最終章 帰る夜、残るもの
目が覚めたのは、ミリィの声だった。
「ももえ、ももえ」
顔の前に、小さな存在がいた。羽根をパタパタさせながら、桃絵の目のすぐ前で浮かんでいる。
「寝てた」
「うん、寝てた。ずっと呼んでたのに」
「ごめん。気持ちよくて」
「気持ちよさそうだった。だから、しばらく待った」
桃絵は起き上がった。
空がオレンジに染まっていた。もう夕方になっていた。
「長く寝てた」
「うん。でも、ももえの顔が、久しぶりにちゃんと寝てる顔だったから。昼間に描いたの?」
「描いた」
「見せて」
「ちょっと待って」
起き上がったら、頭が少し痛かった。昼間に外で寝たのと、草の上に長時間寝転がっていたせいで、背中も少し痛い。でも、気持ちは軽かった。今日ここまでのことが、全部、胸の中に収まっている感じがした。
首を傾けるとポキッと鳴った。
「大丈夫?」
「うん。頭ちょっと痛いだけ。草の上に寝てたから」
「硬かった?」
「冷たかった」
「ワタシが毛布を持ってきてあげればよかった。持てないけど」
「持てないじゃないですか」
「そうなんだよ。だからこういう時、精霊って不便だって思う。毛布を運んであげたい気持ちはあるんだけど」
「気持ちだけで十分です」
桃絵が微笑みながらそう言うと、ミリィは少し嬉しそうな顔をした。
でもミリィは満足しなかったらしく、しばらく何かを考えている顔をしていた。
「ねえ、ももえ」
「何ですか?」
「毛布は無理だったけど、他に何か出来ることあるかな。大きいものは持てないし、遠くには行けないし」
「ミリィはもう出来ることをしてくれてますよ」
「でも、もっと何かしたい」
「毎日会いに来てくれてるじゃないですか」
「それはワタシが行きたいから行ってるだけ」
「それが十分ですよ。リネラで私が一番元気でいられたのは、ミリィが話しかけてくれるからだと思います」
ミリィはぱちぱちと目をしばたたいた。
「……ワタシが?」
「ミリィが来てくれないと、この村で一番小さな友達がいなかったわけで。精霊は他にいないですよね、この村に」
「この川の近くはワタシだけ。他の場所には他の精霊がいると思うけど」
「でしょ。ミリィだけなんですよ、三センチの友達は」
「三センチ!」
ミリィは少しむっとした顔をしてたけど、どこか嬉しそうだった。
「まあ、三センチだけど。三センチでも、ちゃんといる」
「ちゃんといてくれて、ありがとうございます」
ミリィは羽根をパタパタと一回大きく動かした。それが精霊の「照れ」に当たるのかどうかは分からなかったが、桃絵にはそう見えた。
「でもね、声はかけられる。ももえが寝てた時、ちゃんと起こしたでしょ」
「起こしてくれましたね」
「声を出すことと、光ることは出来る。もし桃絵が何か困ってたら、声で教えることは出来る。それが精霊の仕事のひとつだから」
「ミリィは私が困ってた時、ちゃんと来てくれましたよ」
「来た?」
「描けない時期に、ミリィが木の揺れを話してくれた。あれがなかったら、あの絵は描けなかった」
「それはワタシがしたかったからだよ。毛布は持てないけど、話すことは出来る。それがたまたま役に立ったなら、よかった」
桃絵は何か言おうとして、言葉が出なかった。
「ありがとう」
やっと言った。
「どういたしまして」
ちゃんと受け取ってくれた。
桃絵はスケッチブックを開いた。川沿いの木。橋のルカ。ガルドの手。ヘルダ。村長の後ろ姿。昼の空に夜の星。
ミリィは一枚一枚、じっと見ていった。
長い時間をかけて、全部見た。
「うん」
「うん、って?」
「じわっとしたやつ、全部にあった。今日の絵から、全部から。今まで、こんなにはっきり感じたことなかった」
「本当に?」
「本当に。ももえの絵、ちゃんと生きてた」
桃絵はその言葉を聞いて、すぐには何も言えなかった。
評価じゃなくて、上手いじゃなくて、役に立つじゃなくて。生きてた、という言葉。精霊の感覚で言う「じわっとしたやつ」が全部の絵にあった、という言葉。
「ありがとう」
「ありがとうはワタシが言う。ももえが描いてくれたから、何かが少し、元気になってる気がする」
「村の色は、戻った?」
「全部は戻ってない」
ミリィは正直に言う。
「見張り台は、まだ白い。ほかにも、薄いままのところがある。でも、なんか、ちょっと違う」
「何が違う?」
「これから戻る感じがする。ももえがいなくなっても」
「いなくなる?」
「帰るんでしょ?」
ミリィは問いかけた。責めているわけではなく、ただ確かめるように。
