第四章 花の名前を忘れた日
リネラに来て、三週間が過ぎた。
桃絵の日課は、だいたい決まってきた。朝は畑の手伝い。午後はルカの作業場に顔を出すか、村を歩いてスケッチをするか。夕方に村長の家へ戻って、台所で夕食の準備を少し手伝う。夜は窓を開けて、星を見る。
毎日が、静かに流れていた。
日本で過ごしていた時とは、時間の流れ方が違う気がした。あちらでは一日が速くて、でも何も残らない感じがした。授業と部活と夕食と睡眠が繰り返されて、気づくと一週間が終わっていた。ここでは一日がゆっくりで、でも夜になると確かに何かを積み上げた実感がある。スケッチブックの中身が、少しずつ増えていくように。
畑仕事でいつも一緒になるガルドのことが、桃絵は少しずつ分かってきた。
最初の印象は「怖い人」だった。大きくて、無口で、手がごつい。声が低い。笑わない。桃絵が話しかけると「ああ」か「そうだ」か「分からない」の三択で答える。会話が広がらない。
でも最初に出会った日からいっしょに作業していると、ガルドがいかに正確な人間かが分かってきた。
朝、桃絵が畑に着くと、ガルドはすでにいる。しかし何もしていない。ただ畑を見ている。桃絵が最初にこれを見た時、「まだ準備中なのかな」と思った。二日目も同じだったので「朝のルーティンかな」と思った。
知り合ってから三日目に聞いた。
「なんで毎朝、最初は畑を見てるんですか?」
「今日の土の様子を見てる」
「土の様子、って?」
「昨日より湿ってるか。霜が降りてるか。どこかに虫がいるか。日差しがどの方向から入ってるか」
「そんなに毎朝変わるんですか?」
「変わる」
ガルドはきっぱり言った。
「昨日と今日が同じ畑は一度もない」
「絵も、そうかもしれない」
意識して言ったわけでもなく、声が出ていた。
「なんだ」
「同じものを描いても、昨日と今日では違うな、って思って。空の色とか、花の向きとか」
「そういうことだ。毎朝同じに見えても、ちゃんと違う。その違いを無視すると、作物の育ちが遅くなる」
「絵の違いを無視すると……」
「知らない、絵は。でも、大事なのは同じことじゃないか」
ガルドはそれだけ言って、鍬を手に取って、作業に入った。
桃絵は今日の畑を、初めてちゃんと見た。土の色が、昨日より少し暗い。雨が降ったわけでもないのに、湿気が変わっている。葉の向きが少しだけ東に傾いている。なんとなく、今日の光の角度が変わったのかもしれない。
スケッチブックを取り出した。
今日の畑を描いた。昨日描いた畑ではなく、今日の畑を。
描いていると、
「何してる」
ガルドが尋ねてきた。
「今日の畑を描いてます」
「そうか」
それだけ言って、また作業に戻った。
しばらくして、ガルドが振り返った。
「描いてから作業するのか? それとも作業しながら?」
「描き終えたら手伝います」
「そうか」
また沈黙。鍬の音が続く。
それからしばらくして、
「今日描いたやつ、見せてくれ」
ガルドからお願いされる。
「これですか」
桃絵はスケッチブックを差し出した。ガルドは大きな手でスケッチブックを受け取って、しばらく見た。
「今日の畑だ」
「今日の、ですか?」
「昨日と違う。葉の向きが今日のやつだ」
桃絵は驚いた。
ガルドが、スケッチブックを見て「今日の」と言い当てた。普通なら「畑の絵」としか言わないはずだ。でも、毎朝畑の変化を観察しているガルドには、葉の傾き一つで「今日だ」と分かる。
「すごいですね」
「絵もそういうもんか」
見たものを、正確に留めてある、ということだと桃絵は受け取った。
☆
その日の午後、桃絵は村の井戸の近くでスケッチをしていた。
