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色のない世界に、絵を描く ―スケッチブックから始まる異世界の村暮らし―  作者: 明石竜


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第七章 描けなくなった夜のこと

 橋の一件から、数日は調子が戻った。

 桃絵は「見たいものを見たいから描く」という感覚を取り戻して、スケッチブックのページが再び増えていった。ルーヴィの花。ガルドが収穫した見慣れない野菜。川沿いで水を飲む野鳥。ミリィが木の葉の上で眠っている様子。

 ミリィが眠っている絵については、少し後ろめたい経緯がある。

 あの日、桃絵は川沿いを歩いていて、ミリィの家の木の葉の上に小さな塊があることに気づいた。三センチくらいの、丸まった塊。近づいて見ると、ミリィだった。葉っぱの中央に寄り添うように丸まって、小さな胸がゆっくり上下していた。眠っていた。

 起こすのは悪い気がした。でも、あまりにも可愛かったので、桃絵はそっとスケッチブックを開いた。静かに座って、線を引き始めた。葉脈の形、その上に乗った小さな丸い体。黄緑の髪がばらけて、羽根が少し開いたまま休んでいる。

 描いているうちに、ミリィが目を開けた。ぼんやりとした金色の目が、桃絵を見た。

「……ももえ?」

「おはようございます」

「今、描いてた?」

「描いてました」

 ミリィは少しの間そのままでいた。

「見せて」

「はい」

 桃絵がスケッチブックを傾けると、ミリィはじっと見た。眠っている自分の絵だ。

「かわいい」

「そうですか」

「かわいい」

 ミリィは繰り返した。今度は、どこか照れたような声だった。

「こんなに小さく見えるんだね、ワタシ」

「葉っぱと比べると」

「葉っぱより小さい」

「三枚重なってますよ、その葉」

「三枚!」

 ミリィは起き上がって、自分が寝ていた葉を数えた。本当に三枚重なっていた。

「気づかなかった。寝てたから」

「ぐっすりでしたよ」

「この絵、もらってもいい?」

「どうするんですか」

「川のそばの石の上に置いておく。精霊の家ってあんまり物がないから、置き物が欲しかった」

 桃絵は少し考えた。スケッチブックのページを切り取るのは少し惜しかったが、ミリィの「物が欲しかった」という言い方がなんとも正直で微笑ましかった。

「次に描いた時、差し上げます。今日のは、私が持ってていい?」

「いい!」

 ミリィは全然気にしていなかった。

「じゃあ、また眠ってもいい? 次に描く時」

「眠ってれば描けます」

「分かった!」

 ミリィは元気よく答えて、また葉の上に丸まった。

 三秒で寝息が聞こえ始めた。

 桃絵はスケッチブックを持ったまま、少しの間ミリィを見ていた。

 かわいい。

 描くたびに、指先に何かが通る感覚があった。


           ☆


 でも、一週間が経つと、また変わってきた。

 今度は、外からではなかった。

 桃絵の内側から、何かが詰まってきた。

 きっかけは、雑貨屋のおばさん、ヘルダが言ったひと言だった。

 ある昼過ぎ、ヘルダの店で話していた時、彼女が言ったのだ。

「桃絵ちゃんの絵のおかげで、最近、花の色が戻ってきてる気がするわ。皆そう言ってる。あなた、本当に助かってる」

 悪意はなかった。純粋に感謝していた。

 でも、その言葉を聞いた後、桃絵の手が止まった。

 役に立っている。村の助けになっている。

 それはよかった。よかったはずだった。でも、その言葉が頭に入った途端、また「役に立つ絵を描かなければ」という気持ちが戻ってきた。

 前と同じだった。でも、前は外から自分で課していたものだった。今度は、誰かが言葉にしてくれた。もっと重かった。


 その夜、桃絵はスケッチブックを開いた。

 描けなかった。

 何を描こうとしても、手が止まった。空白のページを見つめた。鉛筆の先が紙に触れない。

 夜空を見た。いつもなら、見ただけで描きたくなる。でも今夜は、空を見ながら「何を描けば村の役に立つか」が先に頭に来た。

 それが来ると、描けなかった。

 桃絵はスケッチブックを閉じた。

 初めてのことだった。見たものを描けないことが。


 翌朝もそうだった。

 畑に行って、ガルドと作業しながら、いつもならすぐにスケッチブックを取り出す場面で、取り出せなかった。見るものはある。ガルドが収穫した野菜の形も、土の色も、朝の光の当たり方も、全部目に入っている。

