街の名はノストス
馬の騒動があった日は、ひとまず解散をすることになった。
「もし、今の光景を目にしてもまだ俺と『待ち合わせの約束』をしてくれる気があるなら、声をかけてくれ。金の続く限りこの街に滞在するから」
ルルディが「考える時間が欲しい」と思うより先にネロが言ったのだ。
そのままふらりと姿を消したネロのことを考えながら過ごし、七日が経った。
仕事を終えて店を出たルルディは立ち止まる。並んで歩いていたゾーイが先へ進み、振り返った。
「……会いに、行くの?」
「……うん」
考えて、考えて、考えて。
何かが決まったわけではなかった。
ルルディはネロについて知らないことだらけだし、彼に会ったところでどうするとも考えられずにいる。
けれど。
「忘れてしまえば良いのにって、思ってるんだけど」
「忘れられないんだ」
「うん」
「顔、じゃないよね。ルルディのことだもん」
「うん」
「あーあ! 顔の良い男を探せば良いだけなら、あたしにだってなんとかできるかもなのにっ」
悔しそうに言うゾーイがルルディのことを思ってくれていることはよくわかった。
おかしな相手に関わらないで欲しいと、ゾーイの目が七日に渡って訴えていたから。
ルルディだって、ネロが普通じゃないことはわかっている。彼の不死を目の当たりにして、関わらないほうが平穏に暮らせると理解している。
けれど、気になってしまったのだ。
湖面のように凪いだ瞳が。その下に揺蕩う深い悲哀が。
気にしてしまうこと自体がゾーイに心配をかけているのだとわかっていても、止められなかった。
──ごめんね。
止められない気持ちの代わりに伝えようとした謝罪は、不意に広げられたゾーイの手のひらで遮られる。
「ごめんなんて言わないで。ううん、むしろあたしがごめん。親友なんだから、ルルディの背中を押さなきゃいけないのに」
「そんな! ゾーイが悪いことなんてなんにも」
「ううん、あたしは悪い友だち。あんな男なんて気にしないで、ずっとあたしだけのルルディでいてくれたら良いなんて、思っちゃったんだもの。自分のことだけ考えて、ルルディを縛りつけようと思っちゃったんだもの」
「ゾーイ……」
ぐすっ、と鼻をすする親友の気持ちにルルディの胸は痛んだ。
──ネロのこと、やっぱり忘れるべきなんじゃ……。
彼のことを考えようとしなくても、寂しい瞳が忘れられなかった。
だからといって、目の前で気持ちを閉じ込めようとしている親友を置いて行ってしまっていいのか?
ルルディは迷った。迷うくらいには、ゾーイのことを大好きだったから。
けれどルルディが口を開くより先に、ゾーイが叫んだ。
「アトラスッ」
それはゾーイが付き合っている彼の名前。
「はいはい」
応えたのは建物の陰からひょっこり現れた、大柄な青年。アトラスその人だ。
どうして、と問うまでもなく人の良い顔で笑ったアトラスがゾーイを抱きしめ、抱き上げる。待っていたようにゾーイはアトラスの厚い胸板に顔を埋めた。
運送の仕事をするアトラスは、力持ちなのだ。
「ゾーイがね、ルルディの邪魔をしそうだから助けてくれって。僕、このごろは君らの職場近くの案件まわしてもらえるよう頼んでたのよ。あ! でも見張ってたわけじゃないからね。ゾーイが呼んだらすぐ来れるよう、待機してただけだから」
初耳だった。
ゾーイにそんなそぶりはなくて、ルルディはまったく気づいていなかった。
ネロと別れてから今日までの間に、アトラスを交えて夕食をとったことさえあったのに。
──ふたりして、私のことを黙って見守ってくれていたんだ。
気づいたルルディがたまらない気持ちになったのを見越したように、アトラスが笑う。
「君が何かを選びたいと思った時に足かせになりたくないって、ゾーイが言うんだ。僕もそれは同じだから」
だから、ゾーイが止めて欲しいときに止めるために居たのだと。
「さあ、行って。僕がゾーイを止められてるうちに。ゾーイに泣き落としされたら、僕はこの手を離してしまうからね」
冗談めかしたアトラスの言葉は、ルルディの背中を押すためのもの。
だから。
「ありがとう。とにかく、会ってくる」
会って何が起こるのかわからないけれど、ルルディは駆け出した。
黒髪の美青年の居場所は、店にくる客に聞いて知っていたから迷わない。
街中の公園に駆け込めば、その姿はすぐに見つかった。
ネロは木陰に溶け込むようにして腰掛けている。道ゆく人々を眺める端正な横顔。すぐそこにいるのに、その目は遠い憧れの地に思いを馳せているかのようで。