石の井戸。縄。桶。
昼の光が、石の縁に白く当たっている。
桃絵は鉛筆を動かした。
線はすぐに決まった。
井戸は毎日誰かが使う場所だから、形が整っている。
使われている物は、描きやすい。
少しして、後ろから声がした。
「それ、何してるんだい」
振り向くと、畑で見かけたことのある女性だった。
「井戸を描いています」
「井戸を?」
女性は少し近づいてきた。
桃絵のスケッチブックをのぞく。
「……あら」
しばらく黙って見ていた。
「これ、うちの井戸だね」
「はい」
桃絵は少し迷ってから言った。
「場所を覚えるのにいいかなと思って」
女性は井戸を見て、それから絵を見た。
「なるほどねえ」
それから笑った。
「これ、助かるわ」
「助かる?」
「子どもに説明するのが楽になる」
女性は井戸を指さした。
「この縄、よく絡むのよ。だから子どもに『ここに巻く』って教えるんだけど、口で言うより絵が早い」
桃絵はスケッチを見た。
縄の巻き方も、ちゃんと描いていた。
「よかったら、このページあげます」
桃絵は言った。
「いいの?」
「また描けるので」
女性は少し驚いた顔をして、それから受け取った。
紙をじっと見ている。
「ありがとう」
その言葉は、とても普通だった。
でも桃絵は、少しだけ驚いた。
「……どういたしまして」
女性は井戸の横の壁に、その紙を軽く当ててみた。
「ここに貼ろうかな」
「いいと思います」
「子どもが見える高さに」
女性はそう言って笑った。
それから、もう一度言った。
「本当に助かるよ。ありがとう」
桃絵はうなずいた。
そのあと少しだけ井戸を見てから、スケッチブックを閉じた。
帰り道、桃絵は少し考えた。
コンクールで評価された時とは、違う感じだった。
順位もない。講評もない。でも、役に立った。
それだけで、十分な気がした。
あのあと、桃絵は一人で村の奥の方も散策することにした。
リネラ村は小さいと思っていたが、歩いてみると道がいくつも分かれている。
石畳の道は途中で土の道に変わり、また石畳に戻る。
似たような家が並び、似たような屋根が並ぶ。
桃絵は、ある角を曲がったところで立ち止まった。
――あれ。
どっちから来たのか、分からなくなった。
少し考えて、振り返る。
さっき通った気がする道と、通っていない気がする道が、両方そこにあった。
「……迷いましたね」
桃絵は小さく言った。
焦りは、あまりなかった。
空を見る。
太陽はまだ高い。
夕方ではない。
村の中だ。
どこかに出れば、誰かいる。
桃絵はゆっくり歩き始めた。
角を一つ曲がる。
同じような石壁。
同じような木の扉。
また角を曲がる。
小さな畑があった。
でも、見覚えがない。
桃絵は少し考えて、スケッチブックを開いた。
さっき見た家を思い出す。
屋根の形。
窓の位置。
井戸の場所。
鉛筆で、簡単な地図を描いた。
四角い家。
曲がった道。
石の井戸。
描いているうちに、思い出す。
井戸の横に、背の低い木があった。
その木の葉が、少し黄色かった。
「……あっちですね」
桃絵は地図を見て、歩いた。
角を曲がる。
井戸があった。
横に、小さな木。
葉が少し黄色い。
桃絵は少し笑った。
そこからは、迷わなかった。
雑貨屋の屋根が見える。
ヘルダの店だった。
店の前で、ヘルダが桃絵に気づいた。
「あら、ももえちゃん。散歩?」
「はい。少し」
「迷ってた顔してる」
桃絵は少しだけ考えてから答えた。
「少しだけ」
「村の道、似てるからねえ」
ヘルダは笑った。
「最初はみんな迷うのよ」
「そうなんですね」
「でもね」