 でも、描くことが怖かった。

 正確に言うと、「役に立つ絵を描かなければならない」と思った瞬間に、何も描けなくなった。役に立てようとすれば手が止まる。役に立てることを考えなければ描けるかもしれないけど、それは結局自分だけのためにしか動いていないことになる。そのどちらでもない場所を、桃絵は見つけられなかった。

「調子悪そうだな」

「……少し」

「絵か?」

「描けなくなりました。急に」

 ガルドは鍬を持ったまま、少し考えた。

「俺も去年、似たようなことがあった」

「畑が?」

「畑が、嫌いになりかけた。ある年、雨が少なくて、作物がほとんど育たなかった。皆が食料に困って、俺が何とかしなければと思い続けて、毎日畑に出て、毎日うまくいかなくて。そのうち、土を見るのが嫌になった」

「それから、どうしたんですか」

「妻に言われた。一日だけ、休めと」

「一日」

「一日、畑に出なかった。次の日、畑に出たら、また土が見えた。見たくて仕方なかった。必要だからとか、皆のためとか、そういう気持ちの前に、ただ、土が見たかった」

 桃絵は黙っていた。

「急には戻らんかもしれんが。焦るな」

 でも、焦るなと言われると、余計に焦る気がした。


 その日の夕方、ルカの作業場に行った。

 ルカはいつも通り作業していた。今日は細い木の棒を削っていた。

「何を作ってるの?」

「子どもの笛」

「笛木で、笛を作るの?」

「村の子どもに頼まれた」

「笛作るのも木工なの?」

「木を削るのは全部木工」

 桃絵は笛の途中の棒を見た。まだ丸い棒で、どこに穴が開くのかも見えない。でも、削り方が丁寧で、木の表面がなめらかだった。

 よく見ると、棒の端に、すでに唇の当たる部分らしい形が少しだけ刻まれ始めていた。ごくかすかな凹みで、注意しないと気づかないほどだった。でも、桃絵には見えた。

「ここが唇を当てる場所ですか?」

 ルカが少し目を細めた。

「気づいた。うっすら削れてるので」

「まだ途中だ。もっと深くする」

「きれいになりそうですね」

 正直な感想だった。ルカが作るものはいつも、仕上がりが丁寧だ。作りかけのものでも、どこに向かっているかが分かる。

「ルカ、笛って難しい?」

「難しい。音が出るかどうかは最後まで分からない」

「失敗することもある?」

「ある」

「失敗したらどうするの」

「もう一回削る」

 桃絵はその言葉を聞いて、少しだけ笑った。シンプルだと思った。失敗したら、もう一回削る。それだけだ。

「音が出た時、どんな気持ちですか?」

 ルカは手を止めて、少しの間、考えた。

「最初の一音が出る時、必ずうまくいくわけじゃない。でも、出た時……」

 ルカはまた少し黙った。

「あの音は、削ったものからしか出ない」

「削ったから出る音、ということですか?」

「そう。この木から、こう削ったから、この音が出る。同じように削っても、同じ音にはならない。木が違えば音が違う。だから、この笛にしか出ない音が、この木の中にある」

