1.箱庭の思い出
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トリスタンは、裕福な庶民の出だった。ナイトの称号は庶民に与えられることもある。
トリスタンと出会ったのは、セシリアがまだ十歳の時だった。その時彼は確か15になる年で、訓練の合間にセシリアが足繁く通っていた花園に迷い込んでしまったようだった。
セシリアは、花が咲き乱れるその場所で、トリスタンを見つけた。
彼は、困惑の表情を浮かべながら、それでも花々に目を奪われたように立ち尽くしていた。まだまだ小柄な身体に少しだけ不釣り合いの大きな甲冑に、使い込まれた剣帯を下げて、澄んだ青色の瞳を望洋と沿わせていた。
セシリアは、気づけばその青年に見惚れていた。
そこでふと、青年が初めてこちらに気づく。セシリアの姿を収め、青い瞳を記憶をたどるように巡らせて、ややあって困ったように小首を傾げた。
「…レディ、失礼ですが道に迷ってしまったようなのです。」
レディーー幼いセシリアはそう呼ばれて初めて目を瞬いた。どうやら彼はセシリアが王女であると分からなかったようだ。それでも格好から高貴な身分であることを察し、叱責を受ける覚悟で異性であるセシリアに声をかけた。
「貴女は、 私のようなものがお声がけすることの許されない高貴な方だとは思いますが、どうか道を教えていただけませんか?」
「 …ここは、わたくしの花園よ。おとうさまがわたくしのために作ってくださったの。」
セシリアが答えると、青年は一拍ほど間を開けてーー僅かに考え込んでーーそれからぎょっと瞳を見開いた。
ーーきらきら。青い瞳の中に、蝶の鱗粉みたいな金の虹彩が眩しい虹を差し込む。
それに、一瞬見惚れる。
「それは…!大変失礼いたしました、姫殿下。 」
膝でも付きそうな勢いで、青年が頭を下げた。
セシリアはそれを白昼夢でも見ているみたいにぼんやりと眺めていた。サラサラとした黒髪が綺麗なかんばせに影を落とすのを、どこか残念に思いながら。
「 花園の出口はあっちよ。まっすぐ行って、左にまがるの。」
指をさして、教えてあげた。青年がぱっと顔を上げる。セシリアを見、慌ててまた頭を下げて「ありがとうございます 」と畏まって言う。
御前を失礼します、と立ち上がって踵を返した背中が名残惜しくなって、気が付けば口を開いていた。
「 まーーまって!」
「……? 」
不思議そうな表情でーー彼はまだ幼かったから、感情を裏に隠すのが苦手だったーー振り向いた。
「 名前は、名前はなんというの?」
「ーートリスタン= レオ=アンリヴィルでございます、姫殿下」
トリスタン…教えられた名前を口の中で転がす。
トリスタンは未だ不思議そうな顔のまま、そこに立っていた。
その後しばらくして、セシリアは己の護衛騎士に彼を指名した。まだ無名だったトリスタンを選んだことに、誰もが不可解そうな顔をした。
それが少しだけ、愉快だった。
「 姫殿下?」
「 …」
「 セシリア」
「 …え?」
名前を呼ばれていることに、ふと気がつく。
「 どうかして、エルドリック?」
エルドリックが心配そうな顔でこちらを見ていた。若葉色の澄んだ瞳が、セシリアのくすんだ青の瞳を静かに捉える。
「…やはり、少しお疲れなのでは。あとの執務は私がやっておきますから、お休みになってください。」
「 いえ、いいの。心配させてしまってごめんなさい。わたくしは大丈夫だから、エルドリック。」
「ーーセシリア。次期女王たるもの休息も肝要です。最近鏡を見ましたか?酷い顔色です。侍女たちはいったい何をしているのかと苦言を呈したくなるほどですよ。 」
積み上げられた執務の書類を見やって、エルドリックはまた心配そうな顔をする。
ぎゅぅっと胸が締め付けられる。トリスタンが死んでから、なかなか上手く寝付けなかった。もっと上手に取り繕えると思っていたのに、いくら頑張ろうと思っても、身体は言うことを聞かない。昨日なんて、トリスタンと交わした些細な言葉が浮かんでは消え、色付いては溶け出していくせいで、一睡もできなかった。
もちろん、侍女たちはセシリアの体調を心配して執務をやめるように言ったが、それを断ったのはセシリア自身だ。
「 侍女たちは充分によく仕事をしているわ。朝も彼女たちに心配されたのよ。……そんなにひどい顔をしている?」
セシリアの問いに、エルドリックはすぐさま頷く。
「 ええ。私が医務官であったなら、今すぐ療養の診断を出すくらいには。」
「療養って…… 」
本当に大丈夫だから、と続けようとした言葉は、エルドリックの気遣うような眼差しに溶けていってしまう。
「 …分かったわ、白状する。ここ最近眠れていないのよ。休んだって、眠れないのだからこうして仕事をしている方がいいのよ。」
「 眠れていないのですか?……ああ、本当だ。隈も化粧で隠していたのですね?」
近づいてきたエルドリックの温かな手が、そっと頬に触れる。トリスタンはそんなことをしてくれなかったーー騎士と姫のあるべき距離を守る為に。それがトリスタンの愛情だったのだから。
なぜだか虚しくなる。
(ああ、だめよ、セシリア。トリスタンはもういないの。 )
「 心配しないでください。貴女の仕事もちゃんと私がやっておきますから。…今日はただゆっくり休んで。」
頬からセシリアの隈をそっと撫で、愛おしむように静かに微笑んだ。
エルドリックが机の側に置いてあった呼び鈴を鳴らす。チリンと澄んだ音がした。
「お呼びでしょうか、侯爵閣下 」
セシリアの侍女であるコレットがしずしずと頭を下げる。
「姫殿下の体調が優れない。寝室に戻って休ませて差し上げなさい。 」
「はい、なんなりと。姫殿下、行きましょう。」
コレットが心配に榛色の瞳を揺らして、セシリアを支えるように手の平を差し出した。
エルドリックが心配している。仕方なく、その手を取る。
セシリアを気遣ってかゆっくりと歩き出したコレットに従って、長い王宮の廊下を渡る。深い真紅の絨毯が何処までも何処までも続いているみたいだ。
「 姫殿下、やはりご体調が優れなかったのですね。あれ程お休みくださいと言いましたのに。」
コレットの言葉は非難するようなのに、声音は酷く優しい。申し訳なくなって眉を下げる。
「 …ごめんなさい、心配をかけて」
「今日はお嬢様のお好きな紅茶をお入れして、よく眠れるお香を焚いておきます。 」
繋がれた手に、優しく力が籠もる。
コレットも、エルドリックもみんな優しい。その優しさを突き放しきれないのは、セシリアの甘さだろうか。
セシリアは、エルドリックの眼差しが怖くてたまらない。いつかセシリアの秘密を暴いて、冷たい眼差しを向けられることが。あの優しいひとに、軽蔑を向けられるのが。
…ああ、駄目だ。どんどん卑屈になっている。確かに少しくらい休んでもいいかもしれない。
微睡みに落ちていくみたいに、急激に思考が回転する。
ぐらぐら
( ーーどうしてこんな時に、貴方の顔が浮かぶの…トリスタン)
トリスタンの笑顔が、そっと眦をかすめた気がして。
「ーーお嬢様!? 」
コレットの悲鳴を耳に捉えた瞬間、視界が暗転した。
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