「……そう、思ってる」
「そっか」
ミリィは少しの間、黙った。桃絵の膝の上に、ふわっと座った。
「寂しい?」
「寂しい。でも、もっと前から覚悟してた。旅人はいつか帰るから」
「ミリィ」
「なに」
「ミリィの家の木、また描いていい?」
「さっき描いたじゃん」
「もう一枚。今度は、夕暮れのを」
ミリィは少し目を細めた。
「描いてくれるの?」
「うん」
「……うれしい」
桃絵はスケッチブックを開いて、新しいページにした。
夕暮れの川沿いの木。オレンジと紫が混じった空の下。幹の色が、この光の中では少し赤みを帯びていた。右の大きな枝が、夕暮れの風にゆっくり揺れていた。
描きながら、ミリィがまた木の揺れ方を話してくれた。
「今日の右の枝は、いつもよりゆっくりだよ。冬の風は重たいのかも」
その声を聞きながら、線を引いた。
描き終えて、そのページをそっとスケッチブックから外した。
「これ、ミリィにあげる」
「ワタシに?」
「ミリィの家の木だから」
ミリィはページを受け取った。精霊の手には大きすぎたが、羽根で支えるようにして持った。
「大事にする」
「うん」
「ももえ、帰ってから、また絵描く?」
「描くと思う。絵を描かない自分が、もう想像出来ないから」
「コンクールに出す?」
「出すかもしれない。でも、それだけじゃなくて描く」
「何のために?」
「自分のために」
言ってから、少し驚いた。
その言葉が、すっと出てきた。こじつけた感じがなかった。
村長に「君のために描きなさい」と言われた時、まだ重かった言葉が、今は自分の口から自然に出てきた。
「自分のために、か……いいね」
「いいの?」
「いいよ。ももえが好きで描いた絵が、この村の何かを動かしたんだから。自分のために描いてても、何かになるんだよ」
桃絵はその言葉を聞いて、夕暮れの空を見た。
オレンジが深くなっていた。もうすぐ星が出る。
三角座が、今夜もあの位置にある。
ページを渡した後、二人はしばらく並んで座っていた。
ミリィはページを羽根で支えながら、光に透かして見ていた。夕暮れの光の中で、鉛筆の線が金色がかって見えた。
「上手い」
「ありがとう」
「前の絵より上手い」
「そうですか」
「そう。最初の絵も好きだったけど、今の方が線が、なんか生きてる感じがする」
桃絵は自分の手を見た。今日、描いた手。この手は、リネラに来てから毎日スケッチブックを持っていた手だ。六十五日間、スケッチブックを持っていた手。
桃絵は指先を、そっと握った。
「帰ったら、どうなるんだろう?」
「どうなるって?」
「描き方が変わってるかな、私。それとも帰ったら戻っちゃうかな」
「戻るって?」
「コンクールのことばかり考えて、また描くのが苦しくなるとか」
ミリィはしばらく考えた。
「描くのが苦しくなる日は来るかもしれない。でも、ももえはもう、好きで描いたことがある。その感覚は、忘れないと思う」
「忘れるかもしれない」
「忘れかけた時。三角座を見ればいい。ももえが名前をつけた星座。あれはどこの空にもある。ここの空にも、ももえの世界の空にも、同じ形で。見たら思い出すよ」
桃絵は空を見た。まだ明るい。星はまだ出ていない。でも、三角座がある場所は、桃絵にはもう分かっている。
「ミリィ」
「なに」
「ミリィは、精霊だから、ここからずっと出られないですよね」
「そう」
「ずっとここにいるんですね。誰かが来ても、誰かが帰っても、ここにいるんですね」
ミリィはしばらく黙った。
少し間を置いてから、
「そう」
と呟く。
「でも、来てくれた人のことは、ずっと覚えてるよ。覚えてることが、精霊の仕事だから。ももえが帰っても、ももえのことを、ずっと覚えてる」
桃絵は目が少し滲んだ。
「私も、ミリィのことを覚えてます。絶対」
「覚えてくれたら、ちょっと色が残るかも。精霊的な話だけど」
「残るといいな」
「残る」
ミリィは今度は笑い声ではなく、確信のある声でこう言ってくれた。
「ももえが描いてくれたから、残る」
夕暮れが深くなっていた。空の端が赤くなっていた。星が出始めるまで、あと少し。
「今夜、何かしてほしいことある?」
「特には、ないですけど」
「最後の夜だから」
「最後の夜だから、特に何もしなくてもいいかな、って。ただ、村を一回歩きたい。今夜も」
「一緒に行く」
「ありがとう」
「遠慮しなくていいよ。もう友達だから」
「そうですね。友達ですね」
ミリィは桃絵の肩に座った。いつもより少し、重い気がした。
