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予期せぬ出来事というのは、立て続けに起こるものらしい。
午後四時五十七分、透は花圃の話を聞いて、一階の和室に置かれたタンスの中を、片っ端から調べていた。
今年の四月に、透が家の中を隅々まで調べたものの、花圃の話によると、父親はまだ彼女の痴態を写したテープを所持しているということだった。
それをネタにして、実の娘を脅すとは、あいつはもはや人間ではない。
花圃に頼んで、透も携帯電話に送られてきたという、父親からの脅迫メールを何件か見せてもらった。
脅迫メールの内容は、人に悪口を言われてもへこたれない透でも、読んだだけで八つ裂きにされたような気にさせる、卑劣なものだった。
そんなものを、毎日のように何十件も送られていたら、死にたくもなるだろう。
花圃の同級生には、父親を恐れる彼女の気持を到底理解することはできないだろうが、透には妹の気持が痛いほど解った。
二人にとって、自分の痴態が写されたテープは、恐怖の象徴だった。少なくとも透は、自分が父親に写された映像が、この世にどんな形でも存在している限り、自分は幸福な人生を送ることも、人を好きになることも赦されないと、小学生の頃から思っている。
千代に好かれていることを知っていながら、透が彼女に優しくできないのも、自分が原因で彼女まで地の底に沈んでしまうのではないかという、テープによる見えない圧力が要因だった。
「くそ。どこにあるんだ」
父親の寝室でもある和室を、一通り隅々まで調べてみたが、テープ自体がどこにも見つからない。
ぐずぐずしている間にも、テープに記録された映像が、世界に拡散しているのではないかと、気ばかり焦る。
ここにはないのかもな。
透は沸き立つ負の感情を必死に抑え、ひとまず和室を後にする。
あいつのことだ。もしかしたら最近花圃がほとんど自室にいないことを利用して、花圃の部屋にテープを隠しているのかもしれない。そう思い、早速二階の花圃の部屋へと向かおうとしたが、途中、廊下から玄関口付近の靴箱の上に置いてある、レトルトカレーとごはんパックの入った、非常取出袋が目に入り、思わずそちらのほうに駆け寄った。
去年の巨大地震以降、透は玄関付近に食料を備蓄するようになっていた。
レトルトカレーは二年近く日持ちするので、買い換えたことはまだ一度も無い。一方で、うるち米の入った、ごはんパックは約七ヶ月で賞味期限が切れるので、これまで二度、古くなったものを新品と入れ換えたことがあった。
透が前回袋の中のごはんパックを新品と入れ換えたのは、今年の四月の上旬。そのすぐ後に、花圃に父親から性暴力を受けている話を聞いたが、袋の中は持ち運びやすいよう整頓していたこともあり、ここにはテープはないだろうと、中身は上から覗いただけで、わざわざ手にとって、異物がないかどうか確かめてはいなかった。
まさか、こんなところに……。
恐る恐る袋を引っ繰り返し、保存食を全て出してみたが、袋の中からテープが出てくることはなかった。
ここにもないか……。
苦笑して、レトルトカレーの入った箱を袋に戻そうとした時、一瞬本来漂う筈のない臭気を感じ取り、思わず手を止める。
この臭い、糊か?どうしてこんなところで……。
外見は何の変哲もないが、質量が他と微妙に異なる、一つの箱に訝し気な目を向けて、束の間まじまじとそれを見つめる。
透は幼い頃から接着剤の臭いが苦手だった。糊の臭いに敏感に反応して、手にした箱を自身の鼻に近付ける。
なるほど、あのクソ野郎。やりやがったな。
臭気は明らかにその箱から出ていた。
透は手で箱を乱暴に破り、切り取り線よりも上に、僅かに切り取られた跡のあるカレーが入っている筈の袋を千切り、その中からカセットテープを二つ取り出した。
やっと見つけた。こんなところに……。こんな近くにずっと置いてあったのか。
悔しさのあまり、思い切り拳を壁に殴りつけたかったが、抑えて自室へと向かう。
花圃は、透が部屋を出て行く時に見せた、深刻な表情のまま、相変わらず彼の部屋のベッドの上で、両足を伸ばし、上半身を起こした状態で座っていた。
