第六章 消えかけた橋のたもとで
一ヶ月が経ったころ、村の東側の橋が色あせた。
朝に気づいたのはガルドだった。石の橋で、村の歴史の中で一番古い建造物の一つだと言われていた。その橋の欄干が、一晩で灰色がかった白に変わっていた。石の模様が消えていて、触ると表面がざらざらしている。
「形はある。崩れてはいない。ただ、色が抜けた」
ガルドが伝える。
村人たちが集まった。桃絵も、ルカも、ミリィも。村長が橋の前に立って、欄干を手で撫でた。
橋は石畳の道の延長線上にあって、川の上を渡るためのものだった。幅は二人が並んで通れるくらい。欄干は腰の高さで、桃絵が手を置くとちょうど肘が乗る高さだった。白くなっていなければ、どんな模様が彫られていたのか見えたはずだが、今は表面が均一に白く、細部が見えない。
「古いものから色が落ちていく」
村長は穏やかに言った。
「記憶から遠いものから」
「なぜ橋なんですか?」
桃絵は尋ねた。
「この橋には昔、名前がついていた。でも今は誰も呼ばない。橋というだけで、名前がない」
「名前を覚えれば戻る?」
「覚えるだけでは足りないかもしれない。かつての古い記録には、こう書いてある。『形に命を吹き込むのは、見た者の心が動くことだ』と」
村長は穏やかに言う。
桃絵はスケッチブックを持っていた。
描こうとした。でも、手が動かなかった。
一ヶ月の試行錯誤が、頭の中に蘇った。役に立てようとして描いた絵の、あの固さ。ルカに「硬い」と言われた感触。ミリィに「絵が疲れてる」と言われたこと。
描けば何かが変わるかもしれない。でも、このまま描いたら、あの固い絵しか描けない気がした。
「ももえ、描かなくていいよ」
「でも」
「今じゃなくていい」
桃絵は橋を見た。
欄干の石には、かすかに模様の痕跡が残っていた。蔦のような形。何かの実のような形。誰かが長い時間をかけて彫ったものだろう。今はほとんど見えないが、よく目を凝らすと、白い表面の奥に、うっすらと線があった。
形はある。消えていない。ただ、色がない。
桃絵はそれを見ていた。
ルカが桃絵の横に来て、欄干を手で触った。
「この石、いい石だ」
「えっ、形が消えかけてるのに?」
「消えかけてる。でも、石自体はいい石だ。きめが細かくて、重い。こういう石を探すのは難しい」
ルカは職人の目で見ている、色や模様ではなく、材料そのものを見ている。
桃絵はそう感じた。
「ルカは、この橋が好き?」
「この橋を渡る時、川が一番よく見える。橋の中央に立つと、上流と下流が両方見える。いつも少し立ち止まる」
桃絵は橋の中央を見た。
「今日は渡る?」
「渡る」
二人で橋を渡った。
渡り始めて気づいたが、白くなった欄干は踏んだ感触も少し変わっていた。以前の石畳は足に吸い付くような重みがあったが、今日の欄干の石は少し軽い。色だけでなく、重さも抜けているような気がした。
中央に来て、立ち止まった。ルカの言った通り、上流と下流が一度に見えた。川が緩やかにカーブしていて、上流は森の中に消え、下流は村の建物の間に消えていく。水面が朝の光を受けて、細かく揺れていた。光が砕けて、また集まって、また砕ける。
「きれいですね」
「この川は毎朝違う。光の入り方で、全然変わる」
「そんなに毎朝見てるんですか」
「ここを通って作業場に行くから」
「毎朝、少し止まる」
桃絵は、そのルカの横顔を見た。
川を見ている時のルカの顔は、作業している時の顔と同じだった。集中していて、静かで、でも何かを受け取っている顔。すごくいい顔だ、と桃絵は思った。
そういえば、ルカを横から見たのは初めてかもしれなかった。いつも作業場の前か、作業台越しに向かい合って話していた。横顔は少し印象が違う。耳が大きいのがよく分かる。先が尖った、でも丸みがある耳。今は少し川の方を向いていた。
描きたい、と思った。
思ってしまってから、少し困った。ルカのスケッチはもう何枚か描いていた。手のスケッチ、作業中の後ろ姿。でも、こんなふうに「今すぐここで描きたい」と体が前のめりになる感覚は、一ヶ月以上ぶりだった。対象がルカの横顔である、というのに若干複雑な気持ちになりながら、でも手はすでにスケッチブックの方へ動いていた。
「ルカ」
「なに」
「耳って、音を聞くためですか。それとも、なんか別の役割がありますか」
「……聞くためだ。なぜ」
「少し川の方を向いてるから。川の音も聞こえてるのかなと思って」
ルカは少し考えた。
「聞こえてる。でも、今は水面を見てる」
「一度に見るのと聞くの、両方出来るんですね」
