第三章 夜空の絵と、小さな光
リネラでの日々は、驚くほど穏やかに過ぎていった。
最初の一週間は、あっという間だった。
四日目に、村長に言われて、村の人たちに挨拶して回った。
桃絵は「スケッチブックを持った旅人」として紹介された。
畑の夫婦からは「手が空いたら来なさい」と言われた。
木工の作業場にも、通うようになった。
「木工はいつから?」
「八歳」
「今は一人で?」
「一人で」
「難しくないですか?」
「難しい」
それでも、ルカの手は止まらない。
小さな引き出しが、分解され、組み直される。
桃絵は、その動きを描いた。
ルカは、スケッチを見て、
「合ってる」
と言った。
桃絵は、それで十分だった。
それからも、スケッチを見せると、ルカはいつも「合ってる」と言う。
「ルカって、ほかにも褒め言葉ってありますか?」
「ある」
「どんなやつですか?」
「……好き」
「あとは?」
ルカは少し考えた。
「いい木目」
「それは絵への言葉じゃないですよね?」
「桃絵に言う言葉じゃなくて、木に言う言葉だ」
桃絵は少し笑った。ルカの語彙は少なくても、言葉は正確だった。
今日で、この世界に来てから八日目だった。
朝、桃絵は畑を手伝うことにした。
そこへ行く道の途中には、三羽のニワトリがいた。
いつも同じ場所に並んでいて、桃絵が近づくと道を塞ぐ。
四日目に、桃絵は作戦を立てた。
台所の棚からパンの切れ端を拝借して、手のひらに乗せて差し出す。
「おはようございます」
三羽は一斉に桃絵を見た。
そのあとパンを見て、また桃絵を見た。
一羽がゆっくり近づく。
桃絵は息を止めた。関係構築の第一歩だ。
一羽はくちばしを構え??
パンを取ることなく、ものすごいスピードで走り去った。
桃絵は手のひらを見た。パンはそのままだった。
「……何だったの」
残り二羽は何事もなかったように前を向いていた。
その後数日、少しずつ変化はあった。
ある日は、桃絵の顔を二秒ほど見続けた。進歩だ、と桃絵は思った。二秒は、二秒だ。
別の日には「コッコッ」と二回鳴かれた。桃絵も思わず「コッコッ」と返した。三羽が同時にこちらを見たので、桃絵はすぐに後悔した。
六日目の朝、「おはようございます」と言うと、一羽がほんの数センチ横にずれた。
桃絵は心の中でガッツポーズをした。
そして八日目。
一羽がゆっくり横へ歩いた。ほんの少し、隙間が出来た。
「行っていいですか?」
一羽は首をかしげた。
桃絵はゆっくり歩き、三羽の脇を通った。
一羽がローファーの先をちらりと見たが、それだけだった。
通り抜けた。
桃絵は振り返らずに歩いた。
十歩ほど行ってから少しだけ振り返ると、三羽はまた元の位置に並んでいた。
夫婦の畑。
黒くて湿った土。
見慣れない作物。
休憩の合間に、スケッチブックを開く。
「絵を描くの、好きなのかい?」
畑の主人、ガルドが問いかけた。
「好きです」
「商売になるのか」
「なりません」
ガルドは、少し考えてから言った。
「畑も似たようなもんだ。好きな気持ちが続く方が、育つ」
桃絵は手を動かした。
鉛筆の音だけが、しばらく続いた。
「よく見てるな」
ガルドはそう言って、作業に戻った。
☆
その日の夕方、桃絵はルカに報告した。
「今日、通してもらいました」
「そうか」
ルカは手を止めずにそう言った。
「六日で一羽が数センチずれて、八日で通してもらえました」
「それは進歩だ」
「そうですか?」
「たぶん」
桃絵は少しだけ肩を落とした。
あとでミリィに話すと、
「ニワトリは精霊よりプライドが高い」
と断言された。桃絵は首をかしげた。精霊にプライドがあるのかどうかは、まだよく分からなかった。
そのあと、桃絵は橋の上に向かった。
川の流れを描こうと思った。
昼間から何度も見ていた景色だった。
橋の欄干。川。向こう岸の木。
描けそうな気がしていた。
スケッチブックを開く。
鉛筆を紙に当てる。
最初の線は、すぐに出た。
橋の形。欄干。川の岸。
そこまではよかった。
でも、そのあとが続かなかった。
水の線を引く。
違う。
消す。
もう一度引く。
違う。
桃絵は少し首をかしげた。
川は、ただ流れているだけだ。でも紙の上では、流れてくれない。
線が固まってしまう。
もう一度描く。
今度は少し曲げる。それでも、動かない。
ただの模様になってしまう。