 桃絵はその言葉を聞いて、スケッチブックを少し抱え直した。

「絵も、そうかもしれないですね」

 そう言ってから、少し自分でも驚いた。

 いつもなら「絵は木工と違う」と思っていたはずなのに、今は同じことのように聞こえた。

「そうかもしれない。この橋を、今日の光で、桃絵が描いたから出る線がある」

「ルカがそういうこと言うの、珍しいですね」

「たまに言う」

 ルカは短く言った。それ以上は言わなかった。

 でも、それだけで桃絵には十分だった。

 ルカは再び棒を削り始めた。鑿の先が木の表面を薄く削いで、木の香りが空気に混じった。夕方の光が作業場の窓から差し込んで、木くずが光の中でゆっくりと落ちていった。

 桃絵はスケッチブックを開いた。

 笛の途中の棒。ルカの手。木くずの落ちる光の中の様子。

 描き始めると、指先に感覚が通った。久しぶりに、素直な感覚が来た気がした。

 ルカの言い方は相変わらず短かったが、桃絵にはその言葉の後ろに、もう一回削った木の山がある気がした。失敗した笛の棒が、何本も。でもそれを嘆く言葉は、ルカにはたぶんない。ただ、もう一回削る、という選択が残っているだけだ。

「笛を作る時って、どんな気持ちで削るんですか?」

「木の声を聞く感じ」

「木が声を出すんですか?」

「出さない。でも、鑿を入れると、木の感触で何か分かる。ここは硬い、ここは柔らかい。このまま削ると穴がずれる。だいたい、木がそう言ってる感じがする」

 桃絵はそれを聞いて、指先の感覚を思い出した。描いている時の、あのピリとした感触。線が紙に触れる時、描いているものと何かが通じている感じ。

「それ、絵を描く時のことと似てる気がします」

「そうか」

「見ていると手が動いて、動いた先に線が出来て、線が積み重なると、描いたものになる。でも、ぜんぶを考えてやってるわけじゃない。どこかで、見てるものが勝手に指先に来てる感じがある」

「俺も同じだと思う。木が何を言っているか、頭じゃなくて手で分かる」

 桃絵はルカが棒を削っていくのをしばらく見ていた。

 ルカの手つきには、無駄がなかった。でも、素早いわけではない。速さより、確かさがある手つき。一回一回の動きが、次の動きのための準備になっている。積み重ねる感じ。

 これを見ていると、いつも時間を忘れる。

 桃絵は思った。

 最初にここに来た日、木目がきれいだと思って手が動いた。あのとき桃絵が描いたのは棚の足と手のスケッチだったが、今では棚の足ではなくて、削る手の動きそのものが描きたくなる。見ている対象が、変わってきている。

「ルカ」

「なに」

「木工を見てて思ったんですけど、作ったものって、残りますよね。テーブルとか棚とか笛とか、使う人の手元に残る」

「残る」

「絵は残らないことがある。コンクールに出しても、選ばれなかったら誰にも見てもらえないし、スケッチブックに描いたものは私しか見ない。形があるけど、残ってるかどうか分からない感じがして」

