げなかった。
逃げろ、律。
ペーターは鼻の痛みに喘ぎ、声も出せず地に伏したままだ。
律は短刀が自分の手にあることに安堵しているようだった。
見る者がいれば、思わず「何をしているんだ、馬鹿!」と叫びたくなる状況だった。
「律っ! 逃げなさいっ!!」
遠く離れた場所から、蹴られたダメージで動けないマーリーの声が叫ぶ。
母の声にようやく律は我に返り、短刀を握ったまま視線を母と兄へ交互に向けた。
苦しんでいる母と兄を置いて逃げることなど、律の中にはなかった。
それが致命傷となる。
「この餓鬼がぁぁあああっ!」
見えなかった方向から伸びた大きな手が律の顔に迫る。
恐怖に染まる律の視界は完全に塞がれ、短刀を握り締めて震えることしかできなかった。
「いやぁあっ、やめてぇぇええええっ!!!」
マーリーの悲鳴が響く中、冷たい何かが腹を貫く衝撃を感じた律は、そこで意識を失った。
† † † † † †
小さな体を貫通し、大剣がズルリと引き抜かれる光景を、ペーターは目を見開き呆然と見つめていた。
何に対する怒りなのか悲しみなのか、渦巻く感情で涙が溢れる。
「手間かけさせやがって……あ、くそっ」
ベルゼは面倒そうに律の手から奪った短刀を見つめ、悪態をついた。
守ろうとした短刀は柄の根元からポキリと折れ、粉々になっていた。
大剣の衝撃に耐えられなかったのだろう。
「売れもしねぇ」と言い捨て、柄だけになった短刀を投げ捨てる。
マーリーは声も出せず、土を握り締め泣き崩れていた。
短刀もベルゼもどうでもよく、ペーターは必死に転がる妹の元へ這い寄る。
「りふ、りふりふ、りふっ……!」
名前を呼び、何度も頭を擦りつけるが、律の体は完全に力を失い、血に染まった服を着ていなければ眠っているようだった。
「ちょっ、まずい! またやってる」
「コラッ! いい加減にしろよ、オッサン! こっちまでパーティーでのPKカウントされるんだぞ!」
魔人相手に苦戦する仲間の声が煩く響く。
彼らの言葉からは自分たちの不利益しか感じ取れなかった。
「ったく、うるせえな。まあ手間取ったが、目ぼしい物ももうねえみたいだし。村の女数人捕まえて遊んでから焼き払うか」
あまりの出来事に思考停止しかけたペーターは、ベルゼの軽口で我に返る。
「なんれ、こんな……村のみんなが、なぃ……しはってんだよっ!」
「ああ? まあ、冥土の土産ってやつに聞かせてやるか。お前らは大人しく差し出せばいいものを、ちょっと値の張る物だからと高貴な人物を追い回した。その罰だな」
罰、という言葉の意味が分からなかった。
だが徐々にそれが村の薬であり、盗まれれば命に関わるものだったことを理解し、ペーターの怒りは再燃する。
あれは村の命綱だった。
追いかけたのはそれだけだ。
「おれはしに、しねっていってるのかよ!」
「そうだ。お前らは生かされている貴族に、物も命も差し出すんだ。すべてな!」
勝者の笑みを浮かべ、ベルゼの大剣がゆっくりと振り下ろされる。
鼻が潰れ、息も絶え絶え。
血に染まった妹を抱きしめ、必死に何かにすがり生きようとする。
だが信仰すべき神はどこにもいなかった。
ペーターは心の中で唯一、縋れる存在を叫んだ。
「……ずげて……じじょう、だずげでっ!」
「ハハハァッ! 誰が虫けらを助けにくるんだよぉっ!」
潰れた鼻と折れた前歯の間から零れる涙声の叫びは、ベルゼにとって己の力を誇示する最高の瞬間だった。
――――そう、最高の瞬間のはずだった。
ガキンッ。
子供の肉を裂くはずだった大剣に、違う感触が伝わった。
「あん?」
不審に思う間もなく、ベルゼの視界に銀色の光が一閃した。
後方の新人たちの騒ぎも止み、再度力を込めても剣はびくともしない。
目の端に映った銀色の影を見て、ベルゼは筋肉が硬直した。
その姿は――――。
「……てめぇ、うちの弟子になにしてやがる?」
憤怒に染まった銀髪の鬼人族が、ベルゼの剣を受け止めていた。




