不老不死の青年
朝焼けのなか、ルルディは職場へと歩く。
早すぎるほどに早い時間の街中は、人の姿もまばら。
時おりすれ違うのはいつも似たような顔ぶれで、名を知らないまま互いに会釈して通り過ぎる。
そんないつもの道で、ルルディはふと足を止めた。
路地裏に続く道の片隅に積まれた樽に腰掛けた青年がひとり。
こちらに顔を向けて表情を明るくしたのが見えた。
──誰だろう。
端正な作りの顔に、つややかな黒い長髪。宝石のような瞳が湖面のようにきらめいて、ルルディを待っている。
──お店に来た人? ううん、こんなきれいな人なら、覚えてるはずだけど。
ルルディの働く食堂は、家庭的な味付けと大盛り料理が自慢の店。
やってくる客は家族連れか、働く男たち。いくつになっても食べ盛りの彼らと比べると、青年はあまりにきれいだった。
すらりとした体躯に弱々しさはないが、屈強ともいいがたい。店で見た記憶はやはりない。
──でも、もしかして私が覚えていないだけだったら。
お店のことをよく思われないかもしれない。それはお世話になっている店長たちに申し訳ないことだ。
知らない人ではあるけれど不躾な態度をとってはいけないと、ルルディは青年に会釈した。
すると青年が一歩、踏み出してくる。
「なあ、君。俺と待ち合わせをしてはくれないか」
「へ?」
──待ち合わせしてくれないか? どういうこと。初対面なのに。あ、もしかして、これがナンパ?
何を言っているの。そう思ったルルディの脳裏に、友人の声が蘇る。
「いーい? ルルディ。あなたは自分がかわいいってこと、自覚しなきゃ。そして理解して。世の中にはね、かわいい子を見つけたら片っ端から声をかけてくる男がいるの。そんなやつは相手にしちゃダメ! あなたって人が良いんだから、ついうっかり親切になんてしてみなさい。男からしたらラッキー、獲物がかかったってなものよ! ほんとに気をつけなくちゃダメなんだからねっ」
──わかってる、ゾーイ。
心の中の友人に頷いて返して、ルルディはつんとあごをあげる。
「ごめんなさい。私、待ち合わせするのが嫌いなの」
完璧に断れた。
実際、待ち合わせが苦手なことは嘘ではないから、さらりと言えた。
それなのに青年は「大丈夫だ」なんて平気な顔。
「俺が頼みたいのは『待ち合わせの約束』のみ。実際に待っている必要はない」
「それってどういう……」
「おっはよー! ルルディ」
体当たりする勢いで会話に割って入ったのは、心の中の友人。もとい同じお店で働く仲間であり、友人のゾーイだ。
赤いおさげをぴょこんとゆらして、ゾーイはルルディの腕を引き青年から遠ざける。
「お兄さん、どなた? お店のお客さんじゃないでしょ。ダメよ、この子がいくらかわいいからってナンパしちゃ。この子はあたしの大切な親友なんだから! ぽっと出の男になんかくれてやらないの。それじゃあね、さようならっ」
まくしたてるように言って、ゾーイは歩き出す。腕を絡められているルルディも、もちろん巻き添えだ。
「ちょっ、ちょっとゾーイ!」
「なあに、ルルディ。大きい声で話すとあの男に名前がバレちゃうじゃない。そんなのダメ。あたしのかわいいルルディの名前なんて、ナンパ男にはもったいない!」
小声でぷりぷり怒るゾーイは優しい優しい友人、もとい親友だ。
ルルディはうれしくなって自分からゾーイに身を寄せる。兄弟姉妹の多いゾーイは、ときに頼りになるお姉ちゃん。
青年も追ってくる様子はないから、ほっとした。
「今日は早いのね、ゾーイ」
「早いのはルルディでしょ。あたしは朝の掃除当番だもん。あ、でもこれは待ち合わせじゃないから、大丈夫、だよね?」
心配気に聞いてくれるゾーイは、ルルディの昔話を覚えてくれているらしい。
「ふふ、大丈夫。待たせてると思わなければ、大丈夫だから」
答えながら、ルルディの頭によぎったのは遠い記憶。
青年の口にした「待つ」という言葉が、ルルディは苦手だ。
特に待ち合わせに遅れることが怖くてたまらなかった。
***
ルルディは母の顔をはっきりと覚えていない。
けれどその声だけは、鮮明に思い出せる。
それは、ルルディが七つのころ。夕暮れ時の帰り道、きれいは花を見つけて足を止めた。
お母さん、よろこぶかな。
夕焼けがだんだんと熱をなくしていく中、花を摘んで、走って帰った。
このところ、仕事で帰らない父を待ってふさいでいる母に喜んでもらいたくて。
「お母さん!」
わくわくしながら家の扉を開けたルルディを待っていたのは、暗い部屋。
「お母さん……?」
いつもなら夕食を作る母が迎えてくれるのに。返るはずの「お帰りなさい」が聞こえてこない。
かわりにルルディに寄越されたのは、暗がりでにらみつけてくる冷たい母の目。
「あなたは私の時間を奪ったのよ」
「え」
「夕暮れまでに帰ると約束してあったでしょう」
「あの、でも、さっきまでまだ、日は暮れてなくて」
ダンッ!