ヘルダは少し楽しそうな顔をした。
「迷った人は、大体この店に出るの」
「どうしてですか?」
「分からない。でも来るの」
桃絵は店を見た。
確かに、目立つ。
扉の横に、色の違う瓶が並んでいる。
風に揺れる小さな布もある。
「目印になってるのかもしれません」
「そうかもね」
ヘルダはうなずいた。
「ももえちゃんは、どうやって戻ってきたの?」
桃絵はスケッチブックを少し見せた。
「描きました」
「地図?」
「はい」
ヘルダはそれを見て、少し目を丸くした。
「なるほどねえ」
それから笑った。
「ももえちゃんは、絵で帰るのね」
桃絵は少し考えてから言った。
「描くと、覚えるので」
「それはいいね」
ヘルダはうなずいた。
「じゃあ次に迷っても、きっと帰れるわ」
桃絵は地図のページを閉じた。
「そうですね」
スケッチブックを持っていると、帰り道が少しだけ見つけやすい気がした。
「ももえちゃん、もしよかったら、これから棚の整理手伝ってくれない?」
「もちろんいいですよ」
ヘルダさんの雑貨屋には、桃絵も気づくと週に三、四回は顔を出していた。
棚には瓶が並んでいた。乾いた草、液体、粉。色も形もばらばらだ。
言われた通り並べ替えていると、一本だけ棚に収まらない瓶があった。
「ヘルダさん、この瓶、ここだと入らないんですが」
「ああ、それは一段上。その棚なら合う」
桃絵は背伸びした。
瓶を置こうとした時、隣の瓶に触れた。小さく揺れ、それが隣に伝わり、棚の奥でコンッと音がした。
奥をのぞくと、一本の瓶が横倒しになっていた。黄色い液体が棚板に広がっている。
「ごめんなさい」
「大丈夫よ」
ヘルダはさっと布巾を取り出した。
「蜂蜜酒よ。もったいないけど、大怪我じゃない」
甘い匂いが広がっていた。
「拭きます、私が」
「いいのよ」
ヘルダはにこにこして言った。
「その代わり、絵を描いてもらえる?」
「……お礼になってない気がします」
「わたしがしたいの。釣り合いじゃないのよ」
ヘルダはあっさり言った。
「わたしの顔を描いてほしかったの」
「自分の顔を?」
「鏡で見るより面白そうだから。鏡は左右が逆でしょ」
桃絵は少し迷ったが、断れなかった。
「でも、私が瓶をこぼして」
「蜂蜜酒はそんなに好きじゃないの」
ヘルダは布巾を動かしながら言った。
「夫が好きで置いてただけ。七年前に死んでしまってね」
言い方はさっぱりしていた。
「描いてもらったら棚に飾ろうかしら。夫に見せてやる」
桃絵は少し笑った。
「描かせてもらいます」
「上手くなくていい。面白ければ」
ヘルダは椅子に座り、真顔で正面を向いた。
「いつも通りで大丈夫です」
「これがいつも通りよ」
桃絵は描き始めた。
笑い皺の線、白い髪、かごの上に置かれた手。
途中でヘルダが動いた。
「動かないで下さい」
「鼻が痒い」
「少し我慢して下さい」
ヘルダは頑張っていた。顔が少し歪んでいた。
十分ほどで描き終えた。
ヘルダは受け取ると、じっと見た。
「……あらあら」
「どうですか?」
「こんな顔してたのね、わたし」
「かっこいいと思います」
「かっこいい!」
ヘルダは嬉しそうに笑った。
「これ、もらっていい?」
「どうぞ。少し形がいびつになりますけど」
「いいの、いびつで」
桃絵はページを切り取って渡した。
「棚に飾るわ。お客さんに見せたい」
「ヘルダさんのお客さんに?」
「そう。ももえちゃんが上手いって、みんなに知ってほしいから」
「上手いかどうかは」
「わたしがそう思ったからいいの」
ヘルダはあっさり言った。
桃絵はそれ以上言えなかった。
