2章 プロローグ
大陸で一、二を争う大国グラニアスの皇帝の住まう宮殿内にある後宮には、各国から集められた多くの女性がいた。
一応側妃という名目ではあるが、戦争によって負けた国々から差し出された人質である。
それ故、特に皇帝からの寵愛があるわけでもない。ただ、捕虜のようなひどい扱いをされるわけではなく、行動を制限された中で暮らす客人のような対応だ。
だが、全員が全員人質というわけではない。
きちんと皇帝の側妃という役割をこなしている者もいる。
今一番皇帝の寵が厚いと言われているのは、子爵家のご令嬢だったアルテだ。
皇帝の妃として子爵という身分はあまりにも釣り合わず、そのため周囲はアルテの存在をかなり疑問視していた。
他にも多くの身分も容姿も優れたご令嬢がいる中で、どうしてアルテなのかと。
アルテは良くも悪くも素朴な女性だ。
子爵家は土地持ちの貴族だが、その土地は田舎で、目立った産物があるわけでもない。
平民と子爵家の距離も近く、アルテは平民の子に交じって遊んでいたこともあるぐらい、身分制度を実感できない環境で暮らしていた。
そんな環境でのびのび育ったからか、天真爛漫だと評されることが多い。
その反面、怠惰で無責任だという悪い評価もある。
そんな彼女は、宮殿で社交デビューを果たすと、すぐさま皇帝に見初められてそのまま後宮へと入った。
正妃ではないとはいえ、まるで夢のような玉の輿である。
彼女を羨ましく思う女性は多く、それは特に平民の間で顕著で、大衆演劇になるほど受け入れられていた。
とはいえ、子爵という身分が低い者が次の皇妃となるのではないかと危機感を抱く貴族は多い。
なにせ皇妃となれば皇帝の次に権力を持つ者となるだ。
そんな地位に子爵令嬢が立ったところで、周囲へ示しがつかないのではないか、そもそも対応できず周辺国から侮られるのではないかと、不安視されている。
ただ単に身分が低いからが理由で反対しているわけではない。
もちろん、妬み嫉みから反対している者も少なくないだろうが、純粋に帝国の将来を案じてアルテが正妻となるのを反対している者の方が大半だった。
なにせ、アルテは最低限の貴族教育しかされておらず、後宮入りしてから優秀な教育係をつけたが、これまで多くの立派な淑女を教え導いてきた教師達ですら匙を投げるほど呑み込みが悪かった。
なにより本人にやる気がまったくないのが問題だ。
自分は皇帝の寵愛を一身に受けているから問題ないと思っているのだろうなと疑われるほど、その態度から透けて見えていた。
それもあってか、平民の間での好感度の高さと反比例するように、宮殿内でのアルテの好感度は低い。
しかし、皇帝が頻繁に通っていることから、誰も文句を言えないのだ。
後宮においては、皇帝の寵があるかが重要なのである。
特に、現皇帝ユリウスは身分の貴賤を問わず、その者の力量で仕事を采配するので有名だ。
過去には貴族でもないにもかかわらず、一般兵を花形である近衛兵に抜擢するほどに身分に対し寛容だった。
そのユリウスがアルテを選んだという状況は、ユリウスが思っている以上に重く周囲に受け止められている。
そんな中、この後宮に新たな側妃がやってきた。
続々と外から運び込まれる荷物を見て、女官達が集まり囁き合っている。
話題の的となっているのは、誰が後宮入りしてきたのかということ。
「なになに? また誰か入ってきたの?」
「ええ、そうらしいわ」
「今度はどこの国の人質かしら?」
「違うわよ。よくご覧なさいな。荷物を運んで行ってるのは、一番格の高い、月の間よ」
皇帝を太陽と称えられるこの国において、夜の闇に浮かびその淡い光によって人々の道しるべになる月を冠する部屋は、もっとも皇帝の寵愛が厚い者、もしくはもっとも重要とされる側妃に与えられる部屋だ。
宮殿の中では皇帝、皇妃の次に格式が高く豪華な部屋でもある。
そこは、寵愛を受けているアルテにすら与えられなかった部屋だった。
噂が噂を呼ぶ中で、突如女官長が後宮で働くすべての女官を呼んだ。
しかも、その中には女官だけでなく、身分が下の下女や下男達までである。
何事かと、緊張が走るのは仕方ないことだ。
固唾を呑んで話し始めるのを待っていると、静かになった空間に女官長のやや固い声が響いた。
女官長自身ですら緊張しているような声だ。