「……難しい」
桃絵は小さく言った。
川を見た。光が揺れている。同じ場所なのに、形が変わる。同じ水なのに、色が変わる。紙の上の線は、変わらない。
桃絵は鉛筆を止めた。
しばらく川を見ていた。
風が少し強くなった。水面が細かく揺れる。その動きを目で追う。
さっきより、形がよく見える。流れはまっすぐじゃない。
少しずつ、石に触れて曲がっている。桃絵はもう一度鉛筆を動かした。
さっきよりゆっくり。
それでも、やっぱり違う。
水の感じが出ない。
桃絵はスケッチブックを閉じた。
「今日は、だめですね」
誰に言うでもなく、そう呟いた。
橋の上には、川の音しかなかった。
桃絵は立ち上がった。
スケッチブックを抱える。
橋の欄干をもう一度見て、川ももう一度見た。
さっきより、よく見える気がした。
でも、描ける気はしなかった。
「また今度」
桃絵はそう言って、橋を離れた。
描けない日もある。
それは、知っていた。
コンクールの絵でも、そうだった。
うまくいく日と、いかない日がある。
ただ、今日は少し違った。
描けない理由が、少しだけ見えた気がした。
川は、形ではない。動きだ。
桃絵は歩きながら、そう思った。
☆
その夜、桃絵は窓のそばに座っていた。
スケッチブックは膝の上にある。まだ開いていない。
窓から、村の夜の音が入ってくる。
川の音。遠くで、風が木の葉を揺らす音。
それから、ときどき聞こえる小さな足音。
誰かが石畳を歩いているらしい。
桃絵は、しばらくそれを聞いていた。
昼間は、あまり気づかなかった音だった。
夜になると、全部が少し大きく聞こえる。
桃絵はスケッチブックを開いた。
鉛筆を持つ。少し迷った。
「……音って、描けますかね」
小さくつぶやく。
答えはない。
桃絵は、とりあえず線を引いた。
川の音。
まっすぐな線ではない。
少し揺れる。
それから、風。
短い線をいくつか重ねる。
葉が触れ合う音を思い出しながら描く。
足音。石畳の上の、小さなリズム。
点をいくつか並べてみる。
少しだけ離れて見た。
「……違いますね」
音は紙の上で、ただの線になっていた。
川の音も、風の音も、ただの形だった。
桃絵は少し笑った。
「難しいですね」
鉛筆を置く。
窓の外を見る。
川の音は、まだ続いている。
風も、同じように吹いている。
描けなかったけれど、少しだけ分かった気がした。
この村には、音がある。
昼よりも、夜の方がよく聞こえる音だった。
桃絵は、もう一度スケッチブックを開いた。
今度は、空を描こうと思った。
☆
九日目の夜、桃絵は最初の不思議な体験をした。
村には街灯がなかった。
家の窓から漏れる灯りと、月の光だけが道を照らしている。
桃絵は眠れなかった。
窓を開けると、空が思っていたより暗い。
そして、星が多かった。
天の川が、本当に川のようにかかっている。
桃絵は窓の縁に腰掛け、しばらくそれを見ていた。
夜風が冷たく、草の匂いと川の音がした。
いつの間にか、スケッチブックを開いていた。
描こうと思った。
ただ、この空を紙の上に残したかった。
鉛筆が紙に触れた瞬間、指先にかすかな緊張が走る。
桃絵は描き続けた。
天の川の流れ。
星の配置。
見慣れない星座。
一時間ほどして、窓の外を見た。
ページの上で、星が一つ、光った。
ほんの一瞬だった。
桃絵は、そのページを見つめた。
何かが起きた。
それだけは、はっきりしていた。
桃絵は、スケッチブックを閉じなかった。
☆
翌朝、ミリィが桃絵の窓の外に来ていた。
「昨日、何か描いた?」
「描いた。夜空を」
「やっぱり」
ミリィは羽根をパタパタさせながら、少し興奮した様子だった。
「昨日の夜、村長のところで光ったの」
「何が?」
「星。古い絵の中の。エルデさんがずっと前から持ってる絵があってね、その中の星が一つだけ、ちょっとだけ明るくなったって」
桃絵は黙って考えた。
「関係ある、と思う?」
「多分。でも、なんでかは分からない。精霊も分からないことはある」
「絵が星を明るくした、ということ?」
「逆かも。ももえが星を描いたから、星が『あ、見てくれた』って思ったのかも」
見てくれた。その表現が、桃絵には少し不思議だった。星は、見てもらいたいと思うのだろうか。
「ミリィは、星が好き?」
「好き。でも、悲しくなることもある」
