第1話 アニメで見ていた異世界に、俺が行くなんて
五十歳を超えてアニメを見る。
――だから何だ。
別に悪いことをしているわけじゃない。
酒を飲んでいるわけでもない。
ギャンブルをしているわけでもない。
誰かに迷惑をかけているわけでもない。
仕事から帰って、飯を食って、風呂に入る。
そのあと、ネットで気になったアニメを探して、夢中になって見る。
それくらいの楽しみがあったっていいだろう。
「五十過ぎてアニメ見るの?」
以前、そう言われたことがある。
笑いながらだった。
冗談なのか、本気なのか分からない、あの微妙な笑い方。
「いいじゃないか」
俺はそう答えた。
「別に誰にも迷惑かけてないだろ」
「まあ……そうだけど」
相手は少し困ったような顔をした。
分かっている。
五十を過ぎた男が、仕事から帰ってパソコンの前に座り、ネットでアニメを貪るように見ている。
世間から見れば、少しくらい変に見えるのかもしれない。
だが、俺は思う。
五十歳を超えたら、アニメを見ちゃいけないのか?
若い頃は勉強しろと言われた。
社会に出れば働けと言われた。
会社に入れば結果を出せと言われた。
年齢を重ねれば、健康に気をつけろと言われる。
では。
五十を超えた人間は、何を楽しみに生きればいい?
酒か。
ゴルフか。
旅行か。
もちろん、それが好きなら、それでいい。
でも俺は違った。
俺にとっては、アニメだった。
だから今日も仕事が終われば、家に帰る。
飯を食う。
風呂に入る。
そしてパソコンを起動する。
ネットを開く。
気になった作品を探す。
「……これも面白そうだな」
タイトルを見る。
あらすじを見る。
評価を見る。
そして再生する。
最近のアニメは、どうにも似た作品が多い。
勇者。
魔王。
賢者。
聖女。
異世界転生。
異世界召喚。
追放。
婚約破棄。
悪役令嬢。
ざまぁ。
スローライフ。
ダンジョン。
冒険者。
俺だけが使える特殊能力。
「……また勇者か」
次を見る。
「また魔王」
さらに見る。
「今度は追放か」
もう一つ。
「……悪役令嬢ねぇ」
似たような設定でも、面白い作品は面白い。
だから結局、見てしまう。
「……これも面白そうだな」
一話だけ見るつもりだった。
だが、一話が終わる。
「……もう一話だけ」
二話。
「……ここまで見たら三話も」
三話。
気づけば四話。
時計を見る。
「……もうこんな時間か」
それでも止められない。
こういう時間が、俺は好きだった。
現実では、自分が主人公になることなんてない。
だが、物語の中では違う。
何者でもなかった人間が、誰かに必要とされる。
才能を認められる。
仲間ができる。
世界を変える。
そんな物語を、俺は画面越しに眺めていた。
そして時々思う。
もし、自分がそんな世界に行ったら――。
「……いやいや」
俺は一人で苦笑する。
そんなこと、あるわけがない。
俺は五十二歳だ。
若い主人公みたいに剣を振り回せるわけじゃない。
魔法が使えるわけでもない。
王様になるような器でもない。
勇者なんて柄じゃない。
「五十二歳のおっさんを異世界に送って、何させるんだよ」
自分で言って、また笑った。
俺は、どこにでもいる普通の男だった。
国立大学を出た。
それなりに勉強もした。
若い頃は、未来はもっと明るいものだと思っていた。
だが、人生は思ったようにはいかなかった。
就職氷河期。
社会に出る頃には、世の中はすでに厳しかった。
そして今。
俺は大手自動車メーカーの工場で働いている。
世界中で名前を知られている会社。
その工場で、自動車を作っている。
ただし。
俺は派遣社員だ。
毎日、同じラインに立つ。
同じ作業を繰り返す。
若い正社員から指示を受けることもある。
自分より年下の人間に確認されることもある。
別に、それが嫌というわけではない。
会社とは、そういう場所だ。
ただ。
たまに思う。
俺の五十二年間は、一体何だったんだろうな、と。
それでも。
仕事だけは手を抜かなかった。
長く現場にいると、機械の音が分かるようになる。
正常な音。
少し変な音。
故障する前の音。
ほんのわずかな振動。
誰も気づかない、小さな違和感。
それを見つける。
それが、長年現場にいた俺の、数少ない武器だった。
そして、その武器が。
まさか自分の人生を変えることになるとは、この時の俺は思ってもいなかった。
翌日。
いつものライン。
いつもの作業。
いつもの音。
その中に。
「……ん?」
ほんの一瞬だけ、違う音が混じった。
俺は手を止めた。
小さい。
本当に小さい。
普通なら気づかない。
だが。
俺には分かった。
「……少しおかしいな」
近くで作業していた若い社員が振り返った。
「何かありました?」
「いや……」
俺は機械を見る。
「一度、確認したほうがいいと思う」
「でも、今止めるとラインが……」
彼の言いたいことは分かる。
生産計画。
納期。
品質。
現場には現場の事情がある。
「気のせいかもしれない」
俺自身もそう思う。
だが。
現場に長くいると分かる。
嫌な予感というものは、意外と馬鹿にできない。
「それでも、一回見ておいたほうがいい」
数分後。
設備担当が確認した。
そして。
「……ここですね」
部品の一部に、わずかなズレが見つかった。
今すぐ大事故になるほどではない。
だが、そのまま使い続ければ、いずれ故障につながる可能性がある。
「よく気づきましたね」
担当者が言った。
俺は少し笑った。
「長くいるだけですよ」
本当に、それだけだった。
特別な能力でもない。
誰かから与えられた才能でもない。
毎日、同じ場所に立って。
同じ機械を見て。
同じ音を聞いて。
少しずつ覚えただけだ。
その日の仕事を終え。
俺は家へ帰った。
いつものように飯を食う。
風呂に入る。
そしてパソコンをつける。
昨日見ていたアニメの続きを再生する。
画面の中では、勇者たちが世界を救おうとしていた。
仲間を守り。
強大な敵に立ち向かい。
世界の危機を救う。
そんな物語だ。
「……現実じゃ、ありえないよな」
俺は笑った。
五十二歳の派遣社員が、突然異世界に行く。
そんな都合のいい話があるわけがない。
ましてや。
勇者になる?
