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色のない世界に、絵を描く ―スケッチブックから始まる異世界の村暮らし―  作者: 明石竜


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エピローグ

 信号が青に変わっていた。

 横断歩道の前に、桃絵は立っていた。

 手に持っていた黒いスケッチブックの角は、すっかり擦れていた。周りを見回した。見慣れた駅前の交差点だった。車が走っている。向こうから人が歩いてくる。コンビニの明かりが白く光っている。空は夕方で、まだ完全には暗くなっていなかった。星は出ていない。

 あ、と思った。

 ここに帰ってきた。

 実感が、じわじわと来た。

 匂いが違う。排気ガスと、アスファルトと、誰かの食べ物の匂い。リネラは草と土と石の匂いだった。ここは人工物の匂いが混じっている。少し、懐かしい匂いだった。

 音も違う。車のエンジン音。遠くの電車の音。ビルのどこかから流れてくる音楽。リネラでは川の音と風の音と鶏の声しかなかった。

 それと、ルカの鑿の音と、ガルドの鍬の音。

 懐かしいし、うるさい。

 でも、悪くなかった。

 制服を確認した。リネラで着ていた麻のシャツではなく、ちゃんと学校の制服に戻っていた。スカートのシワも取れている。ポケットに手を入れると、鉛筆が一本あった。折れていなかった。

 もう一方のポケットに、何か細長いものが入っていた。取り出すと、木の笛だった。ルカが作ってくれた笛。

 リネラの服に入っていたはずなのに、制服のポケットに移っていた。

 桃絵は笛を手の中で確かめた。軽かった。滑らかな木の表面。音孔が四つ。端に唇を当てる部分がある。

 リネラから、持ち帰れた。

 日本に帰っても消えなかった。

 目が少し滲んだ。鼻を、すんっと吸った。

 スケッチブックを開いた。

 最初のページには、まだ何も描いていなかった。

 次のページ。来る前に描いた夜空の絵。月と星のスケッチ。右上の角に「眠れない夜」と書いてある。

 その隣のページ。今夜の空を描いたページ。三角座と天の川。

 その先に、川沿いの木。橋とルカの後ろ姿。ルカとガルドの手。ヘルダの笑顔。村長の後ろ姿。ミリィ。昼の空に夜の星。夕暮れの川沿いの木。

 全部、ある。

 信号がまた青になった。桃絵は渡り始めた。

 歩きながら、空を見た。まだ明るい。でも、あそこに三角座がある、と桃絵は思った。見えないけれど、ある。今夜、暗くなったら見える。

 リネラの夜空で、ミリィがはしゃぎながら星の名前を聞いていたのを思い出した。ルカが橋の上で川を見ていた横顔を思い出した。

 ガルドが「好きな気持ちが続く方が育つ」と言ったあの朝の、土の匂いを思い出した。村長が木の箱から古い絵を取り出した時の、少し照れくさそうな顔を思い出した。

 みんなが、桃絵の中にいる。帰ってきても、消えていない。

 駅の方へ歩いていると、コンビニの前に猫が一匹いた。三毛猫で、桃絵を見て逃げなかった。じっと見ていた。

 桃絵は立ち止まって、猫を見た。

 逃げない猫は、なんとなくリネラの動物に似ていた。ニワトリほど堂々としていないが、近づいても逃げようとしない。ただ、こちらを確認するように、黄色い目を向けている。

 描きたいと思った。

 スケッチブックを開いて、鉛筆を取り出して、線を引いた。三毛猫。毛並みの模様。じっとこちらを見ている目。

 描いていると、指先に、あの感覚があった。

 変わらずあった。

 日本に帰ってきても、あった。

 少し安心した。あの感覚は、リネラだけのものではなかった。自分の中にあるものだった。

 猫が、あくびをした。それも描いた。大きな口。尖った歯。目が細くなる瞬間。

 描き終えて、桃絵はページを見た。

 駅前の三毛猫。上手いかどうかは、分からない。でも、好きだった。

 猫は興味を失ったように、ぷいと立ち去っていった。その背中が、なんとなくリネラのニワトリに似ていると思った。こちらの都合を考えずに、したい時に立ち去る。自由だ。

 桃絵はスケッチブックを閉じて、また歩き始めた。

 家に帰ったら、日記を書こうと思った。六十五日分の日記。でも、それより先に、今夜の空を待ちたかった。暗くなったら、三角座を確かめたかった。

 そして、また描こうと思った。

 コンクールのためでも、誰かに見せるためでも、ない。

 帰ってきた夜の空を、見たかったから。

 それだけで、十分だった。


 電車に乗ると、いつもの車内だった。

 吊り革が揺れている。窓の外を景色が流れる。向かいに座った学生が、スマートフォンを見ている。日本語が聞こえる。リネラでも言葉は通じていたが、これは、確かに日本語だ。聞こえ方が少し違う気がした。

