第19話
あれから一週間が過ぎた。
橘花のアバターはもちろん、その他の機能にも問題はなく、GMからの問い合わせや質疑応答も難なくクリアしていた。
トラストラムは「姉貴……俺、咲哉×エルを応援するよ」と、sakueruさんから頂いたらしい本を無表情に見つめながら、布教活動の宣言をしていたくらいで、日常に大きな変化はなかった。
今日も変わらずログインし、狩りの最中に白と出会っては告白ごっこを繰り返し、仕事を明日に控えた夜、いつも通り遊んでいた。
薄い本の話や「大阪のおばちゃん呼ばわりされる気はないか?」という白のしつこい絡みに辟易し、ようやく白を撒いたところで、ピコンと通知音が鳴った。
月:『姉ちゃん、ごはんだよー』
月からのメッセージだった。
もうそんな時間かと、何気なく橘花はコンソールウィンドウを開く。
「なにあれ……」
半透明のウィンドウの向こう側をじっと見つめた。
そこに突如、縁に金色の装飾が施された円形の硝子盤が現れ、ゆっくりと回転している。
そう、ゲートだった。
だが疑問が湧くのも当然だ。
ゲートの設置場所は国エリアの中心広場か、王城の移転の間に限られている。
街中では円形に組まれた石畳が、城内ではレッドカーペットの上に六芒星と難解な漢字が並ぶ魔法陣が目印だ。
今回出現した場所にはそれらの痕跡がない。
「もしかして、隠しゲート!?」
――隠しゲートとは、五年前の事件後から囁かれ始めた噂である。
正規の設置場所以外に突然現れ、短時間で消え二度と同じ場所に現れないという、見つけるのが極めて困難な謎のゲート。
いつしか『刹那の彼方』と呼ばれるそのゲートは、橘花でさえ十年の間、一度も目撃したことはなかった。
しかも内容は「ゲートの向こうは異世界」という、ゲームと現実の境界すら曖昧な信じがたい噂である。
だが誰もが「もし本当だったら」と、密かな期待を胸に抱いているのもまた事実だった。
「いや、まさかね。何かのイベントでしょ」
特定のイベント時には、移動用の簡易ゲートが現れることがある。
国を跨ぐ大規模イベントの際に利用されるもので、参加資格のないプレイヤーは強制的に活動国のゲート前に戻されるシステムだ。
「ノイズも演出か。で、どのイベントの条件満たしちゃったんだろう?」
メニューを確認しても、イベント発生の通知は何も出ていない。
「まぁ、お楽しみってことで」
ゲート通過後に表示されるイベント名や演出もあるため、今回のゲートもその類だろう。
何より白から逃げるにはもってこいだった。
橘花:『ちょっとイベント発生したみたいだから先に食っててー。ある程度進んだらログアウトするから』
月:『よし、オレが唐揚げ全部独り占め!』
橘花:『残しておけ!……っていうか、トラは?』
月:『兄ちゃん今日は遅い。だから母ちゃんと父ちゃん以外はオレ一人。姉ちゃん来なければ唐揚げ食い放題!』
橘花:『くそっ、お前が取り分けた唐揚げの皿にパイナップルを入れてやる!』
月:『聞こえてくる、パイナップルの叫びが……ここはオレの居場所じゃねぇぇぇ!』
橘花:『パイナップルの叫びなんかどうでもいいから残しておけっ!』
月:『だったら早く来いよ、熱々美味しいよー』
橘花:『くっ、私が猫舌じゃなければ……』
月:『神は言っている……諦めろと!』
橘花:『残しておけーっ!(泣)』
月:『はいはい、わかったから早くログアウトしなさいよー』
そうメッセージを送り終え、月はダイブギアを外したらしく、ログには『月さんがログアウトされました』と表示された。
「ちくせう……」
橘花は悔しそうにコンソールウィンドウを閉じた。
食欲旺盛な次男のことを思い浮かべると、早くログアウトしなければ唐揚げの残りが三個になる事態が目に見えていた。
