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『透、お前は俺の言うことを黙って聞いていれば良いんだ。そうすれば、父さんも、花圃やお前の友達には、あの映像を見せたりはしない』
父親の言葉は見えない鎖だった。透はどんなに小さなことをする時でも、父親の影に怯える生活を送っていた。
自由など、自分には存在しないと思っていた。自分は人を好きになってはいけないのだと思い込んでいた。
それらが間違えであることを教えてくれたのは、ゆみだった。
ゆみは透の支えになりたいと言った。透を支え続けると約束した。
透にとって、彼女は光だった。幼馴染の千代ですら言えないことも、透はゆみになら話すことができた。
『俺、父親に犯されたことがあるんだ』
『それって、犯罪だよね』
思い切って自らの過去を打ち明けた時も、ゆみは悲しい顔一つせずに、笑みを浮かべた。常に透の光であり続けた。
透はゆみに笑われて嬉しかった。同情してほしくもなかったし、解ったようなことを言ってほしくもなかったから、透もゆみの笑顔を見ていると、自然と笑みが浮かんだ。
その時から、父親の毒牙の餌食にならないよう、他の友人とは距離をおいていた透は、ゆみとだけは一生友達でいようと思うようになった。
しかし、そのゆみも、今年の一月に、薬を大量に服用して死んでしまった。
何でだよ。何で死んだんだよ源川。
透は机の引き出しから、ゆみに貰ったハルシオンを手に取り、空虚な双眸でそれを眺める。
『山岸、いいか?落ち着いて聞けよ。源川はな、トラリゾアムって言ったっけかな……。とにかく、頭痛薬と睡眠薬をたくさん飲んで倒れたらしい。あとは、お前なら言わなくても解るよな……』
中学三年生の時に同級生だった風間は、今年の四月に、ゆみの死をそれとなく電話で透に告げ『お前には本当のことを伝えておきたかったんだ』と言って、通話を切った。
透は風間とは別の同級生には『ゆみは海外に引っ越した』と聞いていた。風間が透に伝えなければ、彼がゆみの死を認知することはなかった。しかし、透は風間に感謝していた。ゆみに何があったのか、どうして連絡が取れなくなったのか、本当のことを知りたかったから、風間に負の感情を抱くことはなかった。が、ゆみの死を知って、彼の中に生まれたのは、底知れない絶望感だった。
源川のばか……。
『私は死なないよ。お守りがあるんだから』
ゆみはハルシオン、すなわちトリアゾラムをお守りと呼んでいた。それは決して飲む気はないと話していた。ゆみが飲む気はないと言ったのだから、透は彼女が最期まで飲む気はなかったのだと、今では信じている。信じてはいるが、どうしてトリアゾラムを飲んだのかは解らなかった。
午後六時半、透はゆみから貰った『お守り』を花圃に飲ませるか、それとも、服用すると眠くなることで一部のネット住民からは評判の頭痛薬を飲ませるか、ぎりぎりまで悩んだ。悩んだ末、夕飯のカレーライスを花圃と食べ終わった後、彼女にビタミン剤と称して渡したのは頭痛薬だった。効き目はトリアゾラムのほうが良いのは明らかだが、透はゆみとの思い出を繋ぎとめる、唯一触れることのできる思い出を手放すことはできなかった。
『駅で配ってたサンプルを貰ってきたんだ』と、言っただけでは、白い錠剤を花圃は口にしようとしなかったが『美容に効果があるらしいぞ』と言うと、訝し気に頭痛薬を二錠飲みこんだ。
トリアゾラムとは違い、すぐには眠くならないが、三十分近く経てば、次第に眠気を催してくることは、三回自分の体で実験したので、知っていた。
その後は透も花圃も、既に風呂に入り、パジャマを着ていたので、あとは花圃を自室に呼んで、小難しい話を聞かせていれば、その内彼女は眠るだろうと彼は判断し、実行した。
「小枝に縛られた象の話って知ってるか?人間によって、子供の頃から大木に繋がれて、木からは逃げることは不可能だと学習をした象は、大人になって、小枝に繋がれても逃げようとはしないって話だ。子供の頃、どんなに抵抗しても木から逃れられなかった体験が、象を無力感にさせる。こういうことを、学習性無力感って言ってな、何も象に限ったことじゃないんだ。アウシュビッツの強制収容所くらいは知ってるだろ?ユダヤ人の中には、その収容所で、何をしたって殴られるから、終いには何もしなくなったって話があるそうだ。これも学習性無力感の一つな訳だが……って、そんな顔するなよ。皮肉なことだけどな、あの場所で人体実験が行われたからこそ、医療も進歩したんだからよ。俺たちはさ、たくさんの犠牲の下で生まれた世界に生きているんだ。戦争が酷い話だからって、目をそむけて、自分だけ楽しく生きようって考えは、俺は感心しないな」
透が長話している間に、薬が効いてきたのか、花圃はベッドの上に座り、彼の話を聞いていたが、やがて横になり、目を閉じた。今日は一日中自室で夏休みの課題に取り組んでいたので、疲れと薬の効果も相俟って、静かにしていれば最低でも五時間は寝ている筈だ。
透は花圃の右手にクマのぬいぐるみの左手を握らせると、自室を出て、一階の居間に向かった。
父親が帰宅した時刻は、花圃がベッドの上に横になってから約一時間が過ぎた、午後八時二分。
苛立っていたらどうしようかと思ったが、父親は珍しく上機嫌だった。




