第147話
地上に転がり出るように上がったヘーゼルとロイドは、息をつく間もなく怒号を飛ばした。
「全員、点呼だ! 返答しろ!」
地下に岩盤が落ちると、衝撃で噴き上げられた瓦礫がまだぱらぱらと降りしきる。土煙の向こう、兵たちは互いを支え合いながら名を呼び合い、次々と生存を報告していく。だが、その声に混じってぽつりと漏れたひとつの名前が、空気を凍らせた。
「……オリバーが、いません」
続いて、震えた声が重なる。
「ロバートの姿が見えません……」
「ローレンスも……返答がありません!」
次々に上がる報告で十人が行方不明とわかる。胸の奥に重い鉛が沈んだ。
ヘーゼルは奥歯を噛みしめ、ロイドも拳を握りしめる。
(……もう少し早く判断していれば……!)
(この程度の危険――あんなのが出てきた時点で予想できて当然だった……!)
後悔が胸を灼く。
それなのに、橘花の姿も地上に見当たらない。
「……橘花殿まで、巻き込まれたのか」
ロイドの呟きに、ヘーゼルは目を伏せた。
天井を抜けて地上へ飛び去った“ドラゴン”――ルティーヤーの一撃に、地下は壊滅状態だった。あの状況で生存を望む方が間違いというものだ。
だが――そのとき。
――バッッ!!
地面を蹴り破るような音と共に、ひとつの影が土煙の中から飛び出した。
「……橘花!?」
危なげなく手前に着地した人物に、思わず二人とも声を上げた。
全身に無数の裂傷を負い、血が滴り落ちて地面を赤く染めていく。
服も肌も煤と血にまみれ、まるで地獄の底から這い戻ってきた亡霊のようだった。
しかし、ヘーゼルとロイドが瞠目したのはそこではない。
橘花の両腕には、ぐったりと気を失った兵が抱えられていた。
背にも、もう一人が縋りつくように負ぶわれている。
点呼で「いない」とされた名だ――。
「お、お前……まさか……!」
橘花は返事する暇も惜しいとばかりに、二人の横を素通りした。
兵たちをそっと地面に下ろすと、振り返りもせず、また崩落した地下施設に続く穴へと駆け戻っていく。
「橘花! お前、待て――」
ヘーゼルの制止の声が届く前に、橘花の影は瓦礫の裂け目へと身を投じた。
「テントを設営しろ! すぐに医療班を連れてこい!」
橘花の行動を見て、すぐさま命令を飛ばすヘーゼル。
ここも軍務局の施設だ。緊急時などの物資は揃えてある。
ヘーゼルとロイドも同様の判断を下して、負傷者を収容するテントを先に設営させていった。
再び、硬い石を蹴る鈍い音。
息を呑む兵たちの前に、橘花は再度現れた。
今度はローレンスを小脇に抱え、肩にロバートを背負って。
だが、地下に取り残された者たちの救出作業を繰り返すたびに息は荒くなり、脚はふらつく。
それでも橘花は表情一つ変えず、黙々と救助者を地上へ送り出して、また地下へ向き直った。
「……うそだろ……。まだ……行くのか……あの状態で……」
ロイドの喉が震えた。
どれほど危険か、地下がどれほど崩壊しているか、橘花自身が最も理解しているはずだ。
それでも、瓦礫の中に埋まった者を残したまま、自分だけ地上へ上がる選択肢は、最初から存在しなかった。
何度目かの帰還。
最後に抱えてきたのは――オリバーだった。
血にまみれ、瓦礫で押し潰されかけていたにもかかわらず、息はまだあった。
橘花は地面に膝をつきながら、ようやく呼吸を乱した。
それでも――救った者たちは全員、生きていた。
ヘーゼルもロイドも、言葉を失った。
胸の奥に渦巻いていた後悔が、一瞬で別の感情に形を変えていく。
敬意と――震えるほどの安堵。
そして、これほどの男を危地に追いやってしまった自責。
そんな橘花は、すでに朦朧としているのは見て取れた。