視線を戻すと、先ほどよりもノイズが激しくなったように感じるゲートを目にしつつも、晩御飯の取り分けが頭を占めていて気にも留めなかった。
「ささっと中盤まで進めちゃおう」
どんなイベントでも対応できるように、竜騎士単独撃破クエスト時に使っていた振袖袴を装備。
刀は村雨から、攻撃力と速度重視の備前長船に変更した。
イベント中は装備変更不可になることが多いため、万全の装備で挑むのが鉄則だ。
回復アイテムなど持ち物も最終チェックし、準備は完璧。
「よし!」
気合を入れて、フル装備のままゲートをくぐった。
刹那。
ノイズが異様なほど走り、円形だったゲートは熱で溶けた硝子のように歪み、ぐにゃりと捩じれ消えた。
もし誰かがこれを目撃していたら、すぐGMに通報していただろう。
通常、イベント発生時に通過後のゲートはゆっくりフェードアウトするものだ。
歪んで消えるなど、明らかにバグの兆候。
ゲーム内で異常を見つけたプレイヤーは即時GMに連絡する義務があるが、ここにいるのは橘花一人。
目撃者も連絡する者もいなかった。
こうして、誰にも知られることなく、パンドラ・アークのみならず現実世界にも影響を及ぼす巨大な事件が動き出した。
――同時に、現実でも異変が起き始めていた。
† † † † † †
コンコン――と扉をノックする音。
続いて、ガチャッと扉が開いた。
「姉ちゃん、いつまでやってんだよ。兄ちゃん帰ってきたぞ。唐揚げ全部食われちゃうぞ。姉ちゃん? もう姉ちゃんってば、姉ちゃ……」
椅子に座ったままダイブギアを被る姉の肩を掴み、揺すりながら呼びかける月。
だがその体は揺られてぐらりと傾き、床に倒れ込んだ。
「ねっ、姉ちゃん! 姉ちゃんっ!?」
「なに騒いでるんだ……フッ、唐揚げならこの俺が姉貴のために三個も……」
「兄ちゃんっ! 姉ちゃんが、姉ちゃんがっ!!」
トラストラムが慌てて駆け寄り、倒れた姉のそばに来た。
弟の体をどけ、姉の脈を確かめる。正常だ。
倒れた際にダイブギアが外れたらしく、目は閉じているが意識は戻っていない。瞳孔も確認した。
「姉貴! 聞こえるかっ! くそっ……お袋、救急車っ!」
トラストラムの声は普段静かな彼にしては珍しく怒号のようだった。
後ろで見守る母は青ざめ、ただ立ち尽くすのみ。弟・月が急かす声が響く。
本来ならダイブギアを外せば意識が戻るはずだが、それすら起こらないのは、橘花本人に何か異常がある証拠だった。
呼吸は正常。瞳孔は開いていない。
母は固定電話の子機を手に取りオロオロ。月がそれを奪い取り、119へ連絡。判断は正しかった。
オペレーターの問いに冷静に答え、救急車の手配を急ぐ。
「落ち着いて」と諭されても、苛立つほどの時間の遅さに腕時計を見て焦る。
救急車到着までのカウントダウンが心を締め付ける。
トラストラムは決心し、倒れた姉の側に転がっていたダイブギアを再び被る。
画面は砂嵐のように乱れ、視界は痛々しいほど不鮮明だ。
画面の隅に小さく、赤い文字で「Lost」の表示が見えた。
Lost――いったい何が起きたのか。
ゲーム内での異常なのか? 緊急隔離プロテクトは機能していないのか?
橘花は更新を怠らず、弟達にも時期が来たら口酸っぱく注意していた。
もしダイブギアに問題がなければ、本人に異変が起きているということになる。
脳卒中、くも膜下出血、あるいは心筋梗塞――そんな可能性が頭をよぎる。
混乱する思考の中でも、トラストラムは家族を動揺させないため、普段の職務で培ったマニュアル通りに動く。
それが長男として今できる精一杯の行動だった。
――そして、橘花のようにゲーム内で意識を失い倒れる被害者は、この数時間のうちに十人にまで膨れ上がることを、彼らはまだ知らない。




