第93話
市場を後にし、橘花たちは人通りの少ない路地を抜けて、古びた看板のかかった酒場に入った。
昼間だというのに、中はほどよく賑わっている。
酒と汗の混じった匂い。
荒れた板張りの床。
だが客たちの表情は、市場の張りつめた空気とは違っていた。
「おう、いらっしゃい」
無精ひげを生やした店主が気だるげに声をかける。橘花たちが開いている席に腰を下ろすと、彼はちらりと紫頭巾の橘花を見たが、何も言わず注文を受けると水入りの瓶と酒瓶と、人数分のコップ、ツマミを運んできた。
橘花が鑑定をして、中身が大丈夫なのを確認してから手をつける。
「さっきの市場、あれじゃ異種族の物は一切手に入らねぇな」
ロイヤードがぬるい水を飲みつつ吐き捨てるように言うと、隣のテーブルの客が苦笑混じりに顔を寄せてきた。
「……あんたら、よそ者だな? 声を落とせ。聞かれたら面倒になる」
客は木のカップを傾け、ぼそりと続けた。
「ここじゃ、表向きは“人間族至上”。異種族のもんを使うだけで罪人扱いだ。だがな――裏じゃ誰もが異種族の素材に頼ってる。薬も、織物も、魔石もな」
「……矛盾してる」
水をひとくち舐める程度飲んだエレンは眉をひそめる。
客は肩をすくめた。
「矛盾だろうが何だろうが、貴族様の顔色がすべてだ。俺ら庶民は、命が惜しけりゃ従うしかないんだよ」
別の席で飲んでいた老人も口を挟んだ。
「本音を言えばな、あの市場のやり方じゃ街が持たねぇ。だから裏取引が横行してる。役人も兵士も知ってるさ。だが、見て見ぬふりだ」
ウェンツたちは思わず顔を見合わせた。
市場での徹底した排斥と、この酒場での吐露。
同じ人間族でありながら、これほど表と裏で違うのかと。
ツマミをひとくち食べて、橘花は静かに呟いた。
「……支配してる奴らが、全部腐らせてるってことか」
その声に、酒場の誰もが黙り込んだ。だが反論する者はいない。
皆、真実を知っていたからだ。
思わず喉を潤す休憩代わりになった酒場を出ると、街の空気は再びよそよそしく冷たかった。
陽は傾き始め、旧ミヤコの石畳に長い影を落としている。
「……外と中で、こんなにも違うなんてな」
ロイヤードがぼやき、ソータがきょろきょろと周囲を見回す。
「なんか、じろじろ見られてる気がしますよ」
橘花は無言のまま歩みを止め、軽く首を傾けた。
――簡易マップを開く。
そこに映っていたのは、酒場を出た直後から一定の距離を保って後をつけてくる赤い点。
「……やっぱりな」
低く呟く橘花に、ウェンツたちは緊張した面持ちで視線を寄せた。
「誰か……ついてきてますか?」
「うん。下手な隠れ方だ。あれじゃ“監視してます”って言ってるようなもんだ」
歩みを再開しつつ、橘花はあえて露店に立ち寄ったり、わざと遠回りをしてみた。
それでも監視者は距離を変えずについてくる。
「どうする?」とエレンが小声で尋ねる。
橘花はちらと振り返り、紫頭巾の下で笑った。
「どうもしないさ。……まだ泳がせる」
「泳がせる?」
「うん。相手が誰に報告しようとしてるかを見てからだ」
その声には、鋭い静けさが宿っていた。
監視の目は、確かに自分たちを追っている。
だが橘花の視線は、そのさらに奥――監視者を操る“黒幕”に向いていた。
橘花たちは石畳を進む足を緩め、あえて人通りの多い市場へと紛れ込む。
香辛料の匂い、焼き立てのパン、呼び込みの声が錯綜し、視線を追うのも難しい雑踏だ。
それでも――簡易マップの片隅で赤い点は消えない。
「……しつこいな」
橘花が低く呟くと、ロイヤードが眉をひそめる。
「普通なら見失うはずだけど……」
「つまり、慣れてる。監視の仕事に」
その言葉に四人の表情が強張った。
橘花は紫頭巾を少し下げて苦笑する。
「心配ない。逆にチャンスだ。こっちが追われてると見せかけて、向こうを追う」
市場を抜け、大通りから外れた時、赤い点がふっと動きを変えた。
尾行をやめるのではない。むしろ逆で、こちらを見届けたあと、別方向へ歩き出したのだ。
「……今だな」