 ルカは少しの間黙った。それから手を止めた。

「桃絵のスケッチブック、俺は見た」

「あ……そうですね」

「俺の中に残ってる」

 短い言葉だったが、淡々と確かな声で続ける。

 絵を見た人の中に残るんじゃないか。

 桃絵はその言葉を、少しの間持っていた。

 見た人の中に残る。そういう意味での「残る」が、絵にはある。形が手元にあることとは違う、でも確かに存在する残り方。

「……そうですね。それで、十分なのかな」

「十分かどうかは知らない。でも、なくなってはいない」

 桃絵はスケッチブックをぎゅっと持った。なくなっていない。その言葉が、なんとなく温かかった。

 ルカは手を止めずに、「知ってる」と言った。

「知ってたの?」

「顔見たら分かる」

「ルカも、木工が出来なくなったことある?」

 ルカは少し考えた。

「師匠がいなくなってから、しばらくあった」

「それって、どういう感じだったの」

「作りたいものが思い浮かばなかった。鑿を持っても、何をしたいか分からなかった。木を見ても、何も感じなかった」

「それから?」

「ある日、雨が降って、川が増水した。作業が出来なくて、一日ぼーっとしてた。それだけだ。次の日、また木を見たら、削りたくなった」

 ガルドと同じことを言っていた、休む。止まる。それだけ。

「ぼーっとしてた一日、何か感じましたか?」

「川の音を聞いてた。川が増水してたから、音が大きくて。普段と違う音だった。そのうち、その音を聞いてたら、この音はどんな形だろうと思った」

「音の形」

「川の音を木で作ったら、どんな形になるか。木工の話で。考えてるうちに、また何か作りたくなった」

「その音を形にしたもの、作ったんですか?」

「作らなかった。でも、作りたいと思った。それで十分だった」

 桃絵はそれを聞いて、少しだけ頷いた。

 作りたいと思った。それで十分。

 描きたいと思うこと。それが始まりで、それが核で、ほかのことはその後でいい、ということかもしれない。

「休んでいいって、みんな言う。でも、休んでいる間に村の色が薄れたら、どうするの?」

「どうもしない」

「どうもしないって」

「薄れたら薄れた分、また戻せばいい」

「全部を一度に守ることは出来ない。俺も全部の家具を一度には作れない。一個ずつだ」

「でも、一個ずつじゃ追いつかなかったら?」

「追いつかない分は、しょうがない」

 桃絵は黙った。

「しょうがない、って……あんまりよくない言葉に聞こえる」

「そうかもしれない。でも俺は、追いつかないことを責めない。出来ることをやって、出来ないことは出来なかったと言う。それだけだ」

 ルカの言葉は短くて、感情がこもっているのかどうか分かりにくかった。でも、桃絵はその言葉が嘘でないことは分かった。

 笛になりかけの棒を、ルカが丁寧に削っていた。

 今夜、音が出るかどうかは分からない。でも、彼は削っていた。

 桃絵はその様子を見ながら、スケッチブックのページを開いていた。気づいたら開いていた、という感じだった。手が先に動いた。

 削っているルカの手を、描いた。

 さっきまで「描けなくなった」と思っていたのに、手が止まらなかった。役に立つかどうか、評価されるかどうか、何も考えていなかった。ただ、ルカが笛の棒を削る手つきが好きで、その「好き」が先に来て、気づいたら線を引いていた。


