第二章 リネラの朝(前編)
翌朝、ニワトリの声で目が覚めた。
木の天井が、近い。薄いカーテン越しに、白い光が差し込んでいる。
ぼんやりしたまま、しばらく天井を見ていた。
――ああ、そうだ。
思い出したところで、急に動く気にはなれなかった。
窓を開けると、冷たい空気が流れ込む。
石畳の道を、昨日と同じ老婆が歩いていた。
鶏が三羽、道の真ん中に並んでいる。
昨日は一羽だったのに。
桃絵は、そのまま少し首を傾けて眺めていた。
物を見る時、いつもそうしてしまう。
描きたい、と思う前に、今日は通らなくていいかもしれない、と考えた。
三羽が揃って首を動かす。
「……なんで揃うんですか?」
答えはない。
洗顔台の水は、思ったより冷たかった。
それだけで、夢ではないと分かる。
鏡に映る顔は、いつもと大きく変わらない。少し眠たそうなだけだ。
一階に降りると、パンとスープが置いてあった。
一口飲んで、意外に美味しくて、少しだけ安心する。
棚の端に、畳まれた服があった。
大きめのシャツとズボン。
しばらく迷ってから、それに袖を通した。
動きやすい。
食事を終えて、スケッチブックを抱え、村に出る。
二日目の朝は、そんなふうに始まった。
昨日の夜空のページ。月と星のスケッチ。薄い鉛筆の線で、右上の角に「眠れない夜」と小さく書いてある。
この絵がここに連れてきた、と村長は言っていた。
なぜ、この絵だったのだろう。コンクールに出した絵ではなくて、誰にも見せるつもりのなかった、ただ好きで描いただけの絵が。
リネラの村は、思っていたより小さかった。
石畳の道を歩くと、店先や作業場の前で、人がそれぞれの朝を過ごしている。
桃絵を見ると、軽く目を向けるが、驚く様子はない。
旅人は、珍しくないらしい。ただし、村に長く留まる人は少ない。
石畳の感触が、足元から伝わる。靴が、少し軽い。
村の人たちの靴は、どれも重そうだった。桃絵は、自分のローファーを一度だけ見下ろしてから、視線を前に戻した。
道の真ん中に、鶏が三羽まだいた。
横一列に並び、微動だにしない。
桃絵が足を止めると、三羽のうち一羽が、こちらを見た。目が合う。
スケッチブックに、手が伸びかける。
「コッ」
その一声で、三羽は一斉に散った。
――今じゃない。
そう言われた気がして、手を引っ込めた。
桃絵は石畳の道を少し歩いたところで立ち止まった。
朝の光が、思ったより白かった。
日本の朝より、少しだけ淡い。空は青いのに、光は柔らかい。
桃絵はスケッチブックを開いた。朝の村を描いてみようと思った。
屋根。石の壁。道。形はすぐに描ける。
でも、少し違和感があった。
桃絵は顔を上げた。
屋根の赤が、思っていたより薄い。
石の壁は灰色なのに、ところどころ青い。
光が当たっている部分は、少しだけ金色に見える。
「……朝の色」
桃絵は小さくつぶやいた。
鉛筆を少し動かす。線だけでは足りない気がした。
影の部分を、少し濃くする。光の当たるところは、線を減らす。
それだけで、少しだけ朝らしくなった。
桃絵はもう一度村を見た。
朝の村は、静かだった。
人も少ない。煙が一つ、屋根の上に細く上がっている。
その色が、空に溶けていた。
桃絵は煙も描いた。細い線。途中で少し揺らす。
少し離れて見た。まだ足りない気がした。
でも、さっきよりは近い。
「朝って、こんな色なんですね」
桃絵はそう呟いて、スケッチブックを閉じた。
朝の村を、もう一度見た。
少しだけ、色が増えた気がした。
朝のスケッチを終えると、また道を歩き進む。
太陽はまだ低い。石畳の上に、長い影が伸びていた。
桃絵は少し足を止めた。
村の家は、石で出来ている。
屋根は赤く、壁は灰色。
でも、影は全部同じ色ではなかった。
ある影は少し青い。別の影は、ほんの少し紫に見える。
