0.序章
黒いヴェールが、視界を遮る。薄暗い世界の中心で、彼のーートリスタンの、生前の凛々しい姿を眼窩に描く。そっと、目を閉じた。
「 トリスタン=レオ=アンリヴィル 。先のデグレード戦線においての、多大なる献身と、朽ちることのない忠誠に謝意を示し、金星勲章を授与する。」
トリスタン…
勲章授与式だというのに、その壇上には誰もいない。薄暗い空虚な暗闇がぽかりと存在を主張しているだけ。
セシリアはゆっくりと目を開けた。ああ、どうしようもないくらい、涙が零れ落ちそうだ。気を抜けば、震える瞼はいとも簡単に雫を落としてしまうだろう。何度か瞬いて、誰にも気づかれないようにまた、目を伏せた。
厳かに羊皮紙を読み上げる宰相の声が、教会に木霊する。
あれほど、願ったというのに。彼が無事でいるなら、それでよかった。
トリスタンは誰よりも優しかった。甘やかな笑みで、いつだって静かにセシリアを見つめていた。控えめに伸ばされる指先には、仄かに情愛の炎が灯っていて。ゆるる、と波立ったように、光に照らされて金色の不思議な虹彩を描く紺碧の瞳には、いつもセシリアが映っていた。
『貴女は誰よりも美しい、姫殿下』
彼はいつもそう言って、不器用に微笑んだ。
一度たりともセシリア、とは呼んでくれなかった。あたかもそれが、越えてはならない最後の一線かのように。口づけだって、親愛の抱擁だって、されたことはない。ただ名残惜しげに手の甲へと額を押しいただくだけ。騎士と姫の、あるべき距離を彼は守っていた。
唇が震えていることに、ふと気がつく。
ヴェールを付けてきてよかった。こんな顔を見られては、何かあるのかと噂好きな貴族たちに勘ぐられてしまう。
「 姫殿下」
ふんわりと、労るような優しい声が落ちてきた。
「エルドリック… 」
ヴェール越しにエルドリックの柔らかい微笑が見える。いつの間に式典は終わっていたのだろうか。
目の前でエスコートをするために差し伸べられた手を見やって、そっと手のひらを重ねる。
ロード=ウォーリソンーーエルドリック=ヨハネ・コルンビニ=ウォーリソン。ウォーリソン侯爵家の長男であり、セシリアの婚約者である。
「式典は終わりましたよ、姫殿下。ご気分が優れませんか?」
どうやらセシリアを心配してわざわざやってきてくれたらしい。違うわ、と首を振って、優しくこちらを見下ろす緑の瞳から逃れるようにヴェールの闇に瞼を沈めた。
「 手が震えています。部屋に戻って温かい紅茶を入れましょう。…ここは冷えますから。」
握られた手に、力が籠もった。温かいエルドリックの体温。
優しくしないでほしかった。セシリアは、罪を犯したのだから。罪と知りながら、それから身を引かなかった。トリスタンを、婚約者ではない男性を、好きになってしまった。
こんなセシリアは優しくされる筋合いなんてないのに。
「…必要ないわ。貴方は先に戻っていて」
ああ、我ながら酷い言い方だ。
醜くて、嫌いになる。
ヴェールの下で唇を噛んだ。
「…できません。貴女を置いていくなんて、私にはできませんから。 」
どうしてこの人はこんなにも優しいのだろうか。セシリアは、エルドリックと居るとどんどん汚れていく気がする。彼のそばにいると、罪悪感で胸が潰れそうで。許して欲しいということだって、彼の優しさに甘えているだけの気がして。
ああ、本当に。嫌になる。こうしてエルドリックの優しさにずるずると甘えている自分も。それなのに、心の奥底にはトリスタンがいるセシリアの卑怯さと醜さに。反吐が出る。
教会の硝子窓が、ヴェールの黒の隙間から七色の光を差し込んだ。目が眩む。まるでかつて、断罪のために太陽の光に貫かれて焼かれたという女神のようではないか。願わくば、どうか、あの清廉で眩しい七色が、セシリアを焼き殺してほしい。そうすれば、己の罪も、トリスタンへの愛も全部消えてなくなるのに。