「出来る」
「すごいですね」
「桃絵も出来る」
「私は、どっちかに集中するとどっちかが欠けます」
「そうか。俺はそうじゃない、かもしれない。どっちかに絞ることの方が、逆に難しい」
桃絵はそれを聞いて、少し面白いと思った。聞くことと見ることを同時にするのが自然な人と、一つずつじゃないと出来ない人。そういう違いがある。
桃絵は、この景色を見ていた。
役に立つかどうかを考える前に、手が動いていた。
スケッチブックを開いて、鉛筆を走らせた。川の流れ。水面の光。欄干の端。ルカが橋の中央で川を見ている横顔。遠くの森の稜線。
描いている間、指先に何かが通った。
久しぶりに感じる、あの感覚だった。
一枚描き終えて、桃絵は橋の欄干を見た。
ほんの少しだけ、石の表面が温かみを帯びたように見えた。模様が戻ったわけではない。でも、完全に白でもなくなっていた。かすかに、石の元の色が、滲んだように見えた。
「描けた」
ミリィが声を上げた。いつの間にか桃絵の肩にいた。
「さっきは違った。今は違う」
「何が違う?」
「さっきは一ヶ月ぶりに聞こえた。じわーっていうの。ももえの絵から」
桃絵はスケッチブックを見た。
川と、橋の端と、ルカの横顔。
橋の上からの景色が、きれいだった。
それだけで描いた。
「でも、一枚で十分なの? 橋全体を描かないと、意味ないんじゃないの?」
「一枚でも、何かは動く。全部を変えなくていい」
桃絵はスケッチブックを閉じた。
「ももえ」
ミリィの声が、少しだけ変わった。
「あのさ。今の絵、ルカが入ってるよね」
「橋の風景の一部として」
「主役くらいの比率だったと思うけど」
「前景に人物が来ただけです。構図的に」
「構図?」
「構図です」
ミリィは黙って、桃絵の顔を見た。
川の音がした。
「ふうん」
「橋が少し色を取り戻したか、見に行きましょう」
「うん」
ミリィはそう答えて、少しだけ視線を逸らした。
☆
夕方、村長が橋を見に来た。
桃絵と二人で欄干を眺める。
「少し、戻った気がする」
「私が橋を描いたから、ですか?」
「そうかもしれない。でも、どうして今日描けたのかね?」
「ルカが、橋の中央から川が見えると言ったから。その景色を見たかったから」
「つまり?」
「役に立てようとして描いたんじゃなくて……見たかったから描いた」
「そうか」
村長の目は穏やかだった。
「それだよ」
「分かってはいるんです。頭では。でも、色が薄れていくのを見ていると、何かしなきゃって焦って。焦ると、見ることより描くことの方を先に考えてしまって」
「焦るのは当然だよ。村が心配なんだろう」
「心配です」
「それは良いことだ。ただ、その心配を、正しい形で絵に乗せるのは難しい。焦りをそのまま乗せると、絵は硬くなる。その村への愛おしさや、美しいと感じる気持ちをそのまま乗せると、絵は動く」
桃絵は川を見た。
「村が好きだから描く、ということですか?」
「もっと小さくていい。あの川の水面が好きだから描く。ルカが橋の上で川を見ている顔が好きだから描く。それでいい」
桃絵は橋の欄干に手を置いた。石は冷たかった。でも、さっきよりほんの少しだけ、温かかった気がした。
橋の上に風が通った。
桃絵はスケッチブックを閉じたところだった。
ミリィが肩の上で、ふいに羽を止めた。
「……あ」
「どうしました?」
「ちょっと待って」
ミリィは橋の欄干の方を見ている。
桃絵もつられて視線を向けた。
最初は、何も変わっていないように見えた。
古い木の橋。
少し灰色がかった、乾いた色。
でも――
「あれ」
ミリィが小声で呟いた。
欄干の端の方。
ほんの指一本くらいの幅だけ、木の色が違った。
灰色ではなく、淡い茶色。
新しい木の色に、少しだけ近い。
桃絵は橋に近づいた。
触れる。
普通の木だった。
でも、確かにそこだけ色が残っている。
「さっきまで、こんな色なかった」
ミリィは真剣な顔で伝えた。
ルカが、橋の反対側からゆっくり歩いてきた。
「どうした」
ミリィが指さす。
「ここ」
ルカはしばらく黙って見ていた。
それから、欄干を軽く叩く。
乾いた音がした。
「……戻ってる」
小さな声だった。
桃絵はスケッチブックを見た。
今描いた絵。
橋の端。
そこだけ、丁寧に線を重ねた場所だった。
ミリィが桃絵の肩の上で小さく笑った。
「ほら」
「ほら、じゃないです」
「でも一枚で十分って言ったでしょ」
桃絵はもう一度橋を見た。
色が戻ったのは、本当にほんの少しだけだった。
でも、確かにそこだけ違う。
橋の上を、風がまた渡った。