 十分後、桃絵はページを見た。

 ルカの手。指先の角度。木の棒の丸み。削り屑が一粒、棒の側に落ちていた。それも描いていた。

「……描けた」

 桃絵は小さく呟いた。

 ルカがこちらを見た。

「なに?」

「なんでもないです」

 桃絵はスケッチブックを少し胸に引き寄せた。ルカに見せようかどうか、少しだけ迷った。迷ってから、差し出した。

 ルカは受け取って、見た。

「手の絵」

「そうです。その手を描きたかったので」

「また?」

 また、という一言に、特に何の含みもない、ただ確認する声だった。

「最初にここに来た日にも描いたんですけど、今日は今日で描きたかったです」

「同じ手でも、違う?」

「違います。ガルドさんも言ってましたけど、昨日と今日は同じじゃないので」

 ルカは少し考えてから言う。

「合ってる」

 久しぶりにその言葉を聞いた気がした。

 桃絵は胸の中で、静かに「よかった」と思った。

 星があった。

 描こうとは思わなかった。ただ、見ていた。

 三角座が見えた。自分が名前をつけた星座。左下の、三角形が重なった形。

 見るたびに、少し親しみを感じる星座になっていた。

 星は、見てもらいたいとは思っていないかもしれない。見てもらわなくても、そこにある。でも、自分が見ることで、桃絵の中でその星は存在し続ける。

 ミリィが言っていた。「忘れられたものは消えやすい」と。

 でも、忘れないために覚えようとするのと、自然に覚えていることは違う。

 好きだから覚えている。

 それだけのことかもしれない。

 桃絵はスケッチブックを開いた。

 今夜は描けるかどうか分からなかった。でも、窓から見えている三角座が、昨日より少し明るかった。気のせいかもしれない。でも、そう見えた。

 鉛筆を手に取った。

 描こうとは思わなかった。ただ、あの星のことを、紙の上に書いておきたかった。

「今夜もいた」

 それだけ書いた。

 文字を書いただけで、絵ではなかった。でも指先に、かすかに、あの感覚が戻った気がした。

 ピリ、という感触。何かが通る感じ。

 桃絵はページを閉じた。

 明日は描けるかどうか分からない。でも、今夜は三角座を見た。それだけで、今日は終わっていいかもしれない、と思った。

 そう思えたのは、初めてのことだった。


         ☆


 翌朝、ミリィが窓の外に来ていた。

「昨日の夜、何か書いてたでしょ」

「文字を書いただけ。絵じゃない」

「でも、昨日の夜、三角座が少し明るかった」

「見てた。気のせいかと思ってたけど」

「気のせいじゃないかも。精霊の感覚では、ちゃんと感じた。昨日のももえの書き物から、じわーっとしたやつ」

「文字でも?」

「言葉も、覚えてあげることだから」

 桃絵はそれを聞いて、しばらく考えた。

「じゃあ、絵じゃなくてもいいってこと?」

「絵が一番強い気がするけど。でも、覚えてることは何でも、何かになるのかも。言葉でも、声でも、形でも」

「村の人たちが名前を思い出すことでも?」

「たぶん。でも、思い出そうとして思い出すのと、自然に思い出すのは違うかもしれない。さっき言ってた話みたいに」

 好きだから覚えている。それと、覚えなければと思って覚えること。

 桃絵は窓の外を見た。

 村の朝が始まっていた。石畳をガルドが通り過ぎる。ニワトリが三羽、いつものように道のまんなかにいる。向かいの家の窓が開いて、誰かが顔を出した。

 リネラの村の、普通の朝。

 一ヶ月以上ここにいて、これが普通の朝だと分かるようになっていた。

 この村の朝が、好きだ、と桃絵は思った。

 いつからか、そう思うようになっていた。

 スケッチブックを手に取った。

 描こうと思った。役に立てるためでも、義務感でもなく、ただ、この朝の景色が好きで、紙の上にも欲しかったから。

 鉛筆を走らせた。

 石畳。通り過ぎるガルドの後ろ姿。ニワトリ。向かいの家の窓。朝の光の、白い感じ。

 指先に、はっきりとした感覚が戻った。

 描けた、と思った。

 そのページを、桃絵は長い間見ていた。

 上手いかどうかは分からない。コンクールに出せる絵でもない。でも、この朝の空気が、線の中に入っている気がした。ガルドの足の重さと、ニワトリの間抜けな佇まいと、向かいの家の人が顔を出した瞬間の、ほんの少しの驚き。

 全部が、ここにある。

 村長の声が、頭の中で聞こえた気がした。

「役に立たないように見えるものが、じつは何かを支えていることが多い」

 今はまだ、それが完全には分からない。

 でも、このページが好きだった。

 それだけは、確かだった。


 その夜、桃絵は久しぶりに夜空を描こうとして、手が止まった。

 窓を開けると、星が出ていた。三角座はいつもの位置にある。天の川もある。でも、鉛筆を持って、ページを開いて、どこから始めようかと思った時、何かが詰まった感じがした。