「……これで……全員、だよね。後は……任せる。私は、ちょっと……休んで……」
呟くような言葉が途切れ、その場に崩れ落ちた。
全身から流れる血は、もはやどこが傷なのか判別できないほど。
「橘花!!」
ヘーゼルが駆け寄り、抱き起こす。
その声に、医療班が慌てて駆けつけ――ようとしたところで、横から冷たい声が降りた。
「その者には、必要ありませんな」
いつの間にか来ていた、上層部の男――金糸の房のついた軍帽を傾け、いかにも自分がこの場の主であるかのように振る舞うデリオ・ダーホが、橘花を鼻で笑った。
ヘーゼルもロイドも内心舌打ちをした。
人間族至上主義を掲げている貴族の1人だった。
この一晩で色々と勢力図が変わった。
ヘーゼルが特別区の入域許可を求めたのを聞きつけ、セリオ侯爵失脚とそれに伴う何か功績が掴めるかもしれないと踏んで、後からのこのこ来たのだろう。
ドラゴンが地上に出た時の被害を受けた様子もない。
デリオは盛大にため息をつき、やれやれといった様子で言葉を続ける。
「犬一匹のために、我が軍の高度な医療を割く理由はない。医療班はまず人間族の負傷者を優先せよ」
その瞬間、周囲の空気が凍った。
ヘーゼルの目が、刃のように鋭く光る。
しかし、ヘーゼルが声を上げるより早く、助けられた兵たちが立ち上がった。
「……は?」
「犬?」
「橘花殿は……橘花殿は俺たちを助けてくれたんだぞ!」
抑え込まれていた感情が、堰を切ったように噴き出した。
「助かる見込みのない場所に、何度も戻って……!」
「俺たちの仲間の命を、拾ってくれたんだ!」
「この人がいなかったら、俺たちは全員死んでた!」
「治療を受けさせてください! このままじゃ……死んでしまう!」
ひとりの声ではない。
十人、いや二十人――橘花に救われた者やその救出風景を見ていた者たち全員が、揃って声を上げ始めた。
「お前ら……軍人としてなっとらんな。身の程をわきまえろ」
デリオが苦々しく言うが、もう誰も従う気配を見せなかった。
「……エルド軍務局長の許可を得た者だ。それも、我々の部下を救った命の恩人だ。治療を拒否する理由など、どこにもない」
「た、たかが異種族の――」
「異種族だろうと関係ありません!」
部下たちが反抗的な態度を見せたところで、ヘーゼルが声を上げ、ロイドもまた、怒りを抑えながら前へ出る。
「橘花は、我が隊の仲間を救った! それだけで十分だ!」
デリオは最後まで不満げにふんぞり返っていたが、地下施設の被害状況を聞かされると、急激に態度を変えた。
「……ふ、ふむ。では私は本部へ報告に戻る。後処理を続けたまえ」
そう言い残し、金の装飾がやけに目立つ馬車に乗り込み、この場に居続ける価値はないと言わんばかりに去っていった。
男が消えると同時に、張り詰めていた気配が一瞬で解ける。
「……医療班!」
ヘーゼルが叫ぶと、医療班の者たちは慌てて駆け出してきた。
だがその中の一人が、渋い顔で言葉を漏らす。
「……あの、上に報告を――」
「報告してどうする」
「うちの誰か文句言うのか?」
「見ろよ、あの人の血。そんなこと言ってる暇はねぇだろ!」
兵たちの圧が一斉に医療班へ向く。
その迫力は“怒り”ではなく、“救われた者の真摯な感情”そのものだった。
医療班の男は言葉を失い、数歩下がる。
そして、逃げ込むようにテントの奥へ姿を消した。
代わって、残った治療師たちが橘花の周囲にひざまずく。
「脈あり! 急げ、止血を!」
「魔力障壁の火傷……これは相当に深いぞ。回復魔法を――!」
「意識レベル低下! 急げ、急げ!!」
ヘーゼルはその様子を見ながら、強く目を閉じた。
ロイドもまた、拳を握りしめる。
救われた者たちの手で、今度は橘花が救われる番だった。