「なんで」
「星ってね」
ミリィの声が少し低くなった。
「たまに消えるんだよ。この世界の空で。突然、一つなくなる。誰も気づかないこともある。でも確かに消える」
「そんなことが……」
「忘れられたものは消えやすいって、昔の精霊が言ってた。この世界では、誰かに覚えてもらえてるものは長く残るの。物でも、場所でも、星でも」
桃絵はそれを聞いて、昨夜のページを開いた。星のスケッチ。
「描いておくことが、覚えることになる?」
「なるかも。だから、ももえが昨日描いたことで、何かが少し元気になったのかもしれない」
桃絵は鉛筆で、左下の見慣れない星座に、そっと名前を書いた。
三角座。
その名前を、空が覚えた気がした。
「ももえ、何書いた?」
「名前。自分でつけた」
「いい。名前をつけることは、この世界では大事なことだよ。覚えてあげることだから」
「三角座って言うんですけど。三角形が二つ重なってるから」
ミリィは少し考えた。
「……三角が二つで、三角座?」
「そうです」
「三角座、か」
ミリィは繰り返した。
「うん、分かりやすい。精霊は難しい名前が覚えられないから、助かる」
「精霊って星座の名前を覚えるんですか?」
「知ってるものもある。でもここの星座は、みんな長くて複雑な名前だから」
「どんな名前ですか?」
「ええと……あのひときわ明るいやつの星座の名前は、カリミルドーン・リネラ・ヌレカという名前」
「それは確かに長い」
「三音節超えたらワタシはもう覚えられない。だから、ももえが三角座って名前をつけたの、すごく好き。ワタシもそれで呼ぶ」
「よかった」
桃絵はちょっと照れた。名前をつけた星座を、精霊に「好き」と言ってもらえるのは、初めての体験だった。コンクールで評価されたときとも、先生に「よく描けてた」と言われたときとも、違う感じがした。
「一つのことは解決しました」
「何が?」
「私が描いた絵が、少しでも役に立てたこと。名前を一つ、簡単にしたので」
ミリィは一瞬きょとんとした顔をして、それから笑い出した。小さな笑い声が、朝の空気に混じった。
「ももえは不思議」
「褒めてますか、それ」
「褒めてる!」
桃絵は少し安心した。
「ねえ、ももえ」
「何ですか?」
「もし、ももえが帰ったあとも、ワタシがたまに三角座を見たとして、ももえが名前をつけた星座を見てたら、ももえのことを思い出す。それって、どっちにとっていいこと?」
桃絵は空を見た。昼間だから三角座は見えない。でも、ある。
「どっちにとっても、いいと思います」
「そうだよね」
ミリィは、なんか満足そうだった。
☆
その夜もまた、桃絵は眠れなかった。
今度は不安からではなかった。空が気になって、目が冴えていた。
窓を開けると、昨日と同じ星空だった。
でも今夜は、少し違って見えた。
昨日は「多い」という感想しかなかった。
でも今夜は、一つひとつの星の形が違って見えた。
明るさが違う。位置が違う。集まり方が違う。
昨日描いた夜空のページを思い出した。あのページに描いた星と、今夜見ている星が、頭の中で重なっていく。この星は昨日も見た、あれはまだ描いていない、あの一群は角度が変わった。
一晩で空の見方が変わった。
桃絵はその事実に少し驚いた。
スケッチブックを開いた。
今夜は、昨日と少し違う星を描こうと思った。昨日は全体を描いた。今夜は、一つだけを追いかけてみたい。
左下の星座だ。三角形が二つ、ずれている形。
この星座にも、名前をつけたい気がした。
鉛筆を持って、ページを開いた。
夜風が、?を冷たく撫でた。村の建物が暗く沈んで、空だけが白々と明るかった。川の音が、少し遠く聞こえる。昼間は気にならなかった虫の声が、夜になると静かに増えていた。
描き始めた。
今夜は描こうと決めて描いているわけではなかった。ただ、このページを開いて、その左下の星座の形をなぞってみたかった。手がそう動いた。
線を引いた。また引いた。一つの星から次の星へ、点を繋いでいく。三角形の一辺、二辺、そして頂点。ずれた二つ目の三角形。
指先に、今までとは少し違う感覚があった。
ピリ、ではなくて、もっと柔らかい感触。じんわりと、手の平に温もりが広がるような。
気のせいかもしれない。夜の冷たい風の中だから、余計にそう感じるのかもしれない。でも、桃絵はその感触に気づきながら、描き続けた。