桃絵は目を細めた。
影は黒だと思っていた。でも、この村の影は黒ではない。
空の色が少し混ざっている。石の色も混ざっている。
桃絵はスケッチブックを開いた。
影の形を描く。屋根の三角。井戸の丸。人の影。
でも、紙の上ではただの暗い線になってしまう。
「……違いますね」
桃絵は小さく言った。
もう一度影を見る。
同じ形でも、場所によって色が違う。
光の当たり方で変わる。影は、光の形なのかもしれない。
桃絵はスケッチブックを閉じた。
村をもう一度見た。石の壁。赤い屋根。その横に伸びる影。
影があるから、形がよく見える。
桃絵は少しだけ笑った。
「影も、描かないといけませんね」
そう言って、また歩き出した。
雑貨屋の前で、白髪の女性が声をかけてきた。
「旅人の子かい?」
「はい」
「ヘルダよ。気が向いたら寄りなさい」
小柄なおばあさんだった。
白い髪を後ろでまとめ、細い目が笑うとさらに細くなる。
「私は、ももえです」
「ももえちゃんね!」
言った瞬間、覚えたように繰り返す。
「いい名前だわ。桃みたいで、丸くて可愛い」
「ありがとうございます」
「顔も桃みたいね」
「……そうですか?」
「ころんとしてて可愛い」
ヘルダは楽しそうに笑った。
桃絵は自分の頬をそっと触ってみた。無意識に、形を確かめるように。
ころんとしているのかどうかは、よく分からない。
ただ、ヘルダはもう完全に「桃」という顔で見ていた。
「そうだ。ももえちゃん、絵描きなんでしょ」
「はい」
「じゃあ、うちの棚の配置を描いてくれない?」
「棚ですか」
「最近物が増えてね。どこに何を置いたかすぐ忘れるの」
桃絵は少し考えてからうなずいた。
「それくらいなら」
「助かるわ!」
ヘルダの店の前は、村の中でも人がよく通る場所だった。
桃絵は店の前の石段に座り、膝の上にスケッチブックを置く。棚の配置図を描き終えたあと、なんとなくページをめくっていた。
川のスケッチ。
ニワトリ。
そのとき、声がした。
「それ、絵?」
顔を上げると、小さな男の子が立っていた。
八歳くらいだろうか。髪はくしゃくしゃで、片方の靴紐がほどけている。
「うん、絵です」
「見てもいい?」
桃絵は少し迷ったが、うなずいた。
「どうぞ」
男の子は石段に座り込んだ。
ページをのぞき込む。
「……あ」
小さな声を出した。
「これ、橋だ」
指差したのは、川の橋のスケッチだった。
「知ってる?」
「うん。よく渡る」
男の子は少し嬉しそうだった。
「すごい」
桃絵は少し驚いた。
「何が?」
「見たまんまだ」
男の子はしばらくページを見ていた。
それから、急に立ち上がる。
「ちょっと待って」
走っていった。
桃絵はスケッチブックを閉じずに待っていた。
しばらくして、男の子が戻ってくる。
今度はもう一人、女の子を連れていた。
「この人」
男の子が言う。
「村の絵、描いてる」
女の子は少しだけ警戒していた。
でも、スケッチブックを見るとすぐに顔が変わった。
「……ほんとだ」
石段の横に座る。
「これ、井戸」
「うん」
「うちの前の井戸」
女の子は少し嬉しそうだった。
桃絵はページをめくった。
ニワトリのスケッチ。
二人が同時に笑った。
「このニワトリ、知ってる!」
「朝いるやつ!」
「道ふさぐやつ!」
桃絵も笑った。
「そう、あの三羽」
男の子はしばらく絵を見ていた。それから、
「これ、くれる?」
お願いされ、桃絵は少し考えた。
ニワトリのページ。
「いいよ」
快くページを切り取る。
男の子に手渡した。
男の子はそれを持って、しばらく眺めていた。
「ありがとう」
桃絵は少し驚いた。
「どういたしまして」
女の子も絵を見て言った。
「これ、うちの壁に貼る」
「いいと思う」
男の子は紙を大事そうに持っていた。
