第五章 役に立つ絵を、描こうとした
翌朝から、桃絵は変わった。
自分でも、少しずつ気づいていた。
以前は、見たいものを見た時に、スケッチブックを開いていた。ルカの木目が気になったから描いた。ルーヴィの花のグラデーションが好きだったから描いた。夜空が見たかったから描いた。
でも、村長の話を聞いてから、描く前に考えるようになった。
「何を描けば、村の役に立つか」
色が薄れている場所を、リストアップしようと思った。ミリィに聞いて回って、どこが一番色あせているか、優先順位をつけようとした。川の古い木、村の入口の看板、畑の端のルーヴィ、村長の家の前の石のベンチ。
今日はここを描こう。
桃絵はスケッチブックを開いた。
川の古い木の前だった。白い幹の木。ミリィが心配していた木だ。
描き始めた。
でも、なんか、違った。
線が、固い。
いつもはスケッチブックを開いた瞬間から手が動いていた。見ながら描くというより、見たものが自然に紙の上に降りてくる感じがあった。でも今日は、描く前に「正しく描かなければ」という気持ちが先に来ていた。木の幹の形を正確に取ろうとして、枝の広がりをきちんと表現しようとして、葉の一枚一枚に気を配ろうとした。
二十分描いて、桃絵は手を止めた。
出来たスケッチを見た。
悪くない。形は合っている。木の特徴も拾えている。でも、何かが足りない。前に描いたルカの手のスケッチや、ルーヴィの花と比べると、線に勢いがなかった。正確だけど、冷たい。
指先に、あの感覚がなかった。ピリ、とした、何かが通る感じ。
「……描けた?」
ミリィが木の枝から顔を出した。
「描いた。でも、なんか違う気がして」
「違う?」
ミリィは降りてきて、スケッチをしばらく見ていた。
「……綺麗に描けてるよ」
「綺麗なんだけど。なんか、前と違う感じがして。前はなんか、描いてる時にじわっとした感触があったんだけど、今日はそれがなくて」
「じわーっとした感触?」
「なんか、通ってる感じっていうか。線を引くたびに、木と繋がってる感じっていうか。うまく言えないんだけど」
ミリィは桃絵の顔を見て、それからスケッチを見た。
「もしかしてね。今日、役に立つ絵を描こうとしてたでしょ」
桃絵は黙った。
「分かるよ。昨日、村長と話したから。それで、何かしなきゃって気持ちになったんでしょ」
「……そうかもしれない」
「精霊の感覚でいうとね、さっきももえが描いてた時、絵からじわーってくる感じが、あんまりなかった」
「やっぱり」
「でも絵は綺麗だよ。ちゃんと木を描いてる」
「でも、力がない」
「力、っていうか……」
ミリィは言いかけて、首を傾けた。
「うまく説明出来ないけど。絵って、描いてる人が何を見てるかが出るのかも。役に立つものを描こうとしてる時は、描いてる対象より、役立てることの方を見てる。そういう時、絵から出てくるものが変わる気がする」
桃絵は木を見上げた。白い幹。枝の広がり。葉の揺れ。
さっきは、これを正確に記録しようとして見ていた。
でも今は、ただ木として見ていた。大きいな、と思った。幹に苔が生えていて、その苔の色が深い緑で、白い幹と並ぶと印象的だった。
手が、動きたくなった。
でも、桃絵は手を止めた。
「役に立つことを考えずに描くと、本当に役に立つの?」
「分からない。でも、たぶん、気にしない方がいい」
「気にしない方がいいって、村の色が薄れてるのに?」
「うん」
桃絵は少しだけ、苛立った。
「それって……無責任じゃないの。私が描けば色が戻るかもしれないのに、好きなものだけ描くって、それって結局自分のためにしか動いてないってことじゃないの?」
ミリィは黙った。
少しの間、二人とも黙っていた。
川の水音だけが聞こえた。