翌日、桃絵が雑貨屋の横を通りかかると、中から声が聞こえた。
「あの旅人の子、絵が上手いって聞いたわよ」
「ヘルダの顔のやつね。あれ、すごくヘルダの顔だった」
「眉毛のところとか」
「そう、眉毛!」
笑い声がした。
桃絵の胸の中に、じんわり温かいものが広がった。
コンクールで「よく描けてた」と言われた時とは、違う温かさだった。
桃絵は壁の外で、静かに「良かった」と思った。
「ももえちゃん」
ヘルダが呼んだ。
「顔の絵、もう一枚描いてくれる?」
「またですか?」
「鼻が痒くて動いちゃったから」
「さっきの絵でも十分ヘルダさんでしたよ」
「鼻が曲がってた」
「曲がってません」
ヘルダは少し考えて伝えた。
「もう一枚描いてくれたら、お茶にお菓子つける」
桃絵は迷った。
「……あと一枚だけ」
ヘルダは満足そうに鼻をぐりぐりとかいた。
桃絵は笑った。
二枚目を描き始めると、すぐに気づいた。
ヘルダの顔が一枚目と全然違う。
どこか自信満々だった。
「今日は強そうな顔ですね」
「準備してきたから」
桃絵は線を引きながら笑った。
二枚は全然違う顔になった。でも、どちらもヘルダだった。
ヘルダは並べて見て、大きく笑った。
「本当だ。全然違うわ」
「どっちを飾ります?」
「両方よ」
桃絵は少し呆れながら、でも嬉しかった。
☆
その夜、桃絵はスケッチブックに書いた。
評価は、外から来るとは限らない。
少し考えて続けた。
コンクール用の絵と、スケッチブックの絵。どちらも本当の私の絵なのかもしれない。
それだけ書いて、眠った。
☆
村での一日は、ゆっくり進んでいった。
ある日、ガルドが作業を止めて、桃絵の方を見た。
「おまえ、魚は食えるか」
「食べます、はい」
「川に魚がいる。俺は釣りが苦手だ」
「はい?」
「ルカも苦手だ」
「そうなんですか」
「村長は足が悪い」
「はい」
ガルドは少し間を置いた。
「だから、おまえが釣れ」
桃絵はぽかんとした。
「あの、私も得意かどうかは」
「やったことあるか」
「父と二回くらい」
「二回なら俺より多い。決まった」
決まった。と言い切られてしまうと、「でも」が出てこなかった。
父と釣りに行ったのは二回だけだ。五年以上前で、結局一匹も釣れていない。
つまり桃絵の釣り実績はゼロだった。
「ガルドさんは、今まで何匹釣れましたか?」
「ゼロだ」
ガルドは胸を張った。
「私もゼロです」
「それは分からなかった」
「言えばよかったですよね」
「でも、おまえの方が俺より若い。若い方が運がある」
「それは根拠があるんですか?」
「ない」
ガルドはきっぱり言った。
「でも決まった。頼む」
「……」
午後、桃絵は川辺にいた。
川のそばは風があって、少し肌寒いが、日差しが背中に当たって温かかった。
「この川、名前は何て言うんですか?」
「リネル川だ」
「……リネル川」
桃絵は、その名前を小さく繰り返した。
そして竿を持ったまま、水面を見た。
流れの中に、空の色が揺れていた。
糸を垂らした。水面に小さな波紋が広がる。桃絵は、魚より先にその形を目で追っていた。川の水は澄んでいて、底の石が透けて見える。丸い石、大きな石、少し尖った石。なんとなくスケッチしたくなる形だった。
竿先が、ぴくりと動いた。
「来た」
ガルドが引き上げる。
水から出てきたのは魚ではなく、曲がった古い釘だった。
「……釣れたな」
「釣れましたね」
桃絵は釘を手に取った。
水で濡れた鉄の色が、少しきれいだった。気づくと、スケッチブックが開いていた。
「魚じゃないな」
「ですね」
ガルドは少し考えてから言った。
「……まあ、最初の宝だ。あとは任せた」
