92 サボりの君
「……なんでこんなところに猫が?」
鈴香は、廊下の向こうから駆けてくる黒猫を見て呟いた。
まだ小さな黒猫は、すたたたと軽やかなステップでこちらに走ってくる。その後をタラッドとかいう頭に角が生えた男子が追って現れた。
「捕まえた」
タラッドが黒猫を抱き上げ、その腕の中に収めた。顎の舌を撫でると、黒猫は気持ちよさそうに喉を鳴らす。
「タラッドくん、その猫は……」
「叶子ちゃんだ」
「……叶子ちゃんって名前なのね」
「先生、まだクラス全員の名前は覚えてねぇだろ」
蛍光灯の光で、タラッドの瞳が緑色に見える。その瞳が、上目に鈴香を見た。
「俺の斜め前の席。猫娘のハーフなんだと。ほら、今日新月だし? 猫になってるわけ」
「……へ?」
叶子は妖怪だとでも言うつもりだろうか。首を傾げた鈴香から視線を外し、タラッドは叶子を抱きなおす。
叶子が彼の方に乗った。そのまま頭に足をかける。なんだか和むと、鈴香は元々緩んでいると言われる表情をさらに緩めた。
「まっ、別に信じろって言ってるわけじゃねぇけど。それより先生さぁ、授業はどした」
「君たちこそ。今は授業中でしょ?」
「そうじゃなきゃ、俺だってこんなこと聞かねぇだろ」
二人と一匹の間に、一瞬沈黙が下りた。
「さって、どこ行こうかな。今日は涼しいから、屋上出るか」
にゃぁと一声鳴いた叶子を頭に乗せ、くるりと鈴香に背を向けると、タラッドは頭の後ろで手を組んでそのまま歩いて行ってしまう。その華奢な背中を追いながら、口を開いた。
「ちょっと、待って? 屋上は開いてないでしょ?」
「開けるんだよ」
「どうやって?」
「この学校はな、不用心極まりねぇ事に、屋上は外から鍵開けられるんだよ」
確かに。屋上からなら、誰だろうと入ることができるという事だ。
屋上から、なら。……無理じゃない?
「だから、何?」
「先生、普通、開けられるとこ見つけたら、そこ開けるって考えね?」
隣に並んだ鈴香を、タラッドが一瞥する。
――なんだか、馬鹿にされてるみたい。
というか、馬鹿にされているのだろう。鈴香はふて腐れて唇を尖らせた。
「こっちからは開けられないんでしょ? 無理じゃない」
タラッドは頭の上の叶子と戯れている。何も聞いていない……聞こうとしていないようだ。
「大体、なんで君、そんな事知ってるの?」
私だって、ここの卒業生なのに……。
三年間過ごした校舎の事を、ピカピカの一年生に教えられるというのは少しショックだ。後輩に昔の学校の事を教えてみたいとも思っていたのに。
「サボりの常習犯に聞いた」
階段を上りながら、タラッドが言った。
「そんな子、居るの?」
もしかしたら、その子も屋上に居るのかも。見つけたら引き戻してやらなくちゃ。
引き戻すべき人物がすぐ隣にも居るにもかかわらず、鈴香の頭の中にそんな考えが浮かんだ。
「ジン。言っとくけど、去年卒業したぜ」
考えが、風船のように破裂した。
「ジン? ふぅん……知り合いなの?」
興味なさげに鈴香はつぶやくように聞いた。
「兄ちゃん。ジャイズンって言うんだ」
あぁ、なるほど。と、鈴香は頷いた。兄弟なら、当然そんな情報は上から下へ流れるよね……。
サボりの弟は、やはりサボりという訳だ。
最後の一段を登り終え、目の前には屋上へと続く扉が立ちはだかった。
「じゃ、叶子ちゃん。ちっと待っとけよ」
そう言いながら、タラッドは叶子猫を床に下ろす。
何処に行くつもりだろう。そう思って見ていると、タラッドの姿がロウソクの火のように、ふっと消えた。
「……あ、れ?」
鈴香は瞬きを繰り返し、目をこする。おかしい。ここに居た筈なのに。
不意に、扉からガチャンという音がした。びくっと肩を震わせ、そちらを見る。
「ほら、開いた」
「ど、どうやったの?」
「壁をすり抜けてだな」
「お、お化け?」
「怖がりか」
馬鹿にしたような声で言われ、鈴香はキッと彼を睨む。彼はひょいと眉を上げて、屋上へと走り出した叶子を追った。
この学校は、屋上にプールがある。きらきらと輝く水面の側を、猫、角の生えた中学生、女子大生の順で歩いた。
「君、ホントに何なの?」
「俺が聞きたい。何て生物なんだ俺。ジンですら分かんねぇんだからなぁ。知りようがねぇ。そもそも、こんな生物は居ないわけだし?」
ぶつぶつと、彼は言う。
「な、携帯持ってね? 貸してくれ」
「いいけど、何するの?」
「ジン呼ぶ。面白いの見つけたからさ」
それは叶子の事だろうか。それとも、まさか、自分の事だろうか。
彼はスマートフォンをあっさりと操り、耳へ当てる。少し時間がかかったが、誰かが出たようだ。
「あれ、なんでリオ? ……」
それだけ言った後は、鈴香の知らない言語を早口でペラペラとしゃべる。英語ではない。中国語でもなさそう。韓国語も無い。
一体、どこの誰と話しているのだろう。
タラッドの口が止まった。少し間があって、
「ジン?」
と向こうに呼ぶ。そしてまたも、謎の言語を喋った。いったい何人なのだろう。
その電話はすぐに終わり、タラッドは鈴香に携帯を返す。
「誰と話してたの?」
「ジンと、その友達。ところでアンタ、授業ホントにどしたよ」
「……トイレに行こうとした途中で、君を見つけたから」
「サボりってわけか」
はっきり言うな。