「また描いて」
「うん」
桃絵はうなずいた。
二人は走っていった。
紙を持ったまま、村の奥の方へ。
桃絵はしばらくその背中を見ていた。それからスケッチブックを閉じる。
コンクールの絵は、壁に貼られることはない。
でも今、あの絵はどこかの家の壁に貼られる。
桃絵は少しだけ空を見上げた。
悪くない気がした。コンクールに出す絵とは、まったく違うけれど。
選ばれなくても、残る絵はあるのかもしれなかった。
☆
木工の作業場の前を通った時、昨日の少年がいた。
台の上に木材を並べ、鑿を当てている。
桃絵は少し離れたところで立ち止まった。
鑿が木に入る音がした。
乾いた、短い音。
木の断面が、少しずつ形を変えていく。
削られた面に、細い木目が現れる。
きれいだ、と桃絵は思った。
気づくとスケッチブックを開いていた。
鉛筆を走らせる。
鑿を持つ手。
指の節。
木の断面。
削りかすの形。
線が自然に出てきた。形を追うというより、目で見た流れがそのまま紙に落ちていく感じだった。
しばらくして、鑿の音が止まった。
顔を上げると、少年がこちらを見ていた。
「……描いてる」
桃絵は鉛筆を止めた。
「すみません。勝手に」
少年は首を振った。それからスケッチブックを少し覗き込む。
「見たいんですか?」
「……」
「どっ、どうぞ」
桃絵は慌て気味に手渡した。
少年はページを見たまま、少し黙る。
「さっきと顔が違う」
「え?」
「木を見てる時」
桃絵は自分の顔を触った。
「変ですか?」
「変じゃない」
少年は少し考えてから、
「……いい顔」
それだけ言って、スケッチブックを返してくれた。
「あの、名前、聞いてもいいですか?」
桃絵は緊張気味に尋ねる。
少しの沈黙ののち、少年は名乗った。
「ルカ」
「ルカさん、ですね。私は、桃絵です。桃絵」
「桃絵」
その呼び方が、妙に自然だった。
「何を作ってるんですか?」
「棚の足」
材の断面が、きれいだった。
「……木目、まっすぐですね」
ルカの手が、一瞬止まった。
「見えるのか」
「はい」
「難しい」
そう言って、また削り始める。
鑿の音が、一定にならない。
木に合わせて、少しずつ変わる。
聞いているうちに、桃絵の指がむずむずした。
スケッチブックを、再びそっと開く。
何も言わずに、また描き始めた。
ルカの鑿が木に当たる音が、乾いた空気に響く。
その音に混じって、何か小さな羽音のようなものが聞こえた気がした。
木の葉が触れ合うよりも、もっと軽い音だった。
桃絵は一度だけ空を見上げたが、何も見えなかった。
桃絵は鉛筆を動かした。
ぽき、と小さな音がした。
芯が折れている。
どうしようか迷っていると、横から手が伸びた。
ルカが黙って鉛筆を削る。
「……折れてる」
削り終えた鉛筆が、桃絵の前に置かれた。
「あ、ありがとうございます」
桃絵がお礼を言うと、ルカは少しだけ視線を外した。
「……大事に使え」
一時間ほど経ったころ、ルカが手を止めた。
水を飲み、作業台の端に腰掛ける。
それから、桃絵の手元を指した。
「それ」
スケッチブックだった。
「見ていいか」
「あ、はい」
桃絵は差し出した。
隠すつもりはなかったが、少しだけ胸が落ち着かなかった。
ルカはページを開いた。
木の断面。
鑿を持つ手。
削りかす。
完成した絵ではない。
線の途中も残っている。
ルカは黙って見ていた。
長く感じた。
「練習みたいなものです」
桃絵が伝えると、ルカは顔を上げた。
「練習?」
「コンクールに出す絵じゃないので」
「コンクール?」
「絵の大会みたいなものです。上手い絵を選ぶやつ」
ルカはもう一度スケッチを見た。
それから言った。
「好き」
桃絵は一瞬、意味が分からなかった。
「え?」
「この絵」
ルカは指で線をなぞった。
