第96話
人目を避けての夜。
まず、行くことになったのは廃寺。
月明かりに照らされた廃寺の前で、最初に一歩を踏み出したのはロイヤードだった。
「んじゃ、試してみるか!」
石段を上り、扉に手をかける――その瞬間、何事もなかったように体が反転し、門を背に立っていた。
「……あれ?」
眉をひそめるロイヤードに、ソータが慌てて駆け寄る。
「ちょっと待って! 本当に入ろうとしたんだよね?」
「俺が一番ビックリだ。扉を押そうとして、気づいたら後ろ向いてる状態」
半信半疑のエレンとソータも続けて挑戦するが、結果は同じ。石段を踏み、扉に触れた瞬間――視界が反転、気づけば門を背に立っている。
「……これは」ウェンツも試したが、やはり反転、戻されて驚く。
「冗談じゃねぇだろ?」と、ロイヤードが腕を組みながらウェンツに呟く。
四人の様子を黙って見ていた橘花は、懐かしいと紫頭巾に隠れた口元だけで笑う。
「なるほど……開発途中やゲームのストーリー上で進めないルートに行こうとすると、アバターがこういう動作をしたな。不可侵領域の接触パターンだ」
そう呟きながら、橘花は何気なく扉に手を置いた。
目の前に見えたUIの入るか否かの問いに対し、疑問も抱かず「YES」を押す。
――瞬間。
ぐらりと視界が揺れ、橘花の体は抵抗なく内側へ吸い込まれていった。
「……え?」
気づけば、橘花は薄暗い廃寺の内部に立っていた。
いや、外観と違い、移動した先は廃寺とは程遠い整備された寺だ。
静謐な空気が漂い、月明かりに美しい砂紋の描かれた庭が浮かび上がっている。
「う、うそ……ヤバッ!」
初歩的な失敗に、思わず素の声が漏れる。遅れて誰もUIのことは言っていないと思い出す。
ゲームの時も弟たちに「押す前によく考えろ姉貴(姉ちゃん)」と言われていたのに、やらかした。
慌てて振り返るが、そこに四人の姿はなく、内部に入ったのだと気づいたが、外の気配も、ここからは一切感じ取れない。
「ちょ、ちょっと待て……私だけ入れちゃうの!?」
完全に予想外の展開に、冷静沈着な橘花の仮面が剥がれ、普段の素の戸惑いが顔を覗かせるのだった。
――静寂。
次の瞬間、橘花は自分の置かれた状況を理解し、思わず息を呑んだ。
さっきまで夜の月に照らされた、荒れ果てた廃寺の外側にいたはず。蜘蛛の巣が張り、土埃に覆われたはずの様子は、一変していた。
内部の壁は漆喰で白く輝き、木材は艶を放ち、寺の廊下には塵もなく、神域のような気配が満ちていた。
「……なんだこれ。中と外、全然違う……?」
焦燥を押し隠し、すぐに周囲を確認する橘花。
しかし、背後には外と繋がっているはずの扉がなく、いつの間にか滑らかな漆喰の壁に変わっていた。
出口がわからない――孤立状態。
背筋に冷たい汗が流れる。
その刹那。
「……何者!?」
低く唸るような声とともに、影が横合いから飛び込んできた。
月光が照らすのは黒い狼獣人の青年。鋭い瞳を向け、腰から抜き放った刀を迷いなく振り抜いてきた。
反射的に、橘花の体が動く。瞬時に刀を抜くと、火花を散らして金属と金属が激しく衝突した。
ギィン――。
火花が散り、二つの影が刃を交える。
黒い毛並みを逆立てるように狼獣人の青年が、再度刀を振るうその一撃は速い。月光を反射する銀の斬撃は、空気ごと裂いて橘花を襲う。
受け止める橘花の腕が痺れた。「いきなりかよっ」思わず素の反応をしてしまう。刀身越しに伝わる衝撃が骨まで響き、わずかに後退を余儀なくされた。
「……強いな」
息を吐き、口の端に苦笑を浮かべる橘花。
