第八章 スケッチブックを閉じた
リネラに来て、五十日が過ぎた。
朝の空気は少し冷たくなっていた。秋に向かっているのだろう。
この世界に季節があるのかどうか最初は分からなかったが、朝晩の気温が下がり、畑の作物の色が変わり始めて、確かに時間が動いていることが分かった。
でも、スケッチブックは、閉じたままだった。
村の朝を描けた。指先に感覚が戻った。あの瞬間は、本当に良かった。でも、それから三日後、またどこかで詰まった。
きっかけは、また外から来た。
ミリィが報告してきた。村の北側、丘の上に立っている古い見張り台の石が、急速に色を失いつつあるという。もう三十年以上、誰も上っていない塔だった。足場が老朽化しているので危ない、と村人たちが口をそろえて言い、近づかないようにしていた。誰も上らないから誰も覚えていなくて、だから色が落ちているのだと。
「描けばいいと思う。ももえが」
ミリィの言葉は、桃絵の胸に重く落ちた。
桃絵は丘の上から見張り台を見上げた。背が高い塔で、先端が少し欠けている。石の色は確かに薄い。でも上には登れない。離れたところから描くしかなかった。
スケッチブックを開き、鉛筆を構えた。
そこまで出来た。
でも、描けなかった。
線を一本引くと、また止まった。消して、もう一度引いた。
また止まった。
三十分そこにいて、桃絵はスケッチブックを閉じた。
一本も満足に引けなかった。
帰り道、ミリィがついてきた。何も言わなかった。
それが、かえってきつかった。
翌朝も、その翌朝も、描けなかった。
スケッチブックを開くと、白いページが目に入る。その白さが、重い。ここに何を描くべきか、という思考が先に来て、手が止まる。何かを描こうとする前に、それが村の役に立つかどうかを考えてしまう。考えると手が止まる。止まると焦る。焦るとますます描けない。
悪い循環だと分かっていた。分かっていても、抜け出せなかった。
☆
一週間が過ぎた。
ガルドの畑の手伝いには行った。ルカの作業場にも顔を出した。ミリィとも会った。でも、スケッチブックを取り出すことが出来なかった。村の色がどうなっているか聞くのも怖くなっていた。もし自分のせいでさらに薄れていたら、と思うと、聞けなかった。
ヘルダが雑貨屋の前で声をかけてきた。
「最近、絵を描いてないの? 顔が暗いわよ」
「少し休んでる」
「ゆっくりしてていいわよ。絵は急いで描くものじゃないし」
優しい言葉だった。
でも、優しくされると、余計に申し訳なくなる。
十日ぶりに、スケッチブックを開いた夜のことだ。
別に描くつもりではなかった。ただ、寝られなくて、窓から星を見ていて、なんとなく手が伸びた。
スケッチブックを開いた時、少し迷った。白いページが広がっていた。あそこに何か描かなければいけない気がして、でも描こうとすると手が止まる、というのがずっと続いていた。
でも今夜は、白いページを見ても、それほど怖くなかった。
疲れているのかもしれない。それとも、もう一周して力が抜けたのかもしれない。
ページをめくった。前に書いた「今夜もいた」という文字が目に入った。三角座のことを書いた、あの夜の。
それを見ていたら、鉛筆が動いた。
星ではなかった。
桃絵が描いたのは、ルカの後ろ姿だった。
橋の上で川を見ているルカ。背中。耳が少し前を向いている。手が欄干に置かれている。描きながら、指先に感覚が戻ってきた。かすかだが、確かにあった。
描き終えて、桃絵は首を傾けた。
なぜ見張り台ではなく、ルカを描いたのだろう。村の色あせに関係のないものを。
でも、手は動いた。
桃絵はそのまま、隣のページにもう一枚描いた。今度はミリィ。木の葉の上で眠っているミリィ。一ヶ月以上前に実際に見た光景を、記憶で描いた。葉が少し揺れていて、ミリィが落ちないように羽根を少し広げていた。眠りながらもバランスを取っているのが、なんとも精霊らしかった。
二枚描いたところで、桃絵は手を止めた。
スケッチブックを閉じて、膝に乗せたまま、しばらく座っていた。
村の役に立たない絵を、描いてしまった。
なのに、久しぶりに、少しだけ楽になっていた。
窓の外の空を見た。三角座が出ていた。今夜はいつもより少し南よりにある気がした。季節が動いているのかもしれない。
日本では今、何時くらいだろう。
何日が経ったかは数えていたが、日本との時差については誰にも聞けていなかった。そもそも、時差があるのかどうかも分からない。この世界の時間と、日本の時間が同じ速さで流れているかどうかも不明だ。
家族は心配しているだろうか。
急に、それが気になった。
今日は学校の帰りに行方不明になったわけだから、少なくとも翌朝には親が気づく。でも、異世界にいます、とは連絡出来ない。信号待ちの場所に鞄が落ちていれば、その近くを探すだろう。でも見つからない。
怖くなってきた。
でも、怖いと思ったことに気づいたら、少し落ち着いた。日本のことを考えて怖くなれた、ということは、日本に帰りたいと思っていることの証拠だ。
この村で過ごしていると、時々、ここが自分の場所のような気がしてしまう。でも帰りたい気持ちもある。
スケッチブックの表紙を手で撫でた。
この黒い表紙も、そろそろ擦れてきた。中学の時から使い続けていて、もう三冊目だが、どれも同じ表紙の色だった。黒くて、少し固くて、持ちやすい。このスケッチブックを選んだのは、最初の一冊の時に特に何も考えずに手に取っただけなのに、それ以来ずっと同じものを選んでいた。
ここに来た時も、これを持っていた。
それが、ここに連れてきた鍵になった。
このスケッチブックが、帰る鍵にもなるのかもしれない。