一時間ほど描いて、桃絵は窓の外を見た。
ページに描いた星が、一つ、光っていた。
引き出しの蓋を閉めるように、光は消えた。
桃絵は目をこすった。
見間違いかもしれない。
紙が光るわけがない。
でも、確かに見た。
ページの上で、ほんの一瞬、瞬いた。
桃絵は少しの間、そのページを見つめていた。
何かが起きた。でも何が起きたのか分からない。
ただ、怖くなかった。驚いてはいたが、怖くはなかった。むしろ、少し嬉しかった。自分が描いたものが、何かに気づいてもらえた気がして。
桃絵はそっとページに「ずれ三角座」と書き添えた。
形から取った、そのままの名前だった。
☆
数日後、村長のエルデが桃絵を呼んだ。
夕方の台所で、二人きりだった。
「ここでの生活は、慣れてきたかい」
「はい。みなさんが親切で」
「そうか。君はよく人を観察している。絵描きの目だね」
「絵は……好きです。ただ、上手いかどうかは分からなくて」
「上手い絵とは何かね」
村長は急いでいるふうではなく、ただ静かに問いかけてきた。
「評価された絵、でしょうか。コンクールで賞を取った絵、とか」
「なるほど」
「でも私は、評価されたことがなかったんです。入選はしても、賞にはならなくて。だから、自分の絵に意味があるのか、ずっと分からなくて」
言いながら、少し恥ずかしくなった。
「意味、か」
村長は一度目を伏せた。何かを考えているのではなく、どこか遠くを思い出しているような顔だった。
「わしもかつて、描いていた」
「え?」
桃絵は顔を上げた。
「昔の話だよ。もう鉛筆も持てなくなった」
村長は手を見せた。指に節があって、年季の入った手だった。
「若いころ、外から来た人の絵を見た。それがきっかけで、描くようになった。でも大して上手くなかった。やめてしまったのかもしれない」
「やめた、んですか?」
「忘れた、のかもしれない」
村長は言い直した。
「人は、評価されないことを続けるのは難しい。疲れてしまう。わしもそうだった」
桃絵は黙っていた。
「でも、この村で長く生きてきて、気づいたことがある。役に立たないように見えるものが、じつは何かを支えていることが多い。星もそうだ。触れない。持ち帰れない。食べられない。でも、それがなければ、夜が随分と寂しくなる」
「夜空みたいな、ということですか?」
「絵もそうかもしれない。君の夜空の絵を見た夜、古い絵の星が光ったのを、ミリィから聞いた。あれは偶然かもしれない。でも偶然だとしても、意味がないとはわしには思えない」
桃絵は視線を落とした。
「意味のある絵を描こうと思ったことがあります。コンクールで評価されるために、上手く見える絵を描こうとして。でも、そうするとどんどん楽しくなくなって、どんどん絵が硬くなって」
「それは、誰かのために描こうとしたからではなくて、評価のために描こうとしたからじゃないかね」
「……どう違うんですか?」
「誰かのために描くのは、その人が喜んでいる顔が見たいということだ。評価のために描くのは、自分が正しいと認められたいということだ。同じように見えて、全然違う」
「ルカが今日、棚を作っていました。誰のために作るか聞いたら、村の入口の老婆のためだと言ってました。その人が使ってくれるのが嬉しいって。それが、評価じゃなくて誰かのため、ということですか?」
「そういうことだと思う。もっとも、それも一つの答えに過ぎないが」
村長は椅子から立ち上がって、窓の外を見た。
「君が描く夜空の絵が、この村の誰かにとっての星になるかもしれない。たとえ世界を変えなくても、誰かの夜を少しだけ明るくするかもしれない。それで十分だと思えるかどうかは、君が決めることだがね」
桃絵は黙っていた。
十分、かどうか、まだ分からなかった。
でも、なぜかそれが嫌な問いではなかった。
夕暮れが窓を橙色に染めていた。桃絵はスケッチブックを膝に置いて、その色を見ていた。描きたいと思った。
評価のためでなく、誰かのためでもなく、ただ今この瞬間の色が、消えてしまう前に、紙の上に留めておきたかった。
鉛筆を取り出して、色のメモを書いた。
橙。でも赤ではない。黄色が混じった柔らかい橙。夕暮れの終わりに近い色。
窓の外で、ミリィが一匹の蛍のように飛んでいた。
この村での最初の二週間が、静かに終わろうとしていた。