魔王になる?
賢者になる?
笑わせるな。
俺はただの、おっさんだ。
そう思っていた。
その瞬間だった。
部屋の空気が変わった。
「……?」
俺は画面から目を離した。
テレビは映っている。
電気もついている。
スマホも普通に動いている。
なのに。
何かがおかしい。
工場で感じた違和感とは違う。
もっと大きい。
もっと根本的な何か。
空間そのものが、わずかに歪んだような感覚。
「なんだ……?」
俺は立ち上がった。
その瞬間。
視界が白く染まった。
「え?」
音が消える。
身体の感覚が消える。
何が起きた?
病気か?
脳梗塞か?
それとも――。
頭の中に、妙な考えが浮かぶ。
これって。
アニメでよくある、あれか?
まさか。
異世界転生?
「……いやいや」
そんなわけがない。
それとも、これは夢なのか?
死んだのか?
ひょっとして、あの世からのお迎えか?
五十二年も生きていれば、さすがに世の中がそんなに都合よくできていないことくらい分かる。
なのに。
今、自分の目の前で起きていることだけは。
どう考えても、現実とは思えなかった。
最後に頭に浮かんだのは。
「……明日、仕事……」
だった。
我ながら、情けない。
普通なら、家族のことを考えるのかもしれない。
これまでの人生を振り返るのかもしれない。
なのに俺は。
明日の仕事の心配をしていた。
それが、俺らしいと言えば俺らしかった。
そして。
意識が途切れた。
最初に感じたのは、土だった。
「……」
背中が冷たい。
硬い。
ゆっくり目を開ける。
青い空。
白い雲。
そして。
一面の草原。
「……どこだ、ここ」
起き上がる。
周囲を見渡す。
建物がない。
道路がない。
電柱がない。
車もない。
人の気配すらない。
風が吹いている。
草が揺れている。
遠くから、聞いたことのない鳥のような鳴き声が聞こえる。
「……夢か?」
頬をつねる。
「痛っ」
俺は顔をしかめた。
「痛い夢って……あるのか?」
自分で言って、自分で笑う。
だが。
笑っている場合ではない。
五十二年生きてきた経験が告げている。
まず、状況を確認しろ。
何が起きた。
どこにいる。
周囲に危険はないか。
俺は立ち上がり、ゆっくり辺りを見回した。
そして。
遠くを見た。
「……なんだ、あれ」
最初は山だと思った。
だが、違う。
巨大な幹。
空を覆うほどの枝。
大地から天まで届くような、あまりにも巨大な樹。
俺は言葉を失った。
見覚えがある。
もちろん、実物を見たことがあるわけじゃない。
アニメで。
何度も見た。
異世界ものなら、こういう巨大な樹が出てくる。
世界の中心にそびえ立つ、巨大な樹。
世界を支えるような樹。
物語の中では、何度も見てきた。
「……まさか」
俺は息を飲んだ。
五十二年間生きてきて。
こんなものを現実で見る日が来るなんて、考えたこともなかった。
夢なのか。
死んだのか。
それとも、本当に――。
「……異世界?」
声に出した瞬間。
自分でも信じられないほど、その言葉が自然に口から出た。
俺は巨大な樹を見つめた。
そして思った。
もし、これが本当に異世界なら。
俺は一体、ここで何をするんだ?
勇者でもない。
魔王でもない。
賢者でもない。
ただの――五十二歳だった男だ。
その答えを知る者が、この世界のどこかにいる。
だが、この時の俺はまだ知らなかった。
自分がこれから。
その巨大な樹を巡る、この世界最大の異変に巻き込まれていくことを。




