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Pandora Ark Online.  作者: ミッキー・ハウス
交錯の王都編
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第136話

ガンジが軟禁されたとの報を受け、情報網を張り巡らせていたヘーゼルは、ふと小さく舌打ちした。音は廊下の石畳に落ちる雨粒ほどの軽さしかなかったが、その一打に籠もる意味は重かった。机上に広げた地図の角が、微かに震える。


「普通なら、これだけ揃っていれば、二時間やそこらで発行されるはずだ」


隣に立つ若い書記が震える手で書類を差し出す。ヘーゼルは受け取り、透かすように頁を追った。押印の癖、署名欄の余白、様式の微かな揺らぎ──どれも「いつもの処理」とは違っている。深夜に至ってなお未処理という事実が、単純な遅延を否定していた。


指先が硬く握り込まれるのが見て取れた。堅い皮革の手袋越しでも、力の入り方は普段とは違う。それでも表情を変えないのがヘーゼルだ。冷静は彼の武器であり、鎧でもある。


「どこかが介入したな」


声は小さく、苛立ちよりも警告に近い。部下たちはその一語で、緊張の度合いを読み取った。彼が感情を露わにすることは滅多になく、だからこそ部下は静かに身を引き締める。


窓の外、王都の輪郭が濃紺の闇に沈み、塔の影が黒い刃となって浮かぶ。ヘーゼルは過去を掬うように短く息を吐いた。上官に楯突き左遷された日々。だがそれが信念を砕いたわけではない。むしろ今、この場で積み上げてきたものが生きているのだ。


「よし、手続きを待つ。ただし、待ち方を間違えるな」


そう言って彼は地図の一角を指差す。

密かに届けられた報告書には、王都郊外、セリオ侯爵家の別邸――その地下に、未登録の牢が存在する旨が記されていた。

ヘーゼルの唇が、かすかに動いた。


セリオ侯爵家の別邸。郊外に構えられた邸宅は広大な敷地をもち、塔屋や蔵、地下に延びる人目につかぬ通路まで備えている。権力者は往々にして「見えない場所」を好む。そこに時間稼ぎの意図が透ける。


「一つ目。邸宅周囲、即刻封鎖。見張りを厳重に。貴族側の私設兵か衛兵か、第三者が近づけば即時通報。二つ目。公的手続きの追跡を──」


命令は静かだが明確だ。部下たちは指示を受け、体を動かす。ヘーゼルは、法の枠内で最大限動くことを旨としていた。違法な強行突入は最後の手段に過ぎない。今回の遅延は単なる事務手続きの不備ではない。どこかの“手”が水面下で動き、証拠を攪乱し、時間を買っている。時間は腐敗側の友だ。ヘーゼルはそれを一秒たりとも許したくなかった。


「書記──魔法局の受付、ミランダを頼む。彼女に事の重大性を伝え、書類の優先承認を打診せよ。ただし、何事も“普通”に。露骨な圧力や脅しは厳禁だ。彼女がそれと受け取れば、計画は終わる」


書記は誓うように頷いた。ヘーゼルはさらに、古い仲間に目配せする。


「カイン、君は公的筋と非公式筋、両方のコネがある。邸宅周囲に夜間の監視網を張れ。だが“見つかれば即制圧”ではない。“隠れて見張る”ことが使命だ。奴らの動きを先に知るためだ。時間を買わせてはならん」


カインの瞳に、僅かな熱が灯る。ヘーゼルはそれを確かめてから、さらに細かい指示を続けた。


「領地の監視係、行商人、接待に関わる使用人の名簿を洗え。邸宅に出入りした者の記録、荷物の搬入時間、宴会の招集一覧──人の動きは嘘をつかない。消えた書類は形を変えてどこかに残る。そこを掴むんだ」