「好き」
それだけだった。
ただ、好き。
桃絵はスケッチブックを見た。
コンクールの講評には、もっと長い言葉が並ぶ。
構図がどうとか、色彩がどうとか。
でも今の言葉は、それよりずっとまっすぐ届いた。
「……ありがとうございます」
桃絵は少し笑った。
自分の絵を見て「好き」と言われたのは、初めてだった。
講評は何度も読んだのに、そのどれよりも残った。
「……木工、続けるんですか?」
「続ける」
「好きだから?」
「好きだから」
その言い方が、まぶしかった。
ルカの作業を眺めているうちに、いつの間にか昼を過ぎていた。
鑿の音が途切れた、その瞬間だった。
小さな何かが桃絵の頭の上に降りてきた。
羽根の音がした。ふわっとした感触。頭の上で何かが揺れている。
「あ、見つけた!」
高い声がした。
桃絵が首をすくめると、何かが顔の前に降りてきた。
小さな影が桃絵のスケッチブックに降りた。
「ねえ」
桃絵は顔を上げた。
三センチほどの精霊が、ページをのぞき込んでいる。
「その絵」
「はい?」
「いい匂いする」
金色の目。
透明な羽根。
かわいい、と思ってしまって、どういう顔をすればいいのか分からなくなる。
「……こんにちは」
「こんにちは! 外から来た人! スケッチブック持ってる人! 会いたかった!」
「え、私に?」
「そう! ワタシ、ミリィ! あなたの名前は?」
「桃絵、です。木村桃絵」
「ももえ! いい名前! あのね、あなたの絵、見てたよ! 木のやつ! 良かった!」
「あ、ありがとう……ございます」
「精霊は正直だ」
ルカが、いつもの調子で言った。
「そうそう! 本当に良いと思った時しか、良いって言わないの!」
桃絵は、つい笑ってしまった。
「でも、さっき遠くから見てたって……」
「見てたのはね、絵の気配!」
ミリィはスケッチブックをのぞき込んだ。
しばらく黙って、ページを見ている。
それから、ふいに呟いた。
「……来た」
「何がですか?」
「じわーって」
桃絵は少し首を傾げた。
「じわー?」
ミリィは羽をパタパタさせながら言う。
「良い絵ってね、たまにこうなるの」
「どうなるんですか?」
「世界の方から、ちょっと近づいてくる感じ」
桃絵はページを見た。川と橋と、ルカの横顔。ただのスケッチだ。でも、その言葉だけで、少しだけ違って見えた。
「よく分かりません」
「ワタシもよくわかんない」
ミリィはあっさり言った。
「でも今、じわーって来た」
少し離れたところで、ルカが見ていた。
「……うん」
短く言う。
「来てる。じわー……」
ミリィは、桃絵の肩にひょいと乗った。
軽い。でも、羽根が少しだけくすぐったい。
「ほかのページも見ていい?」
「どうぞ」
ミリィは両手でページをめくった。
体は小さいのに、力は意外と強い。ページをめくるたびに、声が上がる。
「これ可愛い!」
「こっちは顔ある!」
「手、いっぱい!」
「授業中に描いたやつです」
「授業中?」
「……退屈だったので」
「そっか!」
ミリィは、次のページをめくった。
桃絵は、その様子を見ていた。
静かに選ばれる絵より、こんなふうに見てもらえるのも、悪くない。
「ねえ、ももえ」
「なっ、何ですか?」
「この猫の絵、この猫は実際にいた猫? それとも想像?」
「実際にいました。駅の近くにいた子で、触らせてくれなかったけど、近づいても逃げなかったので」
「なんで触らせてくれないの?」
「気分じゃなかったんだと思います」
「猫にも気分があるんだ! 精霊にも気分はある。でも大体いつも良い気分だよ」
「いつも?」
「嫌なことがあると、川の水に流してもらう。精霊は川の近くにいると気持ちが軽くなるから」
「いいですね。私にはそういう場所がなくて」
「ないの?」
