(第二部)五十九章 暗い目の前に新聞のような-4 (考察回)
(第二部)五十九章 暗い目の前に新聞のような-4 (考察回)
この度の「暗い目の前に新聞のような」で取り上げた話題の体験は俗に言う「先見の力」であったり「遠見の業」というもので、違う言い方をすれば未来予知とか透視能力の類いになると思われる。
どちらの言い方でも問題ないと思うがそれぞれの好みやこだわりによって言い方も変わることだろう。
どんなに言い方が変わっても本質が変わることは無い。
この度の話題の体験を指し示す言葉やそれに付随する思想や世界観や法則などといったものが存在するが、一般社会ではなかなかこういうものを深く知ることはできないし、知らない人や興味の無い人が大半であるのでごく普通の認識であれば荒唐無稽の話だと思う。
こういう話をただの荒唐無稽だと決めつけるのか、それをあるかも知れないと考えるのかで、より人間の本質や魂というものを感知しやすくなるのかどうか左右するのでは無いだろうか。
有るはずがないと断定してしまうと例え視覚に映っていたとしても脳がそれがない物として認識してしまうことがある。
それは極端な話だがそういうことがままあると聞いている。。。
もしそれが本当ならば一事が万事であり当てはまることがとても多いのでは無いだろうか。
視野を一つとっても絶対に無いという考え方より、もしかしたら有るかも知れないと考えた方が良さそうだ。
ごく普通に社会生活をしていく上でも視野が広い方がよりよいのでは無かろうか。
ましてや神秘や神々の世界そして秘伝などに興味がある方はいうまでもないことだろう。
可能性を信じず既存の情報の中でしか能力や存在を信じない者に新たな発見などできようか?。
思考的な視野を人間の可能性の限界まで広げることが神の道の奥に進む者にとって必須なのかも知れない。
話を少し戻そう。
未来予知力と文字で当てはめれば些か誇大表現に感じるかも知れないが、実際には非常に身近な能力の延長線上にあるといって過言では無い。
人は多かれ少なかれ予感というものを持っている。
予感はそれ一つの能力と捉えても良いだろう。
予感を信じるものはいるだろうし、予感をただの思い過ごしと考えて否定した行動を取るものも多いだろう。
確証のあるものでは無いが思い過ごしにしては気になるというそういうものに目を向ける、そういうものの延長線上に人の隠された能力がある。
信じてくれる貴方に一歩先の事を語りたい。
そして同じ体験を持つもの、人の神秘の力を信じて努力している人のために一人の体験者として記録を残したい。
ただ私は神道者としてあるので神秘の探求者では無いので、ある程度の体験と会得で留めているのをおことわりしておきたい。もちろんいつでもさらに探究できるようにしてはある。
未来予知および透視能力というもの自体の仕組みはそんなに難しいものでは無いと感じるが、幾つかの山場があることとある程度体験できるようになっていくそういうときに犯しやすい間違いや失敗などを幾つかあげておきたい。
まず準備段階では体の緊張をほぐすこと、これは地味に重要で凝り固まった体では鍛錬の成果が半減してしまう。
そこで開始前にはある程度の体操か柔軟体操などを行うのが好ましい。
次に集中していくわけだが、ここがかなり難しい。。。
雑念や妄想は現代社会に生きているとそれ相当のもので浮世の週間がなかなか抜けない。
たとえば歌や曲が好きな人が歌を口ずさんでいたりするが、そういう酒類の人が意識を集中しようとしてゆくと、意識の集中という要めが手暇な行動に感じてきて頭の中に歌曲が再生されてしまう。
こうなると意識の集中では無く記憶の再生装置としてしか頭脳は役に立たず本来の目的から逸脱してゆくことになる。
意識を集中し統一することによって自らの因果の糸をたぐり寄せ、未来見るであろう場面や場所を垣間見ようとする繊細な感覚を写す意識の鏡を形成する練習を必要を満たすまで繰り返してゆく。