同時に、彼は裏の策も準備している。臨検令状の発行がさらに遅れるようなら、形式上の「一時的保全措置」を用い、邸宅入り口を抑える手配を進める。名目は「王都の安全確保のための一時差止め」。法の枠内で可能な、ぎりぎりの圧力である。越えてはならぬ一線は明確だが、そこに至る前に動く――それが彼の意図だった。


ヘーゼルは短く息を吐き、手の力を抜く。舌打ちの余韻は消えかけている。しかし目だけは、確かな一点を見据えていた。怒りは計算に、憤りは戦略に変わる。腐敗は焦りで勝手に自壊する。焦る者は手を早め、隠し事を露わにする。ヘーゼルはその瞬間を待ち構えている。


「動くときは一斉に。迷いは禁物だ」


低く響くその声に、部下たちは節を打つように頭を下げた。


王都の塔々が低い霧に溶け、遠くで鐘が一度だけ鳴る。ヘーゼルは窓辺に立ち、暗い街を見据えた。



査察局前でヘーゼル・カーヴィルは、薄明の空を一瞥しながら、かつての部下たちと並んで歩いていた。

石畳に響く靴音が重なり、緊張感と懐かしさが同居する空気が漂う。


「……中佐、ひとつ伺ってもよろしいですか?」


少佐カインが、前を行くヘーゼルに静かに問いかけた。


「橘花という男を、信じておられるのですか?」


足が一瞬止まる。

振り返ったヘーゼルの顔には、怒りも迷いもなかった。

ただ、冷静な思考が揺るぎなく宿っていた。


「部下に欲しいほど有能な者だ。そして――力の使い所をわかっている」


そう言ってから、彼は小さく息を吐いた。


「だが、“信じる”とは別の話だ」


カインが目を瞬く。


「今回動いているのは、奴の行動を見ての判断だ。下手に怒らせる方が下策。借りを作る算段もあるが、当人への印象は良くしておきたいからな」


理路整然とした言葉。

そこには軍人として培った経験と、生粋の現実主義者としての顔があった。


「……相変わらずですね、中佐」


カインの口元に、わずかに安堵の笑みが浮かぶ。


「理性で動くあなたを見ていると、まだこの国は終わっていない気がします」


ヘーゼルは肩をすくめる。


「使わずに置いても良い繋がりを持つのも、将来の保険にはなるだろう」


その声はいつも通り穏やかで、冷静だった。

だが――その裏で彼の胸中には、もう一つの感情が揺れていた。


(……違うな)


理屈ではなく、あのアルミルで見た“橘花の背”が、脳裏に焼き付いていた。

敵を倒すためでなく、仲間を守るために剣を振るう男。

己の正義を押しつけず、ただ「こうあるべき」と信じた道を歩く姿。


――あれは、かつての自分だ。


若かった頃、正義を掲げ、不正を許さず、そして上官に疎まれた頃の自分。

失った理想の残響が、橘花という存在の中に見えた気がしていた。


「……まったく、歳を取ると余計な感傷が増える」


小さく呟いたその声は、誰にも届かない。


夜明けの風が、彼のコートの裾を揺らした。

その眼差しは冷静に、しかしどこかで温かかった。



胸元から出した封蝋を切ると、署名入りの拘引状を取り出した。

“王国査察権に基づく臨時査問令”。


「……正義の行使ってのは、こういう時ほど楽しいもんだな」


淡く笑みを浮かべる。

自嘲ではない。

久しぶりに、自らの中で“理性と怒り”が釣り合った感覚だった。


「腐った貴族どもを釣り上げるには、これ以上の餌はない」


立ち上がり、外套を翻す。

夜風が吹き抜け、蝋燭の炎が揺れた。


――“橘花”を救い出すこと。

それは単なる救出ではない。

この王都の膿を、一気に浮き上がらせるための最初の一手。


ヘーゼル・カーヴィルは、軍人の目を取り戻していた。

冷静で、精密で、そして――どこまでも真っ直ぐな。

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