ガルドは満足した顔でうなずくと、もう畑の方へ歩き出していた。
桃絵は、呼び止めなかった。
――それにしても、魚がいる気配がまるでない。
釣り糸を巻きながら、桃絵は川を覗いた。
三十分経っても、魚は結局、一匹も釣れなかった。でも、水はずっと同じように流れていた。
桃絵は立ち上がった。少しだけ川の上流を歩いてみることにした。
石の多い岸を、ゆっくり進む。
川幅はあまり変わらない。
でも、場所によって流れが違う。
あるところは静かで、あるところは少し速い。
桃絵は立ち止まった。
水の中に、小さな石がいくつも見えた。
丸い石。少し平たい石。流れが当たるところだけ、少し色が違う。
水が動くと、光も動く。
石の形が、揺れて見えた。桃絵はスケッチブックを開いた。
石を描く。一つ。二つ。でも、水の揺れまでは描けない。ただの石になってしまう。
桃絵は少し考えた。
水は透明なのに、形がある。動いているから、形が見える。
桃絵はもう一度川を見る。少し上流の方に、小さな曲がりがあった。
そこだけ、水の色が少し深い。
桃絵はそこまで歩いた。曲がり角に来ると、流れが少し変わる。
水は同じ川なのに、場所によって違う。
「面白いですね」
桃絵は思わず呟いた。
川を描くのは難しい。
でも、見ていると少しずつ形が分かる。
桃絵はスケッチブックを閉じた。
空を見る。川の上に、青い空が揺れていた。
桃絵は少しだけ笑った。
川を描くより、空を描く方が簡単かもしれない。
そう思いながら、来た道を戻った。
元いた場所で釣りを再開したが、糸が動かなかった。桃絵は川の流れを見ているうちに、スケッチブックを取り出していた。上流で見たのとはまた違う、川底の石の形と、水面の光の揺れ方を描き始めた。
そのうちに、気配がした。
「ももえ、何してるの?」
頭の上から声がした。ミリィだった。桃絵はもう驚かなかった。
「釣りです」
「竿、握ってないじゃん」
「描いてたら置いちゃいました」
気づくと竿を岩の上に置いていた。糸は川に垂れたままだった。
「釣りながら絵を描けるの?」
「描けないことはないですが……まだ釘しか釣れてないです」
桃絵は古釘を指した。
「それ、川の匂いする」
「川の?」
「うん。水の奥の匂い。川の魚もこの匂いするよ。動かない人のそばに来るんだって。じっとしてれば来るかも」
「逆に今、私がジタバタしてましたか?」
「そうだね。じっとしてたね。でも水に気配を送ってなかった」
「水に気配?」
「川の精霊が見てるの。釣り人が、川を気にしてるかどうか。ちゃんと川を見てる時は、魚を寄越してくれることがある」
「さっきまで川底の石を描いてたんですけど、それは川を見てたことになりますか?」
ミリィはしばらく考えた。
「なるかも。一応、川を見てたから」
「じゃあ、今日の川底の絵を川の精霊に見せればいいですか?」
「あはは。見せてみたら?」
ミリィは微笑む。
桃絵はスケッチブックを川面に向けた。本気でやっているわけではなかったが、なんとなく、ちゃんと向けた。
その時、糸が動いた。
「あっ」
竿をつかんで引いたら、小さな魚がかかっていた。光った体が水面ではねた。桃絵は慌てて竿を持ち直して、魚が逃げないようにしながら岸に引き寄せた。手が滑った。竿が傾いた。体勢を立て直そうとして、桃絵は川岸の石の上でつるりと滑った。
「わっ」
転ばなかった。奇跡的に転ばなかった。しかし片足が川の縁に入って、靴の先端が濡れた。
魚は逃げなかった。