 桃絵はスケッチブックを膝に置いて、窓の外を見た。

 夕暮れの街並みが流れていった。住宅地。商店。電柱。川。橋。

 川の橋を過ぎる時、桃絵は少しだけ目が止まった。コンクリートの、古い橋だった。欄干に特に模様はない。でも、形は確かにある。川の上を渡るための橋だ。

 誰かが作ったものが、ここにある。

 そう思ったら、橋が少しだけ違って見えた。

 電車を降りて、駅の改札を出た。

 制服のポケットに鍵が入っていた。家の鍵だ。六十五日ぶりに持つ鍵だが、重さと形が指に馴染んでいた。

 帰り道を歩きながら、桃絵は空を見た。

 まだ完全には暗くなっていない。でも星が出始めていた。一つ、また一つ。

 三角座を探した。

 まだ見えなかった。でも、もう少し暗くなれば見えるはずだ。あの星座は、どこの空にもある。リネラの夜空にも、ここにも。桃絵が名前をつけた星座が、今夜もそこにある。

 家の前に着いた。

 表札があった。木村、と書いてある。

 六十五日間、家族は桃絵がいないことに気づいていたのか。それとも、時間の流れ方がこちらでは違って、桃絵がいなかった時間は短かったのか。

 村長は「ここに来た旅人は、向こうの世界ではほんの少しの時間しか経っていないことが多い」と言っていた。

 扉を開けた。

「おかえり」

 台所から母の声がした。

 普通の声だった。

 いつも通りの「おかえり」だった。

 桃絵は少し立ち止まって、

「ただいま」

 その声が少しかすれた。

「ご飯、もうすぐ出来るよ」

 桃絵は靴を脱いで、廊下を歩いた。台所の明かりが見えた。夕食の匂いがした。温かい匂い。

 泣いてしまいそうだった。なんでもないことなのに。「おかえり」と「ただいま」の交換が、なんでもないことなのに、六十五日分の距離がその言葉に詰まっていた。

 台所に入ると、母がコンロの前に立っていた。振り返って桃絵を見た。

「顔色悪い? 学校で何かあった?」

「ない。なんか疲れて」

「そっか。ご飯食べたら早く寝なさいね」

「うん」

 桃絵は椅子に座った。テーブルの木目が見えた。ルカの作業場の木と比べたら粗いが、ちゃんとした木目だった。

 今夜の夕食を食べて、お風呂に入って、眠って、明日また学校に行く。コンクールの結果表はもうない。次のコンクールの締め切りは、たぶん半年後くらいだ。

 そこまで考えて、桃絵は気づいた。

 コンクールのことを考えたのに、怖くなかった。

 出てもいいし、出なくてもいい。出すなら、評価のためじゃなくて、自分が描きたいものを描いてから出す。評価されなくても、手元のスケッチブックには残る。それが今日の猫のスケッチみたいに、ただ「好きだった」という一枚になればいい。

 それで十分だ、と思えた。

 ポケットの中に、笛があった。夕食の前に着替えるつもりだったが、笛だけはどうしたらいいか迷って、結局ポケットに入れたままにしていた。

 お風呂の前に、一回だけ吹いてみようと思った。ルカが出した音よりずっと単純な、一音か二音だけ。でも音が出たら、それだけで、あの夜を思い出せる気がした。

「お待ちどうさま」

「ありがとう。いただきます」

 ご飯は美味しかった。

 窓の外で、少しずつ夜が深くなっていた。

 星がたくさん見え始めていた。

 食べ終えたら、三角座を探そう。

 笛も吹こう。


 桃絵はスケッチブックを開いた。

 

「いい匂い」

                                     (終)

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