橘花は早足になりそうな一歩を抑え、今度は距離を取ってその後をつけ始めた。
監視者は路地裏を抜け、旧ミヤコの外縁に近い区画へと足を運んでいく。
石造りの高い塀、門番のいない裏口、わずかな明かりが漏れる屋敷の影――。
橘花は立ち止まり、唇を噛んだ。
「あそこか……」
視線の先には、ゲーム時代ではかつて名を馳せた豪商の館だった場所。
しかし今、その館は「ある貴族」の手に渡っている。
簡易マップに表示された名は――エルネスト・ホークの屋敷。
「……やっぱり、あいつか」
紫頭巾の下で、橘花の眼差しが鋭さを増す。
何とか着いてきたウェンツがごくりと唾を呑み、問いかけた。
「橘花さん……どうします? 突入しますか?」
橘花は小さく首を振る。
「まだだ。敵の懐に潜り込むには、証拠と、逃げ道が要る」
こうして屋敷の名前が簡易マップに表示されるのもゲーム仕様なのか、関係があると判断されたのか、ここでようやく表示が出た。
関係ない周りの建物などは灰色で表示されるのみ。
そう考えると、アルミルの街の名前を知らずにいた最初の頃、どうやって街の名前を聞こうか悩んでいたことがあったあの時、街中でサクッと簡易マップを表示すれば見れたのではないかと、今更ながら一人悶絶する黒歴史に気づく。
「橘花さん?」
「……何でもない。相手が屋敷に入る直前に動くから、また後から追いかけてきて」
一人、思い出した過去の羞恥に耐えながら、橘花は監視者を簡易マップ上で見ていた。
赤い点が屋敷の裏口に吸い込まれる直前――。
橘花は一瞬だけ息を潜め、影のように走り出し、『電光石火』で距離を詰める。
監視者が背後を気にする間もなく、橘花の手が肩をがっちりと掴んだ。
「っ……!?」
相手が呻く間もなく、捕縛綱で捕縛する。硬直機能が発動し、監視者の身体はがちりと固まった。
騒がれる前に即行で裏口から連れ去る。
橘花が向かったのは人気のない外壁近く。慌ててウェンツたちも橘花を追う。
人のいない空き家に入ると、ウェンツたちはドアを閉め、橘花は捕らえた男を普通の縄で縛り直し、椅子に腰かけさせた。
唐突に体の痺れがなくなった男は「何も答えないぞ」と橘花に怒鳴るが、対する橘花は特に凄むでもなく、軽い調子で目の前に椅子の背もたれを前にして跨ぐように腰を下ろす。
「さて、と。質問に答えないって言ってたよな?」
男は無言を貫き、視線を逸らす。
橘花は近くにある粗末な机の上に拳を置いた。軽く、トン、と音が響く。
その瞬間、後ろで見ていたウェンツ、ロイヤード、エレンの三人は息を飲んだ。
まるで嵐の目のような橘花の存在感に、誰も声を出せない。
「私は、無理に殴ったりはしない。……そういうの好きじゃないしな」
橘花は肩をすくめる。
「ただ黙ったままでもいいんだ。時間さえかけりゃ、いずれ分かる。――で、お前はその間ずっとここに座ってりゃいいだけだ」
にこりと笑う橘花。
男の喉が小さく鳴った。
「『人は沈黙が一番きつい』んだって。こっちは待てる。だから黙ってりゃいい。三日でも五日でも」
橘花は腕を組んで背もたれに置き、じっと相手を見続ける。
笑顔でも睨みでもない。ただ「見ている」だけ。
背後の三人は、息をひそめて戦々恐々。
「こ、これ、橘花さん……」
「まさか……あの冷静さで……?」
「怖すぎる……!」
一方で、ソータだけは違った。目を輝かせて「闇堕ち橘花さんも萌える!」と、完全に別の方向で喜んでいる。
数十秒の沈黙。空気を読んだソータを含め四人も黙る。
しん、とした狭い空間で感情のない目で見つめられ続け、男の額に汗がにじみ始めると、縛られた手がかすかに震え始めた。
やがて、口が動く。
「……ホ、ホーク家だ……俺は、命じられて……!」
橘花は「ああ、やっぱりか」と軽く頷いた。
まるで、相手が白状するのを確信していたかのように。
後ろで戦々恐々の三人は、ほっと息をつき、ソータだけはニヤニヤしたまま。
ただの空き家の中に、静かで奇妙な空気が流れた――恐怖と萌えが混ざった不思議な時間だった。