桃絵は釣り上げた魚を手の中で確かめながら、じわじわと濡れていく靴の先端を感じていた。魚を釣るとはこういうことなのか、と思った。体を張って獲る食料。ガルドが「二回より多い」と言って桃絵に任せた気持ちが、今なら少し分かる。釣りは確かに技術ではなく、運と根気と、多少の犠牲を伴う作業だ。光った体が水面ではねた。
「釣れた!」
「ももえ、見せたら釣れた!」
「偶然ですよ」
桃絵はそう言いつつも、でも少し嬉しかった。
「偶然じゃないかも」
ミリィは真剣な顔で言った。
「川の精霊、お礼したんだよ、きっと」
「スケッチブックを川に向けたことへのお礼で、魚が釣れる。すごい話だね」
「すごくない?」
ミリィは得意そうに言う。
「川の精霊って親切だから、誰かが川を見てくれたら喜ぶんだよ」
「じゃあ、毎回川底の絵を見せたら魚が釣れますか」
ミリィはちょっと考えてから答えた。
「毎回は難しいと思う。川の精霊も、同じもの何度も見せられたら飽きるかもしれないから」
「飽きるんですか、精霊も」
「精霊も飽きる! ワタシだって、毎日同じものを見てたら飽きる」
「ミリィは何を見るのが飽きないんですか」
「ももえのスケッチブック! 毎回違うから!」
ミリィは即答する。
桃絵はその答えを聞いて、少し笑った。嬉しかったのは、ミリィが「飽きない」と言ったのが、お世辞ではない声だったからだ。精霊は嘘をつかない、とルカが言っていた通りだ。
夕方、桃絵が三匹の魚を持って畑に戻ると、ガルドは「三匹か」と言って、特に感動した様子もなく受け取った。
「次は五匹頼む」
「次があるんですか」
「また頼む」
桃絵は少し脱力した。でも、ガルドがこういう人だと分かっているので、嫌ではなかった。ガルドが「また頼む」と言うのは、「信頼してる」ということだと、この三週間で分かっていた。
「頑張ってみます」
「頑張ることでもない」
ルカと同じ言葉だった。
この村の人たちは、「頑張ること」と「ただやること」の区別に、やけに正確だ、と桃絵は思った。
帰り道、桃絵はミリィを見つけた。川沿いの木の枝の上で、何かをじっと見ていた。
「何見てるんですか?」
「ももえ! 帰ってきた!」
ミリィは羽根をパタパタさせながら飛んで来た。
「釣れたの? 魚!」
「三匹」
「すごい! すごいね!」
ミリィは目を丸くした。
「精霊は魚を釣ったことがない!」
「精霊は手が小さいから、竿を持てないですよね」
「持てない! でも、川の精霊に聞いたら、たまに魚を水面に出してあげることは出来るって!」
「それはもはや釣りじゃなくて受け取りですよ」
「いい?」
ミリィは真剣な顔で聞いた。
「次に川に行く時、川の精霊に頼んでみようか?」
「それは……ちょっと待って下さい。精霊から魚をもらったのを『釣れた』と言っていいか、少し考えます」
「考えること?」
ミリィは首をかしげた。
「魚が手に入ればいいじゃない」
「ガルドさんへの報告が、気持ち的に」
「むずかしいね、人間は」
深い台詞だったが、三センチの精霊の口から出てくると少しおかしかった。
「いつか頼むかもしれないので、その時は川の精霊によろしく伝えておいて下さい」
「伝えとく!」
ミリィは元気よく言う。
「あ、川の精霊の名前、教えようか?」
「長い名前ですか」
「長い!」
「カリミルドーン系ですか」
「もっと長い!」
「じゃあ、今日は聞かなくていいです」
「正解!」
ミリィはそう言って、また木の枝に戻っていった。何が正解なのかはよく分からなかった。
☆
この世界の生活に慣れてくると、少し変なことも出てきた。
