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八月十三日の時点では、明日父親を殺すのかと思うと、透は朝から高鳴りを抑えることができなかった。が、今日はやけに落ち着いていた。
午後九時半に、父親が襖を閉めた一階の和室に、酒を持っていく時も、全く緊張しなかった。だからといって、わくわくもしなかった。学校にいる時と似ていて、特に楽しくもなく、つまらなくもなく、心が空っぽのまま透は和室を訪れた。
「父さん、入るよ」
一応一声かけてから、透は和室に入った。
「おぉ、透か。どうした?」
「ほら、これ、買って来たんだ」
透が手を前に差し出すと、部屋の中央に敷かれた白い布団の上で、胡坐をかいて目覚まし時計をいじっていた父親は、目を細めて彼の持つ茶色の酒瓶を見つめる。
「それ酒か?どこで買って来たんだ?」
「ちょっとね……。父さんに、飲んでもらおうと思って」
箱に入れた酒瓶は、目につくように、居間に置かれた冷蔵庫の横に置いていたのだが、父親の驚きの表情からして、酒の存在は少なくとも彼には認知されていなかったようだ。
まぁそんなことはどうでもいい。予め、父親が用意しておいた酒を飲んで、自ら事故死を招いたと、花圃に勘違いしてもらうのが一番の目的なのだから。
透は父親の横の、畳の上に座り、酒瓶を彼に手渡す。
「さっ、ぐいっと飲んじゃってよ」
父親が酒好きなのは子供の頃から見ていて知っている。母親と別居するようになってから、一度も酒を口にしているところを見たことはないが、これに食いつかない筈がない。
透の予想通り、父親は嬉しそうに酒瓶を受け取った。しかし、なぜかすぐには飲もうとしなかった。
「透、未成年なのによく酒が買えたな」
「まぁね。店員誤魔化すのなんてちょろいもんだよ」
「どうやって買ったんだ?」
「ただ、余分に酒代をレジに置いて、酒瓶を持って店を出ただけだよ。もちろん、サングラスかけて帽子を被るくらいのことはしたよ」
「それだけで買えるものなのか?」
酒に何か仕込んであると疑っているのだろうか。父親はしつこく尋ねてくる。
父親に嘘を吐く必要性は感じられないので、ただ真実を述べるだけで良いのだが、透は早く酒を飲んでほしかった。
「買えるよ。『お客さん!』って大きな声出されたけどね。お金余分に貰って警察に通報する人はそうそういないでしょ。店員には追いかけられることもなかったし、造作なかったよ」
「そうか……。賢くなったのは嬉しいが、悪用はするなよ」
お前に言われたくない。
透は心の中で悪態を吐く。
「じゃあ、わざわざ息子が買って来てくれたものだからな。いただくとするか」
父親は瓶に口をつけて一気に呷る。
「あぁ、うまい!久しぶりの酒だ」
嬉しそうに酒を飲む父親を見ていると、ついに透の中にも罪悪感が渦を巻き始めた。
こいつは自分の子供を犯したクズだ。しかし、こいつも生きている訳だし、楽しみくらいはある。水だって飲むし、トイレにも行く。クズはクズでも、人間なんだ。一人の人間を、俺はこれから殺そうとしている……。正気か?本当に俺は人を殺せるのか?殺した後は、どうするつもりだ?
黙れ……。
いや、聞け。自分が何をしようとしているのか、よく考えろ。
透は心の中のもう一人の自分に叱責され、頭を左右に振る。
―透、お前は悪い子だ。悪い子には、罰を与えないとな。
黙れ。こいつが生きている限り、俺は、花圃は、普通の人生を送ることすらできないんだ。こいつを今殺さなかったら、俺たちはこいつに押し潰されて、死んだほうがましだと思い、いつか自殺してしまう。俺は源川ほど強くないんだ。臆病なんだよ。こいつが生きていると、俺は苦しくて、苦しくて、死にたくないのに死のうと体が動いてしまうんだよ。
「透、大丈夫か?」
父親に顔を覗きこまれ、透は悲鳴を上げて立ちあがり、勢い余って壁に背をぶつけた。
「大丈夫……。それより、酒はもう全部飲み終わったの?」
「あぁ。久しぶりの酒で、嬉しくてな。一気に飲んじまった……。うまかったよ」
父親の顔はいつの間にか紅潮していた。
「そう。じゃあ、今日はもうゆっくり寝なよ」
透はさっさと和室を出ようと、襖に手を伸ばした。と、同時に、後ろから父親に名前を呼ばれた。
「透……」
死を予期しているかのように、父親の声は弱々しかった。
「何?」
「透が花圃の兄で、本当に良かった。お前なら、安心して花圃のことを任せられそうだ」
「何言ってんだよ。今日で死ぬ訳でもないのに」
襖に正面を向けたまま、しばらく返事を待ったが、父親からの返答はなかった。
