第20話
水の底からゆっくりと浮き上がるような感覚と共に、橘花の意識が徐々に戻ってきた。
目を開け、まず視界に飛び込んだのは木々の群れだった。
ぼんやり見つめているうちに、それが一本ではなく何本も並んでおり、奥まで続いていることに気づく。
差し込む木漏れ日はわずかで薄暗く感じるが、時間は昼頃だろうか。
うつ伏せのまま起き上がると、湿った土の感触が顔に伝わり思わず顔をしかめた。
(あれ……私、何してたんだっけ?)
皇居の森を思わせる密集した樹木。どこかの公園かと思いを巡らせる。
だが、こんな場所で寝るほど非常識ではないし、深酒しても家までは帰れる自信がある。
自宅近くの山もあるが、こんなに鬱蒼としてはいないし、社会人になってから山に登ることもほとんどなかった。
「えっと……ここ、どこ?」
立ち上がろうとして、ふと自分の声の低さに気づいた。
いつもの高さで声を出そうとすると、喉が痛み、うまく出ない。
ゲーム内の音声は地声をそのまま使っていたはずだ。
喉に触れると、なにかが出っ張っている。押すとむせた。どうやら押し込み過ぎたらしい。
視線を下ろすと、自分の手とは違う大きくて灰色がかった肌の手があった。爪は尖り、明らかに男の手だ。
額に触れると、硬いものが生えている。首に触れるとさらりとした感触。
手を顔の前に持ってくると、銀色の髪がさらさらと揺れた。
水たまりに目を向けると、そこには驚いた表情の鬼人族のアバターが映っていた。
間違いない。ゲーム内で幾度も使い込んだ、格好良さを追求して作った橘花の姿だ。
だが、どこか違和感があった。
いくら最新のグラフィックでリアルに作り込んでも、どこか「作り物」感が拭えなかったはずだ。
だが今触れている感覚は違った。
湿った土の感触、髪のさらりとした冷たさ、森の中の独特な匂いとそよぐ風。
(こんなにリアルだったっけ……)
十年ログインを続けてきた橘花だからわかる違和感だ。
初心者なら「リアルだな」で終わるかもしれない感触。
物を触っている感覚はあっても、そこに生命の温もりは感じられない。
だが、今触れているものは違う。
髪のさらりとした質感の中に瑞々しさがあり、角を掴めばほんのり温かく骨から生えている感触も伝わる。
胸に手を当てれば、鼓動を打つ血潮が確かに伝わった。
胸……?
「……ぺたー」
思わず漏れた声は低い。
誰かに聞かれたら「低音美ボイス」と絶賛されるだろう。
声当てした声優は誰だ? いや待て、胸って……私はいつ女をやめたんだ?
いや、これは男性アバターだ。問題はないはずだ。
しかし、こんなに自分のアバターに触れられるシステムだったか?
混乱する頭で直前の記憶を探る。
確かイベントが発生し、目の前に現れたゲートをくぐった。
その先の記憶が途切れている。
服装を確かめると、振袖袴、そして腰には備前長船が差してある。
振袖の滑らかな手触りに、冷たく重い刀の感触が確かにあった。
あまりにリアルすぎて、開発中の新システムに誤って入り込んでしまったのかとも考えた。
しかし最近のバグ騒ぎの影響で監視は厳重になっており、運営やGMからの警告が来ていないのは不自然だった。
そこで、ハッと気づいた。
ゲームシステムは現実時間に合わせて朝夕の光を変えている。
夜にログインしていたはずなのに、視界が明るいのはおかしい。腹も空いている。
「あああっ……私のからあげっ!!」
仕事よりも食べ物が気になるあたり、いつもの橘花らしい。
だが明るい時間にログインしているのは完全に遅刻だ。仕事は朝が早い。
慌ててショートカットアイコンからメールを開き、『からあげ! 残ってる!?』と月とトラストラムに送信する。
だが送信はすべてエラーとなり、数十通書き直しても同じ。
「からあげ……三個は取っといてくれてるかな、月とトラ」
肩を落とす。
からあげのことばかり気にして、職場への連絡ができていないことにまだ気づいていなかった。
社会人として、それはどうなんだろうか。
「とにかく、ログアウトを……『メニュー』」
そう呟きながらメニューを開こうとするが、反応がない。
ステータス、ログアウト、GMコール、緊急コール――すべて使えなかった。
何度も叫ぶように繰り返してみたが、森にこだまし、逆に恥ずかしさが増すだけだった。
原因を考える。
触れてしまったバグの影響が今になってアバターに現れたのか、あるいは――
「やっべー……あのゲート自体がバグだった可能性が否定できない」
そう思うと、色々と制限されていた感覚へのアクセス制限が解除された感覚も腑に落ちた。
今もゲームで使われているが、もともとは医療機器用のプログラムだった。
十年前から進化し続け、手術用ロボットなど、精密な触覚が必要な医療現場で使われていると聞いたことがある。
つまり、根本のプログラムが同じなら、何らかの手段でゲーム内のアバターにその上書きが起きた可能性もあるのだ。