「ももえ、さっきの話。ワタシが言いたかったのは、無責任でいいってことじゃなくて。好きで描いてる絵が結果的に誰かの役に立ってるのかもしれないってことで。順番が逆なの」
「……順番?」
「役に立てようとして描くんじゃなくて、ももえが好きで描いた絵が、役に立つ。それが自然な形なんじゃないかって。さっきの絵、役に立つかどうかは分からないよ。でも、前の絵には何かがあった」
桃絵はスケッチブックを閉じた。
頭では分かるような気がする。でも、胸が納得していなかった。
自分の絵が力を持っていると知ってしまったら、それを使わないでいる理由が分からない。村の色が薄れていると知っていて、ただ「好きなものを描く」だけでいいのか。それは結局、楽な方に逃げているだけじゃないのか。
それからの一週間、桃絵は試行錯誤を続けた。
毎朝、スケッチの「ターゲット」を決めて描く。でも、描いている途中で手が止まる。指先の感覚がない。仕上がった絵を見て、何かが違うと感じる。
ルカに会うと、「最近、絵を描く顔が違う」と言われた。
「違う、って?」
「前は、ここに来る時、何か持ってた。今は、なんか……頑張ってる顔してる」
「頑張ってる顔は良くないの?」
ルカは少し考えた。
「頑張る、がいつも一番じゃない。木工でもそうだ。一番いい木を切り出すのは、うまくやろうとしてる時じゃなくて、木を見てる時だ」
「木を見てる、っていうのは?」
「この木はどこで育ったか。どっちに向いて伸びたか。どこに節があるか。それを見てると、自然に鑿を入れる場所が分かる。うまく切ろうと考えてる時は、たいていずれる」
桃絵はそれを聞いて、少しの間、黙った。
「私、今、うまくやろうとしてる?」
「村を助けようとしてる。それはいいことだと思う。でも、絵が硬い」
ルカが自分の絵を「硬い」と言ったのは、初めてだった。最初に「好き」と言ってくれた彼が。
桃絵はスケッチブックを握りしめた。
「……見せてもらっていい?」
桃絵は今日のスケッチを差し出した。村の入口の看板を描いたものだ。
ルカは受け取って、見た。
形のない時間が過ぎた。
「合ってる。看板の形、合ってる。でも」
「でも?」
「前のルーヴィの花のスケッチ、覚えてる? あの絵には、花が生きてる感じがした。この絵には、看板が記録されてる感じがする」
桃絵は絵を見た。
ルカの言っていることが、分かった。なんとなくだけど、分かった。
記録された絵と、生きている絵の違い。
前者を描こうとしていると気づいた時、桃絵は少しだけ、疲れを感じた。
その日の夜、ミリィが窓の外に来た。
「ももえ、今日のスケッチ、見せて」
「今日のは……見せたくない気持ちがある」
「なんで」
「なんか、自信がなくて」
「見せて」
ミリィはお願いしてくる。強い口調ではなく、ただ静かに。
桃絵はスケッチブックを開いた。今日描いたもの。看板、川の木、畑の角。どれも正確で、どれも何かが足りない。
ミリィは一枚一枚を見ていった。
「……うん」
「うん、って何?」
「絵が、疲れてる」
「絵が?」
「絵を描いた人が疲れてると、絵も疲れる。精霊の感覚だから、うまく説明出来ないけど」
桃絵はベッドに腰を下ろした。
「疲れてるかな、私」
「疲れてる」
ミリィは断言した。
「役に立とうとして描いてて、でも思い通りにいかなくて、それで疲れてる?」
「たぶん」
桃絵は天井を見上げた。部屋の梁が見えた。木の色が温かい。この梁も、誰かが削って、組んで、ここに渡したはずだ。ルカみたいな人が。
「ミリィ」
「なに」
「もし私が、好きなものしか描かなかったとして。村の色が全部薄れたとして。それは、私のせいになる?」
「ならない。ももえのせいじゃない。でも……それで責められた時、ももえは平気でいられる?」
桃絵は答えられなかった。
平気でいられるかどうか、分からなかった。