テーブルに叩きつけられたのは、スープの入った鍋。
湯気をあげるスープが、テーブルに、床にぶちまけられる。
いつもは母と父と三人で。けれどそのころは母と二人、囲んでいた温かなスープが、テーブルから落ちて床で冷めていく。
「夕暮れまでに帰ると、約束してあったでしょう」
「……う、うん。でも」
お母さんにこの花をあげたくて。
そう告げる前に、母の口が開く。
「約束していたから、私はその時間に合わせてスープを作ったの。パンも温めたわ。なのにあなたは帰ってこなかった。私を待たせたの。約束をやぶって」
「あ……ご、ごめんなさい……」
ごめんなさい。
いいのよ。次から気をつけてくれれば。
ルルディが期待した甘い展開は訪れない。
「謝ったから何?」
母の冷たい声に、ルルディののどが「ひぐっ」とおかしな音を立てる。
「謝ったら私の時間は帰ってくるの? あなたが無駄にした私の時間は、帰ってくるの?」
帰るわけがなかった。けれどそう答えれば母の怒りが燃え上がると肌で感じていたから、ルルディは黙り込む。
黙り込めばそのことを指摘され「卑怯だ」と叫ばれた。温めたパンを投げつけられた。
ひとしきり罵られたあと「あなたのせいで夕飯がダメになった」と叱られた。「あなたが遅いせいで、あの人が帰って来ないじゃない!」
ヒステリックに叫ばれても、ルルディにはなすすべもなかった。
皿は床に落ち、ぶつかったパンはやわらかい。けれどもルルディは、たしかに痛みを感じてちいさなこぶしを握りしめて耐えていた。
突然はじまった母の不機嫌は、起こる日もあれば起こらない日もある。
「かわいそうに。旦那はよそに女をつくってたんだろ? だまされて置いて行かれたのが、堪えてるのね」
「いまに帰ってくると思ってるんだろうかねえ」
「現実を受け入れたくないだけよ。わかってはいるんでしょ」
近所の大人たちがささやく声はちいさくて、それでも確かにルルディの耳に届いていた。
豹変する母親と暮らす日々に終わりが来たのは、それから五年後。
母の振る舞いを見かねた大人たちが、遠い親戚に連絡をとってくれた。そして親戚を頼ってルルディは母と離れ、街に出ることができたのだ。
十二の年に街に移り住んでから、もう六年。
たくさんの人が助けてくれて、ルルディを慈しんでくれて。
帰らぬ父親と機嫌の読めない母親は記憶のなかだけの遠いものになりつつある。
けれどひとつだけ。
人を待たせる。
その行為への恐怖感だけは、塗りこめられたその瞬間のまま。ルルディの心をべったりと覆っていた。
***
食堂の混雑が終わり、片付けもあらかた済んだ昼下がり。
ルルディとゾーイは連れ立って帰り道を歩いていた。
「今日は早く帰れたね! カフェのタルト、買えるかもっ」
「買えると良いね」
弾む足取りのゾーイにつられてうきうきしていると。
「なあ、君」
不意に話しかけられて驚いた。
「あ! あんた、今朝の」
「ゾーイ、指差しちゃだめだよ」
「はあい」
ぺろっと舌を出したゾーイは、かわいい顔を一瞬で引っ込めて声の主をにらむ。
そこに立っていたのは今朝、声をかけてきた黒髪の青年。
そういえばここは彼が立っていた場所だ。
──もしかして、一日中ここに立っていた? まさか。
そんなわけない、と目をやった彼は、ゾーイににらまれても平気な顔でルルディを見ている。その静かな瞳にどきりとした。
「あなた、待ち合わせの約束をしたいのに待たなくて良いって言っていたけれど。あれはどういう意味?」