未来の糸をたぐり寄せるのか、平行世界のとある情景を垣間見るのか、それとも人々の思念の世界をのぞき込んでしまうのかそれは術者の意識と精神性によってもたらされるものが違ってくる。
未来であれ平行世界であれ思念泥の海を垣間見ることになるのか判らないが、先ずは因果の糸を映し出す意識の鏡を形成するべきだろう。
これは肉眼を稼働させるものと違う回路を作らねばならないので、練習中から気をつけてゆく必要がある。
何かが意識の鏡に映っても肉眼で見る癖があれば、肉眼で見ようとした瞬間に意識の鏡は乱れたぐり寄せた景色の因果は散華してしまう。
これを回避するには見えても興味をそちらに向けずに目の端に映った情景程度の感覚で眺めることが大事。
鍛錬の仕方としては様々有るので詳しくは自分で調べてみると良い樽于が、私の場合は日々の神拝行事や日々の修法(鍛錬のこと)を中心にして進めている。
一見すると未来予知などの鍛錬に見えないが、神道式の形を覚え受容してゆく過程に多大なヒントがあったように感じている。
多大なヒントといっても人によっては意味をなさない疑問であったり、気付きであったりするもの。
これは意識がそこに向かなければ決して拾うことのできない類いのものであり試金石でもあると思う。
もちろん瞑想などの方法も年単位で研究したことがあるが、私には神道修法(行法)が合っているのだろう。
時折しか無いことだが最近は、神道修法(行法)中に神々が眼前に現れたとおもうととある情景を垣間見せていただけることがある。または暗い意識の世界(目を閉じての行法の時)にある情景や人物が浮かび上がってくることがある。暫く経つと人物やその風景の場所に行くことがあるが、すべてに出会うわけでは無いので意識を見えた情景に残すのはよろしくない。
生き方が確立されてくる毎に神秘の映像がしっかりしてくる様に感じる。
神秘の映像を見よう見ようと力んでいるときは、案外自分の意図しないものや意味のない物ばかりを見ることが多かった。
知識や体験をこれ見よがしに語りたい時期もろくな神秘映像は見えず、悪魔のような霊体が襲いかかってくることが度々だった。
これらの体験は後々に語ることとなるだろうが、超常という武器を振りかざしてみたところで人生が極端に有利になるわけではないのでそれを早くに悟ることが大事かと思う。
未来予知(先見)や遠見の業は見えない世界を操作する知恵の一つであるが故に、精神のあり方がたぐり寄せる映像の舵取りをしてしまうので、もし神秘の映像が見れるようになったとき、それらの種類を謙虚に受け止め自己を見つめ直すという精神性を持っていただければ幸いです。
さらに注意点としては神秘の映像を見ようとする余り神秘行ばかりを実戦した人がいたが、ほぼ気狂いのような人物になってしまったのを見たことがあるので自己責任の範囲で無理の無いように進めることが大事だ。
私の場合は神秘行に近いときには我が家で伝わっている秘呪(呪文)を唱えることがあってかなり守られていると感じるし集中するのにも非常に便が良い。
神秘行初期の人はある程度集中力がついてくると、額にコソコソとした綿でも接触しているのでは無いかと思うような感覚に出会うことがあるかも知れない。
それは霊的中枢に意識がかかっているためだと思われるので気にせず意識を集中してゆくと良いだろう。
進めてゆくと目を閉じている中で、もしかしたら目を開けていても場合によっては自分は体験したのであるのだが、青紫色の不思議なかたちのものを見ることがあるかも知れない。
さらに進めてゆくと白光や先のとがった菊の花の様なものを見ることがあるかも知れない。
そういう体験に出会うなら遠くない時期に神秘映像を見るのかも知れない。
まだ書き足らないがさらりと体験と思うところを書いてみた。
次話投稿は3月7日17時の予定です。
よろしくお願いします。
(*^_^*)