──待ってるんだ。待ってるのは誰? 遠い昔の友だち? それとも家族? 長い時の中で出会った誰かなのかな……。
彼の待ち人が自分だったら。
そう思うと胸が苦しくなるけれど、それは人を待たせる罪悪感とは違っていて。
「ネロ」
たまらず名を呼べば、振り向いた彼がルルディを見つけて目を輝かせた。そのきらめきが、ルルディの胸で弾けて消えない。
「ルルディ。俺と約束をしてくれるのか」
「いいえ、約束はしない。待たせるのは嫌いだから」
断れば、ネロの瞳の湖面が静かに凪いだ。微笑はそのままだから、見落としてしまえば彼の悲哀に気づかなかっただろう。
来ない誰かを待ち続ける寂しさを抱えたネロ。うまく隠して笑えるだけの時間は、どれだけ長く辛いものだろう。
そこに終止符を打ちたい、なんて大層な考えはない。ただ、彼の寂しげな笑みを見ていたくなくてルルディの口は勝手に動く。
「でも、あなたのことをもっと知りたいと思って。だけど私は待ち合わせが嫌いだから、考えたの。私たち、待ち合わせの約束をするのじゃなくて、偶然出会いましょう」
「偶然……?」
ネロが目を丸くするのをはじめて見た。
表情がのると落ち着き払った静けさが掻き消されて、見た目そのままの年齢に見える。
存外かわいらしく感じるのは、ルルディがネロを好ましく思っているからだろうか。
「そう、はじめはカフェで。私は明日のお昼過ぎまで仕事だから、その後にそこのカフェの前を通る。あなたはそのくらいの時間にたまたまカフェにいるの。通りの見える席で飲み物を頼んで、他には何を頼もうかと悩んでいて。そこへ私が通りかかるの。偶然に」
それは出会って間もない頃、ゾーイがルルディのためにしたことだった。
待ち合わせをすると、予定の時間よりずっと早くに待っていないと落ち着かないルルディ。そうと気づいたゾーイは、待ち合わせをした時間のずっと前に待ち合わせ場所を通りかかる用事を作った。
そしてルルディと出会うたびに「偶然ね!」「用事はある? 無いなら、このままいっしょに出かけましょっ」と言って待ち時間を終わらせてくれた。
誰かを待たせることへの罪悪感は消えないままだけれど、誰かと出かける楽しさはゾーイが教えてくれていたから、ルルディはネロを誘うことができる。
胸を張って返事を待つルルディに、ネロが噴き出した。また新しい表情だ。
「偶然、か。偶然の出会いを誘われたのは、生まれてはじめてだ」
「それじゃあ私といれば、はじめてのことがまだまだたくさんありそう」
「そうだな」
答えながら、くしゃりと破顔したネロのかわいいこと。
その日からルルディとネロの『偶然の出会い』を繰り返す日々がはじまった。
***
時は流れ、出会ってから五年目の夜明け前。
ルルディとネロは今日、街を出る。
お世話になった遠い親戚や店の人たちには、昨日のうちにあいさつを済ませていた。
うす暗いなか、ゾーイとアトラスは街の外まで見送りについて来た。
ついて来たというか、ゾーイはルルディにしがみついていた。
「ねえ、ルルディ。やっぱり出発はまだ早いんじゃない? だってまだネロと付き合いはじめてから三年しか経ってないでしょ。せめてあと五年はいても大丈夫なんじゃない? ネロだってルルディだって、もう大人なんだもん。成長しないんだから、姿が変わらなくたって誰も気にしないはず」
「もう、ゾーイってば……」
ルルディが苦笑したのは、それがここ半年の間に毎日繰り返された台詞だから。
「約束したでしょう。あなたとアトラスの赤ちゃんを見てから、出発するって。その子が三十歳になるころ、またこの街に戻ってくるために今、出なきゃいけないんだって」
ふたりの抱擁を見守るゾーイの腕には、ちいさなちいさな赤ん坊が大切に抱えられている。
「記憶力の良い者は、十年やそこらであれば声をかけてくることもあったからな」
そう語るネロは、不老と気づかれないためにひと所に留まることができず、ずっと旅をしてきた。ひとりきり。
人魚の肉を食べて生き延びたのはネロひとり。長い時のなかでネロの不老不死の血を身のうちに入れた者は少なくなかったらしいが、生き延びた者はいなかった。
不老不死だと気づかれたくない。気づかれ、囚われ、血を奪われた末に死んでいった数多の人をネロは忘れられないでいる。
だからこそ、果たされない再会の約束だけをたよりにひとりきりで旅を続けてきた。
その旅に、これからはルルディが加わる。