村の道のことを、桃絵は「石畳のメイン通り」「川沿いの細い道」「作業場への道」と自分の中で呼ぶようになっていたが、ある朝ルカに「あっちの道ってなんて言うんですか」と聞いたら「道」と言われた。一本しか道がない方向だったので、それ以上の名前はなかったらしい。それ以来、桃絵は質問の前に「これには名前がない可能性がある」と一度確認するクセがついた。
ニワトリ三羽については、少し事情が分かってきた。三羽は毎朝ほぼ同じ時間に石畳の同じ場所に現れ、ほぼ同じ位置に並ぶ。
村人が通ると、目で確認して、それから無視する。桃絵が通ると、目で確認して、それから無視する。完全に同じ扱いで、少し嬉しいような、複雑なような気持ちになった。
次の日の朝、桃絵は畑の端で、見慣れない花を見つけた。
背丈は膝ほど。茎が細く、花びらは六枚で、中心が深い紺色、端に向かうにつれて白くなっていく。グラデーションが、夜明けの空に似ていた。もっとよく言えば、夜が朝に変わる、その境界線の色だ。紺が白になるのではなく、紺と白の間にある言葉にならない色が、花びらの上に宿っていた。
「これ、何ていう花ですか?」
桃絵はガルドに尋ねた。
ガルドは作業の手を止めて、花を見た。
「……ルーヴィ、だ」
「ルーヴィ」
「そう。昔は畑の隅によく生えてた。野生の花だよ」
「珍しいんですか?」
「珍しくはないが」
ガルドはそう言って、少し間を置いた。
「最近、あまり見なくなった気がするな」
その言い方が少し気になったが、ガルドはすぐに作業に戻った。桃絵はもう少し聞こうとして、ガルドの背中がすでに完全に土の方を向いていたので、やめた。ガルドは話し終えると本当に終わりなのだ。
桃絵はスケッチブックを取り出して、ルーヴィを描いた。グラデーションは鉛筆では表現しきれないが、色のメモを書き添える。
紺色から白。深い青ではなく、夜明けに近い青。夕方ではなく、朝の終わりの色。
描きながら、指先に何かが通る感覚があった。いつもの、ピリ、という感覚。最初にリネラで夜空を描いた時に感じたものと同じだ。
少しずつ分かってきていた。この感覚は、描いているものと何かが繋がっている時に生まれる。見ながら描いている時ではなくて、見たものが自分の中を通って線になる時。
描き終えて、桃絵は花を見た。
花びらが、心なしか、さっきより色が鮮やかに見えた。
気のせいかもしれない。でも、桃絵はなんとなく、スケッチブックのページを指でそっと押さえた。
ここに描いたから、覚えた。
そう思ったら、少しだけ気持ちが落ち着いた。
描けた、という手応えより先に、あった、という気持ちが来た。この花が、この色で、今日ここにあった。
桃絵がここを通って見た。線を引いた。それが、今スケッチブックの中にある。小さいけれど確かな、その積み重ねが、桃絵の中で少しずつ形になっていた。
その日の午後、ミリィが珍しく浮かない顔で現れた。
桃絵が作業場の横の石段に腰かけてスケッチをしていると、ミリィは肩ではなく膝の上に座った。いつもなら頭の上に飛んで来てわあわあ言うのに、今日は静かだった。
「どうしたの?」
「……ちょっとね」
「何かあった?」
「川沿いの古い木、知ってる? ワタシの家の近くの、大きなやつ」
「白い幹の木?」
「そう。昨日から、葉の色が変なの」
「病気?」
「違う」
ミリィは首を振った。
「色が、薄くなってる。緑が……抜けていく感じ。でも枯れてるわけじゃない。葉はまだ生きてる。なのに、色だけ消えていく」
桃絵はスケッチブックを膝に置いて、ミリィを見た。小さな精霊は、いつもより目が暗かった。
「色が消えていく、って。前もそういうことがあったの?」