振り返ると、既に敷布団の上に横になっている父親の姿が目に入った。
どうやら眠りに落ちたらしい。ようやく実行の時が来たか。いや、その前に確認だ。
「父さん、寝てるの?」
一分様子を見たが、父親の口から言葉が発せられることはなかった。
実行の時だ。迷ってなんかいられない。時間は限られている。
透はまず、ズボンのポケットからビニール手袋を取り出し、それを両手にはめ、仰向けの父親に白い掛布団をかけて、タイマーで冷房の電源が途中で切れないよう、エアコンのリモコンの『取消』ボタンを押し『切タイマー』の予約を取り消す。次に、リモコンで冷房を稼働させ、設定温度を最低の十八度にする(透や花圃の部屋のエアコンなら、十六度まで設定できるが、和室に取りつけられているエアコンは、十年近く前に製造された、型の古いものだった。とはいえ、起こす風の強さは透や花圃の部屋のエアコンよりもずっと上だ)。それが終わると、リモコンを、父親が頭を乗せている枕の横の畳の上に置き、電灯を消し、一旦和室を出てトイレに向かう。
居間と廊下を経由して、目的のトイレに辿り着いても、透は電灯を点けなかった。理由は早い内に夜目に慣れておきたかったからだ。
昼間、家に誰もいない時、目を瞑って何度も和室からトイレへ歩く練習をしたので、灯りがなくとも、難なくトイレには辿り着けた。しかし、オレンジの芳香剤と、ポータブルラジオレコーダーを手に取るのに少しだけ手間どった。
再び暗闇の中、和室へと戻る途中、透はレコーダーの電源をオフにした。
昨日の午後五時から、レコーダーの電源は入ったままだったので、機械にも少し休んでもらうつもりだった。
和室の襖を開けると、父親の鼾が聞こえてきた。
やった……。これでもう完全犯罪は達成したも同然だ。
透はレコーダーと芳香剤を胸に抱いたまま、襖を閉めて、唐突に高揚感に襲われ、無意識にへたりこむ。
花圃、やったぞ。俺たちもうこいつに苦しめられることはなくなるんだ。花圃は……花圃は、もう、普通の人生を送ることができる。良かった。本当に良かった。まさかこんなに簡単にことがうまく運ぶとは思わなかった。花圃、お前はもう、死ぬことを考える必要なんてなくなったんだ。良かったな。良かったな、花圃……。
嬉しさのあまり、涙が浮かんできた。
もはや、目標を達成させるのに必要なことは、レコーダーの電源ボタンと再生ボタンを押すだけだった。
透は涙がこぼれないよう、それをパジャマの袖で拭ってから、敷布団に触れないよう、レコーダーと芳香剤を片手で胸に抱いて運びながら、慎重に畳の上を這って行く。そして、芳香剤とレコーダーを配置する場所の目印として置いておいた、エアコンのリモコンに、ビニール手袋越しに手が当たると、暗闇の中で、リモコンに背が接するように、トイレから持ち込んできたものをセットする。
エアコンで室温を下げて、嗅覚と聴覚を利用し、条件反射を起こさせる。完璧だ。あとは最後に残った『導火線』に火を点けるだけだ。
透はゆっくりと、レコーダーの電源ボタンを押した。
「ふぐ……」
『ぷつん』と、レコーダーの稼働音がしたと同時に、父親の鼾が聞こえなくなった。
しまった……。失敗か?
今ので起きてしまったのだろうかと不安になったが、すぐに鼾による旋律は再開した。
人を殺したら、俺もこのクズのように、ブライニクルのように、触れた者を次々と凍らせ、その者に与えられた時間を奪う存在になるのかもしれない。
暗闇の中、透は父親の顔があると考えられる、下品な旋律を奏でる根源へと目を向ける。
しかし、仮にそうなったとしても、その時の俺は、世界に対しても、誰に対しても、文句を言えるような人ではなくなっている。だから、その時は、自分が手にする運命とやらを受け入れよう。俺は、こいつのように、自分の欲だけに突き動かされるような人間にはなりたくない。
『透、一緒に川に行くか?』
一瞬、透が八歳の時の、平穏な家庭内で投げかけられた、父親の言葉が思い起こされた。が、気にせず再生ボタンへと手を伸ばし、オレンジの―この場には似つかわしくない―爽やかな香りを鼻で吸い込む。
あんたのことは……。あんたのことは、尊敬していたが、今となっては二度と顔も見たくない世界で一番憎い人間だ。俺のことはどうでもいい。だが、花圃のことを少しでも大事に思っているのなら、このまま黙って地獄に行け。それがあんたの向かうべき場所だ。俺は……。俺は、昔のあんたとまた、ラーメンが食べたかったよ。
透は数回深呼吸をしてから、最後の導火線に火を点けた。