ネロと同じ時を生きると決めて、薄められる限界まで薄めたネロの血をほんのすこしずつ取り込んで、不老不死となったルルディが。
ゾーイがルルディを再度、抱きしめる。
「ルルディ、良い? 街に寄るたびに手紙をちょうだい。ううん、村でも構わない。手紙を預けられる場所を見つけたらきっと手紙を書いてね。できる限りの近況を知りたいところだけど、どこそこの街についた、だけでも構わないんだから。ううん、なんならその日に何を食べたか書いてくれても良いんだし」
「わかってる。ちゃんと『元気でやってる』って、ゾーイに届けるから」
五年の間に大人びたゾーイの腕のなか、ルルディは少女めいた容姿のままでくすくす笑う。笑っていないと涙がこぼれてしまいそうで。
──ああ、この手を離したくない。
ルルディの頭の中を楽しかった日々が駆け巡っていく。何気ない日常。共に過ごした時間。笑い合った瞬間の胸の暖かさ。
かけがえのないものをゾーイからもらった。たくさん、たくさんもらった。
それは全て、ルルディのなかに確かにある。
だから、ルルディは自分から手を離した。
──大丈夫。離れても、無くならない。
ゾーイからそっと体を離して、一歩遠ざかる。
「ゾーイのこと、ずっと愛してる。だから、今は『行って来ます』」
くしゃり、ゾーイの顔が泣きそうにゆがんで、けれど笑った。
「いってらっしゃい! あたし、待ってるから。この子が大きくなった時も、その先もずっと。この子の兄弟もたくさん産むし、その子どももそのまた子どもも、きっとみんなルルディのことが大好きになる! あたしとアトラスは末代まで、ううん、永遠にルルディとネロのことを待っていて、大歓迎するんだからっ」
笑いながら涙をこぼすゾーイをアトラスが抱きしめる。
「末代まで、か……途方もない愛だな。うっかりすると俺が愛想を尽かされて、ゾーイの血族にルルディをとられそうだ」
「そうよ、ネロ! うっかりなんてしてたら、あたしがルルディを取り返してやるんだから! そうならないように、ちゃんと愛しなさいよっ」
「うちの奥さんは言ったことは実行しちゃうからね。覚悟してなよ、ネロ」
ゾーイとアトラス。夫婦にそろって言われて、ネロが笑った。
明るい笑顔だ。優しく細められた瞳に寂しい光は微塵もない。差し込み始めた朝の光がキラキラと反射する様は、湖面で陽光が踊っているかのよう。
──ああ、うれしい。
幸せでたまらない気持ちがルルディの胸をいっぱいにする。
ネロが笑ってくれる日々を大切にしようと、改めて誓う。背筋を伸ばし、一度離れる親友に向けて心からの笑顔を向けた。
「いってきます!」
***
長い、長い時が過ぎた。
楽しいこともあった。悲しいこともあった。
国を挙げてのお祝いに参加して踊った日もあれば、国同士の争いに巻き込まれかけて必死で逃げた日もあった。
何もかもがうまくいったとは、決して言えない。
苦しい目にもあった。辛い目にもあった。
けれど、旅を続けるルルディの隣には今もネロの姿がある。
「ルルディ、街が見えて来た」
青年のままのネロが笑って、ルルディも自然と笑い返す。
向かう先は昔、ゾーイとアトラスと暮らした街。いつの代だったか、ふたりの子孫が『ノストス』と街の名を改めた。
意味は『帰る場所』。
その名を聞いた時、ルルディはたまらず涙をあふれさせた。
誰にとっての帰る場所なのか。思いを巡らせるまでもない。「もちろん、あなたのためよ! ルルディっ」二度と聞けないはずの親友の声が聞こえた気がして、涙がとまらなくて。
「永遠に俺の脅威だな、ゾーイは……」
苦々しげにつぶやくネロの声で、泣きながら笑うはめになった。
「やあ! 旅人さんかい? まずは食事かな、宿かな? お探しならおすすめがあるよ!」
街に入れば、軒先に出て来た店の主人が朗らかに声をかけてくる。
明るく、面倒見の良い住人が多いと旅人に人気の街。
ゾーイとアトラスの気質を引き継いだのかな、とルルディは思っている。
「ありがとう。だったら、肌に優しい布物を扱っているお店が知りたいな。贈り物用なの。私たち、大切な人に会いに来たの。家族が増えるってお知らせをもらったから」
「おや! 赤ん坊かい。そりゃあ責任重大だ! よっし、とっておきの店を紹介しようっ」
張り切る店主にあれこれ聞いて、笑顔で手を振りルルディとネロは歩き出す。
教えてもらったばかりの店へ向けて、三十年ぶりの道を懐かしみながら。
ふたりの足取りは軽い。
今から、ゾーイとアトラスの血を引く家族たちが暮らす家に向かう──いや、帰るのだから。




