7.文理姫と京男
京男と出会いの巻
寒さが増し、雪がちらつき始める頃。
まだ積もるほどは降らない小雪が、池に落ちるのを眺めながら机に向かっていた。
今日も『九章算術』と戦っている。
漢数字や算木で表されたものをアラビア数字に置き換え、幾何学を代数学に変換していく。
測量に用いる比例や平方根、立方根などがある程度纏まったので、次は方程式や関数に取りかかった。
「もっと勉強しとけばよかったなぁ…。」
中学の数学は覚えていたが、微積や三角関数、ベクトルなどの高校の内容はほぼ覚えていない。
「…昨日もその前の日も勉学漬けではありませぬか。」
部屋で脚絆を縫う摩耶に突っ込まれる。
前世の勉強の事だとは言えずに、そうだねと答えてまた机に向かう。
いまさら嘆いてもどうしようにもないので、覚えている範囲で公式や定理を書き込み、『九章算術』を解読していった。
(姫なのにこんな勉強意味あるかな…?)
難問にぶつかる度に、ふとそんな言葉が頭をよぎるが将来使える時が来るはずだ。
理系女子の周りは男性が多く選び放題だと、高専に行った友人が言ってたしきっとモテる。
「……なー!」
ふと、遠くから声がした。筆をとめる。
身を整えて廊下に出る頃には足音がすぐ近くまで来ていた。
「瀬名!只今帰ったぞ!」
「正長兄様っ!!」
そこには薄緑で縞模様の小袖を着た正長が立っていた。
私が兄に駆け寄ると、両腕で軽々と持ち上げられてしまう。
「見ない間に重くなったな!垂髪も綺麗に伸びて、立派な女子じゃ!」
持ち上げられたまま、くるくる回る兄はまるでメリーゴーランドだ。
揺れる長くなった髪の毛を見ながらご満悦そうに言う兄に、私は頬を膨らませた。
「そうですよっ!だから重いなど失礼でごさいまする。雉の羽のように軽いと申して下さりませっ!」
「口も回るようになりおって!ほら、父に頼んでおっただろう。医学書、大事に読めよ。」
抱えられたまま、頭に軽く本を当てられた。見上げて表紙を見ると『医心方』と書いてある。
「!!ありがとうございまする!」
挨拶を済ませた所で、部屋に兄を招いた。
兄がお土産に持って帰って来たさめがい餅を皿に出し、摩耶がお茶をいれてくれる。
「京にはいつ経つのですか?」
近江の名物だと言う薄いせんべいみたいなさめがい餅をバリバリと食べながら兄に聞いた。
「十日後だ。駿府の館で太原雪斎様に報告が終わり次第すぐに出立する。準備をしておけ。」
急なことに、お菓子を歯に詰まらせながらも私は返事をした。
「…!!相分かりました!」
そして、あっという間に十日が過ぎ、駿河を旅立った。
揺れる揺れる。兄の近習三人と摩耶との六人での旅はまず海路からだった。
吐いては休み、吐いては休みの連続にようやく慣れてきた頃、伊勢の海岸が見えた。
船を降りればそこに待っているは鈴鹿峠。
城で引きこもりの私には最難関である。
時には茶屋で休み、馬に乗り、摩耶に背中を押してもらい、自分の足で京に着く頃にはすっかりたくましくなっていた。
兄に案内されたのは細川邸という、古い梁や板張りが目立つ、質素な屋敷だった。
葉の落ち着くした冬木が少し切ない庭を通ると、部屋に見慣れた父と壮健な顔つきの親子がいた。
「瀬名、よく京まで来てくれた。紹介しよう。京で世話になっている細川晴広殿と、息子の藤孝殿だ。藤孝殿は将軍の義藤様と共に元服したばかりだが、幕臣として立派に将軍を支えておる。」
久々の父との再会に緩めたい気持ちを抑え向かいに座っていた親子に挨拶をする。
「瀬名と申します。御目に掛かり光栄にございまする。」
「其方が瀬名か。箏と歌の名手であると聞き及んだが、これほど小さき者とは思わなかったぞ。まさに後世畏るべし、だ。」
藤孝という少年から論語の子罕からサラッと言葉が出る辺り、教養の高さを感じる。
負けじと私も彼に微笑み言葉を返した。
「恐れ多いお言葉です。知る者を好む者に、好む者から楽しむ者にしてくれたのは父と師のお陰ですから。」
細川親子が目を丸くする。晴広様が襟元を正して父の肩を軽く小突いた。
「孔子の雍也か。漢文も読めるとは…。まるで清少納言ではないか!氏興殿はとんだ隠し種を持っておいでだな。」
「そうであろう?嫁にどうだ?欲しくなったのではあるまいか?」
扇子を口に当ててニヤけた顔を隠す父上が晴広様ににじり寄りながら尋ねた。
藤孝様は神妙な顔で黙ったままこちらを見ている。
「氏興殿に似て顔も整っておるし、欲しいに決まっておる!藤孝も見合う男にならねばのう…。まあ、酒を持ってこい!この出会いに盃を交わさねばならん!」
「酒だ酒だ!正長も藤孝殿と飲め!瀬名は箏を頼むぞ。」
父親二人が声を上げ、宴が始まる。兄は藤孝様の横に座り談笑し始めた。
細川家の従者達が急いで食膳台や酒器と食事の用意にかかる。
私は摩耶が調弦をした箏の前に座り、催馬楽の中の『伊勢海』を弾き歌った。
「良い音色じゃ。御所でしか耳に出来ない曲を我が家で味わえるとは贅沢だのう。」
酒を煽りながら晴広様が上機嫌で呟いた。
空になった盃に酒を注ぎたしながら父が私を扇子で指す。
「晴広殿、瀬名はこれだけではないのだ。瀬名!作った曲も披露してくれ。」
「……承知致しました。」
皆が息を潜め注目する中、私は練習していたパッヘルベルのカノンを演奏した。
楽しい雰囲気にぴったりのクラシックである。
「何だこの曲は……。」
藤孝様は初めて耳にする音楽に、雷に打たれたような呆気に取られた顔をしている。
父と晴広様は恍惚とした表情で、音楽に酔いしれていた。
「まるで極楽に登った心地になる曲よ!このような旋律は聞いたことがない!これは大御所様や公方様にぜひお聞かせしたいものだ…。」
「…是非に。三淵の父上や兄上にお話すれば叶いましょう。」
将軍様に紹介する気満々の細川親子だが、正直まだ礼法も勉強中の私にはあまりに身が重すぎる。
「流石にそれは恐れ多いぞ晴広殿…!だが娘が認められるとは嬉しいものだな。」
「齢六つの瀬名には御所は早うございますが、いつかそんな日が来ることを兄としても願っております。」
そんなことを察してか、父と兄がすぐにフォローしてくれた。
「そうか?では、瀬名姫を独り占めできる今を楽しませてもらうとしよう。藤孝も良く聞いておけ。」
その後もたくさんの曲を弾き、歌い、皆で語らいながら、宴の夜は更けていった。
次の日、藤孝様から歌が届けられた。
『惜しと思ふ 心は糸に よられなむ 散る音ごとに ぬきて留めむ』
細川藤孝様と文通が始まった。
読んで頂きありがとうございました。
最後の和歌は「惜しいと思う私の心を糸にして、消えていく音をつなぎ留めたい」という意味です。
ブクマ評価ありがとうございます!
とても嬉しいです!