「……スケッチブックを開いている時は、少し近いかもしれないです。描いてると、気持ちが軽くなることがある」
「じゃあ、ももえにとってのスケッチブックは、精霊にとっての川みたいなものだね。これ、好き」
ミリィは星のページで楽しそうに呟く。
「夜空の絵。なんか、静かで」
「眠れない夜に描いたやつです」
「眠れない夜に星を描く、いいね。ワタシもそういうの好き。役に立たないけど好き、って感じがする」
役に立たないけど好き。
その言葉が、胸に落ちた。
コンクールの一覧表が頭に浮かんで、すぐに消えた。
役に立たなくても好きでいていい、と初めて許された気がした。
ミリィは気にせず次のページをめくって、今度はルカがその日削った棒の形のスケッチが出てきた。
「これ何?」
「棚の足です」
「棚の足のスケッチ?」
「木の形が気になって」
ミリィはそれを見て、首を傾けた。それから、ルカの顔を見つめた。
「ルカ、好かれてる」
「……違います」
桃絵は即、否定する。
「似てるから描いたんでしょ」
「木目がきれいだから描いたんです」
「ルカの木目が?」
「ルカじゃなくて木の木目です」
「同じじゃん」
「全然違います」
ミリィは、桃絵の顔とスケッチを交互に見た。
「ふーん」
そのまま、ページをめくった。次に現れたのは、棚の配置図だった。
寸法のメモが、いくつも書き込まれている。
「これ何?」
「ヘルダさんに頼まれた棚の配置です。どこに何を置くかメモしておいてほしいって言われて」
「絵描きなのに棚の配置図を描いてる」
「頼まれたので」
「ももえ、断れないの?」
「断り方が分からなくて」
ミリィはしばらく桃絵を見た。
「やさしいね」
「やさしいんじゃなくて、断るのが怖いだけです」
「それも、やさしさの一種だよ」
ミリィはきっぱりと言う。
「違うような気がします」
ミリィはもうページをめくっていた。今度は桃絵が授業中に描いた手のデッサンが出てきて、
「手、何本もある!」
さっきと全く同じ反応だった。
桃絵はスケッチブックを初めて見せた時もこう言われたことを思い出した。ミリィの反応には、ブレがない。それが少し、おかしかった。
「ミリィって、同じページを見ても毎回同じこと言いますよね」
「同じだって覚えてないから! 精霊はね、良いと思ったことは毎回新鮮なの」
「そっか。じゃあ、ずっとこのページを見せ続けてもずっと驚いてくれるんですね」
「たぶん!」
桃絵はそれを聞いて、なんとなくホッとした。コンクールの審査員は一度しか見てくれない。一度見て、選ぶか選ばないかを決めて、次の絵に移る。
でもミリィは、同じページを見るたびに「良い」と言う。何度でも。それが正直な感想だから。
「ミリィ、一つ聞いていいですか?」
「なに?」
「ミリィって、嫌いなものはありますか?」
ミリィはパッと顔を上げた。
「ある!」
ミリィは迷わずに答えた。
「何ですか?」
「乾いた日が続くこと。川の水が減るから」
「それは嫌いと言うより、困る、ですよね」
「そっか……じゃあ、嫌いはないかもしれない」
「何でも好きなんですか?」
「そう!」
ミリィは元気よく答えた。
「精霊はね、基本的に世界が好きなの。嫌いなものが少ない。だから長く生きられる」
桃絵は、少しだけ羨ましくなった。
川のそばにいると、気持ちが軽くなる。
そんなふうに出来ているのは、いいなと思った。
「ももえは嫌いなものある?」
桃絵は少し考えて、答える。
「入選、という言葉が、少し嫌いです」
「入選って何?」
「落選でも合格でもない、真ん中の言葉。賞ではないけれど、落ちてもいない。ずっとそこにいる感じ」
「あー。それ、半分の場所にいることでしょ。精霊には理解出来る。川の岸みたいな場所だね。水でも陸でもない」
「川の岸は好きじゃないですか、ミリィ」