「ちょっと、ルルディ!」
「ごめんね、ゾーイ。気になってしまって」
変な人と関わっちゃダメ、とゾーイが腕を引く。
だけどルルディは気になってしまっていた。
ルルディが苦手な「待つ」ことを願う彼の真意が知りたくて。
──待つことが好きな人なんて、この世にいる? ううん、この人は待ちたいんじゃない。約束だけが欲しいって言ってた。そんなことある? それって彼にとってどんな良いことがあるだろう。わからない。それとも、本当にただのナンパの文句?
固唾を飲んで待った返事は。
「俺は不老不死なんだ」
「はああ?」
盛大に声をあげたのはゾーイ。だけれど、ルルディも胸のうちでは同じように疑問符が飛び交っている。
落ち着いているのは青年ひとり。彼は森のなかの湖面に似た目にルルディを映している。
──嘘じゃないのかもしれない。そうでなくても、なにか事情があるんだ。
直感的にそう思ったら、口が動いていた。
「くわしく聞いても良い?」
「ルルディ!?」
信じられない、とゾーイの視線がとがめている。
そこに多分に含まれる心配の色がわかっていて、ルルディは苦笑い。
「ごめんね、ゾーイ。タルトだけいっしょに買いにいって、そこでお別れしよう」
タルトはゾーイの彼のぶんも買おう。ふたりは家を借りていっしょに住んでいるから、彼と食べてもらって。
胸のうちで算段をつけていると、ゾーイがぷんっと頬を膨らませる。
「いや! あたしも聞くっ」
「でも……」
それではゾーイの時間を奪ってしまう。黒髪の青年が気になっているのはルルディだけなのに。
罪悪感がじわりともたげる。
ルルディの胸の内をのぞけるはずもないのに、ゾーイは察したように眉をきゅっと寄せた。
「ルルディを置いて帰ったらあたし、気になって気になってタルトを味わうどころじゃないんだものっ」
「ゾーイ……」
優しさが沁みて、罪悪感を薄めてくれる。
ゾーイを抱きしめながらちらりと視線を向けた先で、青年がゆるく笑った。
「無論、構わない。むしろ話を聞いてくれる者が多いほど、俺は喜ばしい」
***
「つーまーりぃ。あんたは人魚を食べて不老不死になった、ってこと?」
カフェのテラス席で空のお皿を前に、ゾーイが思い切り顔をしかめる。
目当てのタルトを食べはじめた時とは大違い。幸せいっぱいにとろけていたゾーイの顔は、ネロと名乗った青年の話を聞くうちにどんどん曇っていった。
対するネロは相変わらず涼やかな表情のまま、こっくりとうなずく。
「ああ」
「人魚は架空の生物だと思っていたけれど」
ルルディがたずねれば、ネロはまたうなずく。
「俺もそう思っていた。だが、人魚の肉だと言われたものを食った仕事仲間はみな苦しんで死んだ。先に口にした主人一家も、ひとり残らず」
「そう……」
悲しい話だ。ネロの声音に変化は見られないけれど、表情に影が差したように見える。ルルディがそう思いたいだけかもしれないけれど。
「それで、あんた一人が生き残ったってわけ? なんだか出来過ぎじゃない」
「それは……」
ゾーイがいつになく厳しい口調で言った時、馬のいななく声がした。同時に怒号や悲鳴も。
「馬? 暴れてる……?」
「えっ、やだこっち来てる!?」
見えたのは通りを駆けてくる馬。振り落としたのか、乗り手の姿はなく興奮した様子。通りにあるたるや椅子を蹴散らしながら向かってくる。
ルルディとゾーイが手を取り合って立ち上がる、その間にも暴れ馬は近づいている。
──撥ねられる!
