第40話
あれから二週間。
橘花はこの街にだいぶ慣れ、着実にE級へと昇格していた。
E級からはモンスター駆除の依頼も増えるため、気を引き締めなければならない──のだが、どこか心は沈みがちだった。
何より、帰るための手がかりとなる情報が一向に見つからないことが大きい。
生活費を稼ぐために手持ちのアイテムを切り崩す日々。もしもの時に備えたいが、資金が底をつきかけている。
それに、狩りにも挑戦した。だが、結果は散々だった。
基本的に動物好きな橘花にとって、ウサギ狩りは精神的に辛かった。
PAO内で見慣れたレッサーラビットは、現実のウサギの何倍もの大きさで、見た目も可愛らしいが凶暴だった。
その牙に腕を深く噛み裂かれ、血が滲む傷口を前に、初めて本気で「死ぬかもしれない」と実感した。
それでも、覚悟を決めるまで時間がかかりすぎた。最後は拳で殴り倒すという荒業に出てしまった。刀を抜く前に手が出てしまうとは、自分の性格を痛感させられた瞬間でもあった。
中級ポーションで傷は塞がったが、胸には不安が重くのしかかる。
こんな状況で、果たしてこの世界で生きていけるのか――。
そんな気持ちのままギルドへ報告に向かう橘花の脇を、一人の少女がさっとすり抜けていった。
その背後を、翅に鮮やかな紋様を刻む揚羽蝶が一匹、ひらひらと追うように舞っている。黒を基調に赤や青が散りばめられたその翅は、まるで燃え盛る炎のように目を引いた。
橘花はふと視線を奪われた。どこかで見覚えのある少女の姿と、その背中を飾る揚羽蝶の鮮烈な模様が、胸の奥にかすかな記憶の影を落とす。
しかしその記憶はすぐに霧散し、少女はまるで風のように過ぎ去っていった。
「お帰りなさい、橘花さん」
「ただいま、オルオさん。あ、マリアさん。さっき子供が出て行ったようですが」
「お帰りなさい、橘花さん! 私に会いに来てくれたのー?」
「いや、報告に来ただけです。レッサーラビットの買取をお願いします」
受付に戻ると、オルオの脇からマリアが顔を覗かせる。彼女には慣れてきたが、纏わりつかれるのはまだ少々迷惑だ。しかし、仕事はきちんとしてくれるので、橘花の中で評価は徐々に修正されつつある。
「で、さっきの子供は何か依頼で来たんですか?」
「違いますわ。あの子は……狸の子供、じゃなくて、マーキアド家のご息女なのよ」
橘花の頭の中で「狸=ギルドマスター」という共通認識がまた増える。
マリアはわざとらしく咳払いをしてから話を続けた。
「二週間ちょっと前に、森で賊に襲われて、辛うじて逃げて来たそうです」
「ええ、それでA級冒険者が新人を連れて賊の討伐に森へ入ったんです。確か橘花さんが来る前日くらいの話」
「近くの森で『万能草』が見つかったこともあって、ギルドから依頼が出てますが、なかなか見つからないんですよね」
「期限はないんですが、ずっと見つからないと、どこで手に入れたのか問いただしたくなりますわ」
「え? 森で『万能草』が見つかったの?」
「はい、さっきの少女が発見して株を持ち帰ったんです。帰りに賊に襲われたという話ですから恐ろしいですよね」
レッサーラビットやレッサーウルフといった下等モンスターしか出ない森に、『万能草』が存在するとは信じがたい。
だが、実際に見つけて持ち帰った者がいるのだとすれば、探す依頼が出るのも頷ける。
橘花の脳裏には、何か引っかかるものがあった。
「それにしても、賊が森にいるとはな」
「本当にね。復興以降、一度もそんな報告はなかったのに」
「ないのか?」
「ないですね」
オルオの答えに橘花は首をかしげた。
突如現れた賊の報告と万能草の発見、そして討伐依頼。
(……なんだか嫌な予感がする)
背筋にざわりと悪寒が走る。これは気のせいではないかもしれない──。
† † † † † †
翌日、橘花は再び冒険者ギルドへ向かっていた。
昨日の騒動が気になったのと、隠れ里へ一度戻る必要もあったためだ。宿屋には二、三日空けることを告げ、街で必要なものを買い込んだ。土壌に合う種や獣除けの柵の材料、そして市場の出店で見つけた『ドロップ飴』をお土産に何個か買った。人形やおもちゃの剣も候補に挙げていたが、どれにするか悩んだのは内緒だ。
服はいつもの朱色の羽織袴。普段は大太刀『蛍丸』を使うが、森を歩く今回の旅には取り回しのいい『姫鶴一文字』を選んだ。
冒険者ギルドに入ると、まだ早朝にも関わらず掲示板に群がる冒険者たちの姿があった。橘花に気づいた者もいたが、ほとんどはすぐに掲示板へと視線を戻した。しかし、その中にはじっと橘花を見つめ続ける者もいる。
(やっぱり、ぶしつけに見てくるヤツはまだいるなぁ)
二週間もすれば見慣れるだろうと思っていたが、何人かは未だに遠慮なく視線を送ってくる。小説や漫画で見かけるような一悶着が起きそうな予感に少しだけ警戒しつつ、受け付けに向かおうとしたその時だった。
「ちょっといいかい、鬼人族の――橘花さん」
声をかけてきたのは、何度か視線を送ってきた赤い短髪の青年だった。