「好き! 両方いれるから!」
桃絵は、川の方を見た。さっきまで気にならなかった石や草が、少し違って見える。
「ミリィは、どこに住んでるんですか?」
「村の、川の近くの木! でもこっちにもよく来る。ルカが黙って作業してると寂しいから」
「うるさい」
ルカは困惑気味に言う。
「うるさくない! にぎやかなの!」
ミリィの主張に、桃絵はまた笑いそうになった。
それから、ふと思い出したように聞いた。
「ミリィって、ずっとその大きさなんですか?」
「そう! 精霊はずっとこのサイズ」
「小さくて、大変じゃないですか?」
「大変なことは特にない。でも、大きいものが早く動くとびっくりする。ルカが丸太を持ち上げる時、急にやるから怖い」
「分かる。ミリィが急に頭の上から降りてくるとびっくりする」
「お互い様!」
ルカとミリィが言い合っているのを見て、桃絵はなんとなく安心した。このやりとり、長く続いていそうだ。二人の間には、馴染んだ距離感があった。
「ももえって。さっきから、じっと見てるね」
「え、なにを?」
「ワタシを」
ミリィの金色の目がまっすぐこちらを向いていた。
「あ……ごめんなさい。失礼でしたか」
「失礼じゃないよ。精霊を見たことがある人、あんまりいないから。見てもいい」
「珍しくて。三センチくらいなのに、すごく…………」
「すごく、なに?」
「……整った顔をしてるなと思って」
ミリィはぱちぱちと目をしばたたいた。
「整ってる?」
「はい。目の形とか、きれいだと思って」
ミリィはしばらくきょとんとした顔をしていた。
「そういうこと言う人、初めて」
「良かった、ということですか」
「うん。なんか、うれしい」
ミリィは少し照れたのか、羽根をパタパタして場所を変えた。
「精霊の顔、見てくれたの、初めてだから」
「見えないんですか、ほかの人には?」
「見えない人もいる。見えてても、ちゃんと見ない人が多い。小さすぎて、目が止まらないみたい」
桃絵は、ルカを見た。
ルカは黙って、木を削っていた。
それから三人は、それぞれの時間を過ごした。
ルカは作業を続け、桃絵はその手元を描き、ミリィはスケッチブックをのぞき込んでいる。
「次のページは?」
「今描いてるから、待って」
「……」
三秒。
「もう静かにした」
「まだです」
「あとどのくらい?」
「三分くらい」
ミリィは少し考えてから、
「三分って、長い?」
「長い人もいます」
「精霊の三分、すごく長い」
「頑張って下さい」
桃絵は線を引き続けた。
ルカが、ちらりとこちらを見て、また目を戻す。
ミリィが、肩の上で少し動いた。
「静かにしてます。動いてるだけ」
「動かないでも待てますか?」
「それは難しい」
桃絵は、スケッチを仕上げた。
「はい、見せます」
ミリィは、声を上げた。
☆
夕方、川の水は少しだけ金色になっていた。
橋の上で、桃絵はスケッチブックを開いていた。
川の流れと、向こう岸の木と、橋の欄干。
ルカは少し離れたところに立って、川を見ている。
桃絵はふと顔を上げた。
「この橋って、名前あるんですか?」
ルカは少し考えた。
「ある」
「なんていうんですか?」
「風渡橋」
桃絵は橋の上を見回した。
風がちょうど川を渡ってきて、髪を揺らした。
「……風、渡ってますね」
ルカはうなずいた。
「昔からそう呼ぶ」
桃絵はもう一度スケッチブックを見た。
橋。川。風。
鉛筆を少し動かす。
「いい名前ですね」
ルカは少しだけ笑った。
「この橋、風がよく通る」
少し沈黙があった。
川の音だけが聞こえる。
桃絵は橋の端を描き足した。
「でも」
「うん」
「風って、どこから来るんでしょうね」
ルカは少し考えて、
「たぶん、遠く」
と言った。
桃絵はその言葉を聞きながら、線を引いた。