だがその眼は、青年の顔の一点を見ていた。狼獣人の青年は、銀フレームの眼鏡をかけている。
戦闘の最中にまでそんなものを着けているということは——。
「……目が悪いのか」
小さく呟いた、橘花の判断は早かった。
狙いは殺傷ではなく、相手の戦闘意欲を削ぐこと。
再び刀を交えた時、あえて橘花の刀身を弾かせ、わざとこちらに隙をつくる。弾かれるまま刀は離さず、素早く一回転。こちらの意図に気づかず、踏み込んできた狼獣人の青年。
橘花は迫ってきた刀を絡めて、地面へ相手の切先を下げさせると即座に踏んで押さえる。思わぬ出来事に呆けている間に、片手で相手の顔面に一撃を加えた。
ガシャリ――眼鏡のレンズが砕け、庭へ散る。
一瞬、時間が止まったように見えた。
狼獣人の青年は、砕けた眼鏡の残骸を視界の端で見つめ――低く呟く。
「……ご主人から頂いた眼鏡が……」
その声には、深い哀惜と憤怒が混じっていた。
次の瞬間。
体ごと踏まれた刀を一度大きく引き、構え直すと烈火の如き気迫と共に、青年は橘花へと飛びかかった。
「っ……伊達メガネ!?」
どうやら視力補正のための眼鏡ではなく、大切にしていた誰かからの贈り物だったらしい。
橘花は意図せず逆鱗に触れるどころか、ぶち抜いてしまったのだ。
狼獣人の青年の斬撃は、先程よりもさらに苛烈だった。
その刃はためらいなく急所を狙い、容赦なく命を奪いに来ている。
橘花の内心は、焦燥に揺れていた。
(私は……人を殺したくないんだ。戦闘不能にするだけでいい……!)
だが、その心を見透かしたかのように、青年の攻撃は激しさを増す。
上段からの振り下ろし。
即座に受け止めるが、重い。刃同士火花が散り、砂紋が互いの足跡で消える。
踏み込みが速い。手加減の状態では受け流すのがやっとだった。
狼獣人の青年が大きく踏み込む。
「――百花繚乱」
狼獣人の青年の口から聞き慣れた技の名が放たれた。
刹那、目の前に広がったのは、花弁のように舞う無数の斬撃。
月光を反射する刃が乱れ咲いたように、殺到してくる。
「っ……これは――!」
直感が叫ぶ。
まともに食らえば、体が細切れになる。
橘花は歯を食いしばった。
「仕方ない……! 百花繚乱っ!」
同じ技を、橘花も繰り出した。
瞬間、刃と刃が重なり、衝撃波が周囲を包む。
花弁が舞うような斬撃同士がぶつかり合い、火花が散っては消え、庭に無数の傷を刻み込んでいった。
そこに練度の差が現れる。
橘花の剣筋は洗練されており、刃の軌跡はぶれることなく正確。
その差に押され、青年は次第に追い込まれていく。
「……ぐっ!」
袖を切り裂く最後の一閃を躱して、青年は庭の隅へと飛び退いた。
呼吸は荒く、頬に汗が伝っている。
橘花は紫頭巾を目深に被り直し、刀を構えながらも心の中で叫んでいた。
(どーしよ……本当に殺しちゃったらどうしよう!)
戦闘の手応えで分かった。
青年は強い。だが、自分のスキルやレベルの方が確実に上だ。
だからこそ――。
一手でも力加減を誤れば、命を奪ってしまう。
「頼むから、もうやめてくれ……」
橘花の願いは声にはならず、ただ心臓の鼓動だけが響いた。
青年はまだ、構えを解かない。牙を剥き出しにし、再び飛びかかろうとする気配を漲らせていた。
その時――。
「そこまでっ!」
鋭い女性の声が、庭全体に響き渡る。
月明かりに照らされた空間。
声の主が誰かを確かめる間もなく、戦場に張り詰めた空気が一瞬で凍り付いた。
橘花も、狼獣人の青年も。
その声に、刀を構えたままで動きを止めざるを得なかった。




