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1話

走っていた。獣のように荒い息を吐きながら、腕を振る。服にこびりついた血が身体を重くして、足取りをふらつかせた。

追手の叫びが響く。何を言っているのかは分からない。ただ、走ることだけに神経を研ぎ澄ます。今耳に入る音は地面を蹴る音だけで、土や泥が跳ねて足元を汚すことも気にならなかった。


―――死にたくない!


ルシアンだって、選べるなら妾の子として―――それもアッシュフォード伯爵家の妾として生まれることなど拒んだ。

生まれてきたことが、それほど気に食わないなら。不倫をした父親を殺してくれ―――ッ!

何度願っても叶わない思いは、ルシアンの吐息に紛れて今日も消えてしまった。

とうに体力は限界を迎えている。一方で走り続けるのは、何度も熱望してきた思いが身体を突き動かしているお陰だった。

この街のことは何度も教え込まれてきた。地図は頭の中に入っている。今更道を間違えるなんてことは、あり得ない。

それでも、神が死ぬことを望むように。突然現れた腕は、ルシアンの腕を引いた。慌てて腕を引いた主へ視線を向ければ、細い路地裏に見知らぬ男が一人。

追手の一人かと思わず恐怖で息を飲み、足は縺れ、ルシアンの足は地面を大きく蹴った。しかし、数秒経ってもルシアンの顔が泥まみれになることはない。

何が起きたか分からず、瞬きをした。そして顔を上げてみると、ルシアンの身体は腕を引いた男が支えている。男はルシアンがこけそうになったことに驚いたのか、目を見開いてルシアンを見つめていた。

光が差し込み、暗闇に隠されていた男の姿が露わになる。

黒髪の短髪に、ルシアンと同じ灰色の瞳。驚くように尖らせられた唇はまるでアヒル口のように、ツンと跳ねていた。耳に着けたヒスイが、煌めく。

次の瞬間。唇が動く。


「見つけた」


―――後に、ルシアンはその男がこの国で一番の権力を持つレガリア公爵だということを知る。

今から始まるこの物語は、運命のいたずらと呼ぶには少し出来過ぎている、愛と、それと少しの涙で濡れた神の寝物語だ。


ルシアンはアッシュフォード伯爵家の一人目の子ども―――それも愛人の子として生まれた。最悪なことに、女の身体で。

当然、妾の存在を疎む者は多い。その筆頭が、アッシュフォード伯爵家の正妻である。

彼女はルシアンを殺そうと目論見、幼い頃から何度も暗殺を仕掛けていた。今回も恐らくルシアンを殺す為に雇ったごろつきによる襲撃といったところか。

もちろん、ルシアンの母親も殺させまいと護衛をつけるなど対策を取ってきた。が、結果は火を見るよりも明らかだ。

ルシアンがひとりで逃げていた―――その事実がすべてを物語っている。

女であることを隠す為にきつく巻きつけられたサラシが苦しくて、ルシアンは息を吐く。すると、隣で頬杖をついて外の景色を眺めていた男が口を開いた。


「そんなに俺の隣が嫌か?」


からかうように、その唇はニヒルに笑っている。先ほどまで死に直面していたルシアンのことを笑い飛ばすような態度は、命の恩人とはいえ気分が良くなかった。

それでも、逆らうことはこの男が背負う立場のせいでできそうにない。拳を握り、首を振る。


「まだ、生きた心地がしないだけ、です」


嘘は吐いていない。事実、隣に座る男が、ディ・ノクティス公爵家―――その現当主、レガリア公爵だと分かっているからこそ、ルシアンは息を詰めていた。

レガリア公爵。切り目がちの瞳に浮かぶ、忌み嫌われた灰色の瞳。この国の貴族には珍しい黒髪は短く切り揃えられ、細い眉まで露出していた。

そんなレガリア公爵が当主を務めるのは、ディ・ノクティス公爵家。そこは王家ですら手を出すことができないタブーだ。それは建国時、共に王家と立ち上がり、土地を収めたという伝説を持つから…ではなく。ディ・ノクティス公爵家の裏の顔が関係している。


―――クロマ・ドミナ。

それはディ・ノクティス公爵家が運営する王国を牛耳るカルテルだ。貴族から庶民、果てにはスラムで飢餓に苦しむ子どもですら知っている。

王家も当然知っているだろう。しかし、手を出すことはできない。クロマ・ドミナは庶民には害を成さないから庶民からの好感は高いし、何より、クロマ・ドミナがいることで裏社会の自治作用があるためだ。

とはいえ。同じ裏社会の人間相手には容赦しないが、それもまた庶民からすれば救いのように思えるらしい。

そのせいで、この国の建国神話に敬意を払い、いつしかこう呼ばれるようになったそうだ。クロマ・ドミナ、と。

普段は母親がつけた家庭教師に勉強を教え込まれているルシアンですら知っている、この国の伝承のようなものだった。

王家もいるというのに、クロマの名前を使うなど大層な話だと初めて聞いたときは思ったものだ。それでも、否定できない。この国の王家が腐りきっていることを知っているからだろうか。