「昔、話を聞いたことがある。精霊の古い言い伝えで。この世界は、人が覚えていることで形を保ってるって。覚えられなくなると、少しずつ色が抜けて、最後には形が分からなくなるって」
「消えちゃうってこと?」
「消えるというより……忘れられる、感じ」
桃絵は川の方を見た。ここからは古い木は見えないが、水の音が聞こえる。
「その木、誰かが忘れたってこと?」
「分からない。でも、最近、なんとなく気になってたの。村の花の色も、ちょっとずつ薄いような。畑の作物も。気のせいかもしれないけど」
ガルドが「最近、あまり見なくなった」と言っていたルーヴィの花を、桃絵は思い出した。
「村長には言った?」
「言った。村長は知ってるみたい。でも、あまり詳しく話してくれなかった」
ミリィはぷっくりとした手を膝に置いて、黙った。珍しい沈黙だった。
「ももえは、今日もルーヴィ描いてた?」
「うん」
「良かった。描いてくれると、少し安心する」
その言葉が、桃絵の胸に引っかかった。
自分の絵が、何か役に立っている。
その感覚は、コンクールで感じたものとは全然違う、温かい種類の手触りだった。
夜、桃絵は村長を訪ねた。
村長は台所で薬草茶を入れていた。
「話があります」
そう伝えると、静かに椅子を引いてくれた。
「ミリィから聞きました。色が薄くなっていること」
「……そうか」
村長は驚いた様子はなかった。
「知ってたんですか!?」
「気づいてはいた。ただ、原因がはっきり分からなかったから、あまり言わないようにしていた」
「原因は?」
村長はお茶を二つ並べて、一つを桃絵に差し出した。それから、ゆっくりと話し始めた。
「この世界では、物事は覚えられることで存在し続ける。ミリィも言ったかもしれないが、忘れられたものは形を失う。星もそうだし、花もそうだし、人の記憶もそうだ」
「それが、今、起きてるんですか?」
「少し前から、村人たちが何かを忘れがちになっている。ルーヴィの花の名前を忘れた。川の曲がり角の名前を忘れた。昔話の最後の場面を忘れた。一つひとつは些細なことだ。でも、小さな忘れが積み重なると、世界の色が少しずつ落ちていく」
「なぜ、忘れるようになったんですか?」
「それが分からない。ただ、こういうことは以前にもあったと、古い記録にある。その時は、描く人が来て、描き留めることで、記憶が戻ったと書いてある」
桃絵は黙って村長を見た。
「それが……私のことだと言いたいんですか?」
「言いたい、というより、そう思っている。君がここに来てから、一部の花の色が少し戻ったという話を聞いた。ガルドが言っていた。ルーヴィが、昨日より色が鮮やかだ、と」
桃絵は今朝のスケッチを思い出した。描いたあと、花びらの色が鮮やかになったように見えた、あの感覚。
「私の絵が、何かを変えているということですか?」
「変えている、というより、気づかせているのかもしれない。覚えさせているのかもしれない。絵というのは、見た人が、そこに描かれたものを覚え直すきっかけになる。名前を思い出す。形を確かめる。あったことを認める」
「でも、そんな大袈裟なことを……私はただ、見たものを描いてるだけで」
「それで十分だよ。大袈裟でなくていい。ただ、描き続けてほしい。君が見たものを、君の線で、紙の上に留め続けてほしい」
村長は穏やかな声で言う。
桃絵は、お茶の湯気を見ていた。
誰かに必要とされている。
その感覚は、ずっと欲しかったものだった。
コンクールで賞が取れなくて、先生に「よく描けてた」と言われるだけで、自分の絵が誰かの何かになっていると感じたことがなかった。
それが今、ある。
でも、なぜか、胸の奥にわずかな重さも生まれていた。