ルルディがゾーイを抱きしめたとき、横から跳ぶ影があった。
ネロだ。
暴れ馬の手綱を握りしめた彼は、勢いのままに宙に浮く。そのおかげで馬の進路が逸れて、ルルディとゾーイは助かった。
「あ……」
力が抜けてぺたんと座り込んだルルディの前で、ネロは手綱に引き摺られている。
あちらにぶつけられ、こちらへ叩きつけられ。それでも手綱を離さない彼が、不意に地を蹴り飛び上がった。
馬の背へ、ひらりとまたがったのは一瞬のこと。
「落ち着け、落ち着け」
声をかけながら馬の動きにあわせて手綱を操る。しだいに馬の動きがゆっくりになり、ネロの指示に従うようになったころ、彼の体がずるりと傾いた。
「危ない!」
「きゃあ!」
ルルディとゾーイにできたのは、とっさに悲鳴をあげることだけ。
なすすべもなく頭から地面に叩きつけられたネロに、ルルディは慌てて駆け寄った。
じわり、黒髪の下の地面に赤い血が広がる。頭がぱっくりと割れて、赤い肉がのぞいていた。
「ネロ!」
「さわ、るな……」
抱き起こそうと伸ばした手は振り払われた。
弱々しい、けれど明確な拒絶。
「俺の、血を取り込むと、不老不死になって、しまう……」
「でも、あなたひどい怪我を!」
「静かに、見ていてくれ」
うめくネロの声がしだいにはっきりとしてくる。みるみるうちに裂けた肉が閉じていき、力なく倒れていた手のひらにぐっと力がこもるのがわかった。
まぶたを閉じて、ひと呼吸。
湖面のような瞳が再び現れたときには、ネロは自力で起き上がっていた。
「ふう」
立ち上がり、ぱたぱたと汚れをはらう。その仕草で流れていたはずの血は砕けるようにして霧散した。額に流れていたはずの赤いものが消え失せた下に、あるはずの傷口もない。
なごりがあるとすれば、血の気のうせた青白いネロの肌くらいなもの。
地面を染めていた赤も、気づけば跡形もなく消えていた。
「あなた、傷が……それに、血も、どこへ」
「無かったことになった。これが不死の力だ」
応えるネロの背後から、馬の持ち主が駆けてきた。
「すまん、助かった! 兄さんのおかげで怪我人が出なかった。恩にきるよ!」
持ち主は遠くにいて、ネロが馬に振り回されて大怪我を負ったことに気づかなかったのだろう。見回せば、周囲にいたはずの客や通行人たちは逃げたらしく、ネロの『不死』を目にしたのはルルディとゾーイだけらしい。
「恩にきるというなら、いくらか融通してくれないか」
「ああ、そりゃあもちろん! すまんが、馬だけ繋いでくるから待っていてくれんか」
再び暴れられては敵わないと、馬の持ち主は慌ただしく去っていく。
残されたのは立ち尽くすネロとルルディ、それから座り込んだままのゾーイだけ。
「ほんと、だったんだ……」
呆然とつぶやくゾーイの声は、ルルディの胸の内をそっくりそのままこぼしたようで。
驚きのままにルルディはささやいた。
「どんな傷も、治るの……? 痛みは……」
「痛い。死ぬほど痛い。だが、治る。治ってしまう」
「それが不死、なのね……死なないのね」
信じられない気持ちごと飲み込むようにつぶやけば、ネロがうっすらと笑う。
「死ねないんだ」
たったひと言にこもる悲哀が、ルルディの胸に強い衝撃を与えて消えなかった。