俯けば、レガリア公爵が被せてくれたコートが目に入る。ルシアンより一回り大きい服は、護衛が自分を守る為に外敵を切りつけた時血液を隠してくれるようだった。


「…別にいいけど…。気張っていて辛いのはお前自身だろ、今から俺の屋敷に行くんだからな」

「…え?…え!?な、なんで…!」

「外、見てなかったのか?お前の屋敷とは正反対の道を走っていただろうに」


レガリア公爵はルシアンを探るような視線を無遠慮に向けていたが、その気も失せたらしい。首筋を摩ると、ルシアンにとって衝撃的な言葉をぶつけた。

そもそもの話。ルシアンが今馬車に乗っているのは、レガリア公爵に家紋が刻まれた宝石を見せられ「お前の母親に頼まれた」と告げられたからだ。曰く、安全な場所に連れて行くよう頼まれたという。

それなのに、ディ・ノクティス公爵家の屋敷に行くなんて。ルシアンからすれば殺されに行くも同然で、聞き返してしまうのも当然だった。

しかしレガリア公爵は呆れた様子で馬車の窓ガラスをノックする。たしかに、視線を向ければ窓の外は普段ルシアンが見ることがない景色が広がっていた。


「一応言うけど、誘拐でもないぞ」

「っ、な、んで言い切れるん、ですか」

「俺がお前を攫うメリットがないから。子どもであるお前でも意味は理解できるだろ?」


レガリア公爵は念のため、というようにルシアンの頭に浮かんだ可能性を潰した。そして噛みついてくることも分かっていたというように、声色も変えず冷たく言い放つ。

―――価値がない。

それは、ルシアンの立ち位置を明確に示している言葉だった。

ルシアンは愛人の子どもでしかなくて、あくまで後継者候補の立ち位置で留まっている。正妻が子どもを産めば、その候補にすら入れてもらえなくなるだろう。

大体、ディ・ノクティス公爵家からすればアッシュフォード伯爵家なんて、言葉ひとつで潰せるような小さな家だ。レガリアがわざわざ出向く必要も、なにもない。

命の危機が迫っていたから、どうやら感情が昂っていたらしい。値踏みはルシアンの生存確率を高めてくれる術だというのに。

腕を掴みながら、唇を噛む。何も言い返すことはできなかった。


「お言葉ですが…レガリア様、相手は子どもですよ」

「へえ?子どもであれば公爵家に歯向かう者も許されると」

「…そういう訳ではありません。ですが、幾度も言っていたでしょう」

「…それ以上話してみろ。屋敷に着く前にお前の首は胴体とおさらばだろうな」


暗い空気が流れた馬車の中で、はあ、とため息が漏れる。困惑して顔をあげれば、どうやらレガリア公爵の隣に座る男が出したため息だったらしい。

赤髪、赤い瞳というこの国では珍しい外見をした麗しい顔立ちの男は、レガリアを宥めるように優しく語り掛けた。しかしレガリア公爵は男の態度が気に食わないというように啖呵を切る。

馬車内にいるのは、男とレガリア公爵、そしてルシアンだけだ。男が庇ってくれたことはすぐに分かった。子どもと呼ばれる見た目をした人間はルシアンしかいないから。

どうして庇ってくれたのか分からなくて、顔をあげる。すると、ぱちり。男と目が合う。そうすると、心の中を見透かすような、赤い瞳をした男は眉一つ動かさず、ただ一方で静かに「ルシアン様」と名前を呼んだ。


「どうかお気になさらず。レガリア様はあなたを望んでいますから」

「おい」

「…そこまで望まれるのであれば、ルシアン様を迎えに行くまでのご様子をお話してもいいんですよ」

「…ああ、もう。クソ…今はそういうことにしてやる」


押し負けたというように、男に反論を止めたレガリア公爵はぷいと外を見つめていた。その頬は膨らんでいて、ルシアンよりも大きい身体をしているもののどこか子どものように見える。

ルシアンが困惑していることに気づいたんだろう。男がくすりと笑みを零す。


「気にしないで構いませんよ。屋敷に戻れば機嫌も戻りますから」

「…そう、なんですか?」

「ええ、あなたがいる限りは。どうか我が主の無礼もお許しくださいませ」

「と、とんでもない、です」


向けられた好意の意図が読み解けず、言葉が途切れそうになる。

特徴的な見た目にも関わらず見覚えはないが、レガリア公爵とここまで親し気なのだ。きっと側近のような立場にいるのだろう。

ぺこりと頭を下げれば、男はにこりと綺麗な笑みをルシアンに見せる。敵意は感じなかった。

それでも、その笑みに威圧感を覚えてしまったのは、ルシアンがこの状況に気圧されているせいだろうか。虚勢を張るように拳を握ると、また俯く。

レガリア公爵よりも一回り小さい手のひら。それは、守られる側に立つしかない自分の現実を示していた。


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