 役に立てようとして、うまくいかなかった一ヶ月。橋の前で固まった感覚。でも今日、川面を見てルカの横顔を描いたら、感覚が戻ってきた。

 その感覚はまだある。でも、「今夜描いていいのか」という問いが、邪魔していた。

 今夜描くことは、ただ見たいから描くのか。それとも、橋を直そうとしているのか。どちらなのか分からなくなっていた。

 手が止まったまま、窓の外を見ていた。

 扉をノックする音がした。

「桃絵、起きてるか」

 ルカの声だった。

「起きてます」

 桃絵はそう答え、扉を開けた。

 ルカが廊下に立っていた。片手に小さな木の棒を持っていた。

「これ」

「え、何ですか?」

「笛」

 桃絵は木の棒を受け取った。軽かった。長さは二十センチほど。滑らかに削られていて、音孔が四つある。端に唇を当てる部分がある。

「ルカが作ったんですか?」

「さっき仕上げた」

「さっき?」

「残った板で作った」

 桃絵は笛を見た。小さくて、シンプルで、でも丁寧に仕上げられていた。音孔の縁が、細かく整えられている。手触りが優しかった。

「なんで私に?」

 ルカは少し間を置いた。

「見せたかった」

 ルカはごく普通の声だったが、桃絵にはその言葉が少し重く聞こえた。

「昨日、笛の完成を見たいって言ってただろ。作ったから、持ってきた」

「ありがとうございます。吹いてみていいですか?」

「どうぞ」

 桃絵はおそるおそる端に唇を当てて、息を吹いた。

 音が出た。

 思ったより高い音だった。澄んでいた。でも、まだ音孔の使い方が分からないので、出せたのは一音だけだった。でも、その一音がしっかり響いた。夜の屋根裏に、細く澄んだ音が残った。

「出た」

「出た」

 ルカは少しだけ、口の端が上がった。

「ルカは吹けますか?」

「少し」

「聞いてもいいですか?」

 ルカは少し考えてから、桃絵から笛を受け取った。その時、指が少し重なった。桃絵は意識しないようにした。

 ルカが息を吹いた。

 桃絵が出した音よりもっと滑らかで、旋律になっていた。メロディーとは言えないくらい短い断片だったが、夜の静かな廊下に、光みたいな音が流れた。

「上手い」

「少し、しか出来ない」

「十分です。きれいでした」

 ルカはまた桃絵に笛を戻した。

「これは桃絵にやる」

「え、本当にいいんですか」

「作ったから」

「でも、売れるでしょう、それ」

「売ってない。作ったものは、使う人に渡す。使うだろうと思った人に渡す」

「私が使う、と思ったんですか?」

「描けない夜に、こういうのがあると、少し違うかと思った」

 桃絵はその言葉を聞いて、少し驚いた。

「描けない夜があるって、知ってたんですか?」

「見てれば分かる」

「どこで」

「作業場に来る時、顔が違う日がある。スケッチブックを持ってない日は、たいてい昨日描けなかった顔をしてる」

 桃絵はルカを見た。

 そんなところまで見ていたのか、と思った。

 ルカはいつもの静かな顔で立っていた。

 桃絵は視線を少し落とした。

「ありがとうございます。大事にします」

「うん」

 ルカはそれだけ言って、廊下を戻っていった。

 扉が閉まった。

 桃絵は笛を両手で持って、しばらく見ていた。

 小さい。軽い。でも確かに音が出る。

 窓を開けて、夜空を見た。三角座がある。

 今夜は、三角座だけを描こうと思った。役に立てようとでも、帰り道を探そうとでもなく、ただあの星座が好きだから。名前をつけた星座を、また見たいから。

 鉛筆がページに触れた。

 指先に、あの感覚があった。

 細く、でも確かにある、あの感覚。

 桃絵は描き始めた。

 描きながら、笛のことを考えた。ルカが作ったものは、自分が使うために作るのではなく、使う人に渡すために作る。それがルカにとっての「作る」ということだ。

 桃絵の絵は、誰かに渡すために描いているわけではない。

 でも、ミリィが「気配がある」と言ってくれた。

 ヘルダが「大事にする」と言ってくれた。渡すつもりで描いていないのに、誰かの手に残る絵がある。

 その違いが何なのか、まだはっきりとは分からない。でも、笛の音が夜の廊下に残ったように、絵が誰かの中に残ることがあるのかもしれない。

 三角座を描き終えて、桃絵は星座の隣に小さく「今夜の笛の音」と書いた。描いたものではなく、聞いたものを書き留めるのは初めてだったが、悪くなかった。このページに書き込むことで、今夜のことが一緒に残る気がした。


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