「本日、陛下より通達された注意事項があります」
女官長の口から出た『陛下から』という言葉に、女官達の顔つきが変わる。
一語一句漏らしてはならないと耳に神経を集中させ、真剣な顔つきで聞き入る。
「この度後宮入りされた方は、フィーリア国の王女殿下であるリース姫です」
皇帝が襲撃にあったという話は秘匿されているが、知る者は知っている。
そして、少し前に皇帝自ら攻め入った話とともに、完全に人の口に戸は立てられない。
だからこそこの場にいる女官の全員が思った。
ああ、また人質にされた姫かと。
憐れみすら浮かぶ女官達の表情を見て、女官長はパンッと強く両の手を合わせ音を立てた。
その瞬間に背筋が伸びる面々に、女官長は真剣な面持ちで続けた。
「この度、我が国とフィーリア国の間で同盟が結ばれる運びとなりました」
思わず「えっ……」と小さな声が漏れた者を咎める者はいない。
それは全員の驚きを代弁していた。
フィーリアとは、帝国とは比べものにならない小国であり、目立った産物や資源があるわけでもない。
帝国にとってはなんら益のない国であると、全員が思っただろう。
しかし、次に待つ言葉にそれも変わる。
「フィーリアの姫、リース様は、大国ラヴィニールの現国王陛下のご令孫でいらっしゃいます」
ひゅっと息を呑んだのは誰だったか。
「皆さん細心の注意を払い、対応するように」
側妃の中には他国の姫も多く暮らしている。
しかし、ラヴィニールの孫娘とあっては、話はまったく違う。
大国と呼ばれる帝国が唯一対等にあるのがラヴィニールなのだ。
そんなラヴィニール国王の孫娘に失礼を働いてしまったらどうなるか……。
それが分からないほど愚かな者はここにはいない。
すると、一人の女官が恐る恐る手を挙げた。
「そこ、どうしましたか?」
「姫君の専属は決まっているのでしょうか?」
そうだ。と、女官達の顔つきがさらに真剣みを帯びる。
専属の女官としてつき、もし粗相でもすれば首が飛びかねない。しかしその一方で、気にいられれば相応の見返りがある。
ハイリスクハイリターンな専属という立場に、なりたい者となりたくない者との明暗がくっきりと表情に現れていた。
「姫君は国より専属の侍女を連れてこられています。お世話はその方がするとのことです。とはいえ、少数しか連れてこられていないようなので、こちらからも何人かつけることになるでしょう」
特に優秀で立場をわきまえている者をと、強く上から言われていた女官長は、部下である女官達を見回して、あきらかに浮足立っている者を候補から即座に排除した。
上昇志向があるのはいいことだが、すぐに表情に出してしまうような者をつけるわけにはいかない。
つけるなら、信頼のおける知識と経験が豊富な者を選ばなければ、万が一のことがあれば飛ぶのは人選した女官長の首かもしれないのだ。
嫌でも神経をとがらせてしまう。
「ニーリャ。とりあえずあなたにはついてもらうわ」
女官長に名指しされた女官は目を大きくして驚きを見せており、他の女官もざわめいた。
ニーリャという女性は一瞬驚きはした者の、すぐに冷静さを取り戻して女官長に問いかける。
決して騒がず、すぐに応じるニーリャは次の女官長候補の一人だった。
これまで皇帝の寵愛を受けるアルテにつけられていたのだが、それはアルテがあまりに我儘が過ぎて対応できる者が限られていたせいもある。
逆を言えば、それだけ優秀さを認められている人材とも言えた。
「女官長。私はアルテ様の専属でございますが?」
「どちらを優先させるべきかは分かるわね?」
その女官長の一言にすべてが詰まっていた。
「かしこまりました」
無駄口は叩かずに一礼するニーリャだったが、周囲の女官達からは嘆きの声が上がる。
「うそ、ニーリャが移動したら誰がアルテ様を御せるっていうの~」
「私じゃ無理無理!」
「私だって、一日で制御不能に陥るわよ」
しかし、女官長の言う通り、どちらを優先すべきか分かり切ったことなので、ニーリャがリースにつくことに対して不満を口にする者はいない。
どこかでニーリャが選ばれるだろうと思っていたからだろう。
「ニーリャが外されて、アルテ様は荒れるでしょうね……」
「すでに胃がキリキリする……」
そんなやりとりが裏で行われている間、リースは姫としてユリウスと対面していた。