「お兄ちゃん……」
「悪い、花圃。カセットテープが二つ、和室のエアコンの上に隠してあった。前に探した時、見付けてやれなくて、ごめんな」
透は自分と同じ遣る瀬無い思いを花圃には抱いてほしくなかったので、咄嗟に嘘の報告をした。
「ううん、見付けてくれて、ありがとう」
「……なぁ、悪いけど、これの中身、確認してくれないか?一瞬見るだけで良いんだ」
後ろめたさに、透は花圃と目を合わせることができなくなり、俯いた。
トラウマを持ってきて、直視しろと言っているようなものだ。当然断られると思ったが、透の予想に反して、花圃は力強く頷いた。
「うん、良いよ。でも、もちろん、お兄ちゃんは傍にいてくれるんだよね」
「あぁ、傍で花圃の手を握っているよ」
ぎこちない笑みを浮かべて、透は顔を上げる。目に入ってきた花圃のしおらしい表情は、見るに堪えないほど痛々しかった。
今、あいつが家にいなくて本当に良かった。今家にいたら、後先のことを考えずに、あいつを惨殺しているところだった。
「ちょっと待ってろ」
透は花圃に優しく声をかけてから一階に下りて、和室からビデオカメラと付属のコードを持って、部屋に戻る。機械に関しては詳しくなかったが、六、七歳の時に、父親がビデオカメラとテレビに三色のコードを繋いで、撮影したものをテレビ画面に映す姿を間近で見て覚えていたので、件のカセットテープをカメラの中に入れると、過去の記憶を脳裏に浮かべて、見よう見まねでコードをテレビに繋げた。
「良し、できた。音量は零にしておくからな」
花圃の返事を待たずに、透はリモコンの消音ボタンを押す。
「良いか、花圃。再生してすぐ停止させるから、画面に家の和室が映るかどうかだけ確かめれば良いんだぞ。解ったな?」
テレビに背を向けて、俯いた透が伸ばしてきた左手を、花圃は右手で握り締め、力強く頷く。
「じゃあ、一瞬だからな」
透は再生ボタンを押して、すかさず停止ボタンを押した。
いてっ!
停止ボタンを押した瞬間、花圃に左手を締めあげられ、苦痛な表情を隠しきれないまま顔を上げれば、胸に手を当てて、息苦しそうにしている彼女の姿が目に入った。
「花圃、大丈夫だ。あいつは近くにいない。安心しろ」
透が花圃の座るベッドの横に腰掛け、両手で彼女を抱きしめると、彼女は目を瞑って深呼吸をした。
すぅ、はぁ、すぅ、はぁ……。
透はすぐにでもテープに何が映っているのか確認したかったが、花圃が自分のペースで話せるようになるまで辛抱する。
すぅ、はぁ、すぅ、はぁ……。
人間の屑が。あいつは絶対に赦さない。
ちょうど透が、再び怒りの炎を燃やし始めた頃、花圃はか細い声でそっと呟いた。
「和室が映ってた……」
「あぁ、そうか」
一階の和室に、今すぐ何でも良いので父親の私物を破壊しに行きたかったが、花圃が咽び泣き始めてしまったので、透は仕方なく、幼い頃、母親がしてくれたように、彼女の背中をさすった。
「大丈夫。もう大丈夫だよ」
それから数十分後、二人は金槌で件のテープを二つとも叩き割り、再生不能にしてからゴミ袋の中に放り込んだ。
透はテープを処分し終えると、花圃が一人になりたそうな空気を醸し出していることを良いことに、制服のまま一人で浴室に向かった。
バスルームの薄緑色のタイルの上に足を下ろすと、足だけでなく、膝と肘も地に付けて、項垂れる。
花圃が今までどんな気持で生きてきたのか、あいつには一生解らないだろう。クズ野郎が。
伏し見勝ちに、透は排水溝付近のタイルの隙間へと目を向ける。いつの間にか、紅色の涙の跡は、以前見た時よりもずっと色濃くなっていた。
ここまで来たら、花圃のことを解ってやれるのも、助けてやれるのも、俺しかいない。花圃の家族として、先に生まれた者としての責任は必ず果たしてみせる。
透は虚ろな表情のまま、力強く右手の拳をタイルの上に殴りつけた。
冬まで待っている時間はない。気付いていないふりをしていただけで、もう俺たちは我慢の限界をとっくに越えている。
夏休みだ。夏休み中にあいつを凍死させてやる。自分の小便で命を落とすという、惨めな死に方は、クズ野郎にはぴったりだ。
殺す殺す殺す……。あいつの息の根は、俺が止めてやる。