それが嫌ではなかった。むしろ、そこにいてくれている感触が、ありがたかった。
二人で、夕暮れの村を見ていた。
夕方の光が、川の上をゆっくり流れていた。
桃絵は橋の端に座り、スケッチブックを膝に置いていた。
風が時々ページを揺らす。
今日は橋を直そうとは思っていなかった。
ただ、ここに座って見えるものを描きたかった。
川。
向こう岸の木。
橋の欄干。
風に揺れる草。
それから、少し離れたところで立っているルカ。
鉛筆を走らせる。
線が迷わず紙に落ちていく。
ミリィが肩の上で、ふっと羽を止めた。
「……あ」
桃絵はまだ描いていた。
橋の上を、ニワトリが一羽歩いてくる。
真ん中まで来て、ぴたりと止まった。
「コッ」
小さく鳴く。
その時、ルカが橋を見た。
灰色だった木の色が、ゆっくり変わっている。
欄干。
床板。
橋の中央。
乾いた灰色が、少しずつ薄い茶色に戻っていく。
ミリィが小さく言った。
「来た」
桃絵はようやく顔を上げた。
橋を見て、しばらく何も言わなかった。
風が橋の上を渡る。
戻った木の色が、夕方の光を受けて柔らかく光る。
ルカが穏やかに言った。
「……風渡橋だ」
桃絵は橋を見ていた。それから、スケッチブックを閉じる。
「また描きます」
ルカはうなずいた。
ニワトリが橋を横切っていく。
風が、もう一度橋を渡った。
☆
夜、桃絵は村長のもとを訪ねた。
台所に二人で座った。いつものお茶ではなく、また昨日の温かい果実の飲み物だった。
「今日、描きました」
「そうか」
「村の人たちと、夜空と。全部で七枚、かな」
「どんな気持ちで描いた?」
「好きだから、です。全部、好きだから描いた。役に立てようとか、誰かのためとか、そういうことは考えなかった」
「結果として、どうだった?」
「ミリィが、生きてた。と言ってくれました」
「そうか」
村長は静かに微笑んだ。
「それが答えだよ」
「まだ全部分かったわけじゃないです。帰っても、コンクールで賞が取れるかどうか分からないし、また評価を気にしてしまうと思うし、描けない日も来ると思う」
「来るだろうね」
「でも、今日みたいな日があった、というのは、ちゃんと覚えてます」
「覚えているなら、大丈夫だよ」
桃絵はお茶を飲んだ。温かかった。
「エルデさん」
「なんだい」
「あの三角座の絵、五十年間、ずっと箱の中にあったじゃないですか」
「そうだよ」
「今日、同じ三角座を描いたんです。昼の空のページに。星が見えない昼間に、夜の星を描いた」
村長はそれを聞いて、少し目を細めた。
「昼の空に夜の星を」
「おかしいですか?」
「おかしくない。むしろ、それがいい。星はいつでもそこにある。昼間に見えないだけで」
「それを描いたら、これでいい、と思えました」
「うん」
「最初に来て、エルデさんに言ったんです。自分の絵に意味があるのか分からない、って。今日、その答えは、まだ出てないんですけど」
「出てなくていい」
「ただ、意味があるかどうかを考える前に、好きだという気持ちが先に来た。それは、今日初めてのことでした」
「そうか」
村長は今度は、目が少し潤んでいる気がした。
「エルデさんの絵も、五十年後に誰かが見て、同じことを感じるかもしれない。私が今日感じたみたいに」
村長は、しばらく黙っていた。
窓の外で、風が鳴った。
「ありがとう」
村長の声は小さかったが、はっきり聞こえた。
桃絵は頷いた。
「一つ、聞いてもいいですか?」
「どうぞ」
「帰り方は、どうするんですか?」
「今夜、夜空を見ていなさい」
「スケッチブックを持って。描いても描かなくても、持っていなさい。スケッチブックが、ここに来る前と同じ状態になった時、帰れると思う」
「来る前と同じ状態……」
「ページが、最初の絵のところで開く。その時、スケッチブックが浮く。それが、帰り道だよ」
「……分かりました」
「帰ったら、また絵を描いて下さい。コンクールに出してもいい。でも、それだけじゃなくて」
「自分のために、ですね」
「そうだよ」
桃絵は立ち上がった。
「お世話になりました」
「こちらこそ。また来たくなったら、来なさい」
「来られるんですか?」
「来られるかもしれないし、来られないかもしれない。分からない。でも、また来たいと思う気持ちがあるなら、その気持ちだけは持っておきなさい」
「……」
桃絵は頷いた。
扉を開けると、夜の空気が入ってきた。星が出ていた。三角座が、いつもの位置にある。
これでいい。
もう一度、その言葉が胸の中で静かに鳴った。
ルカの作業場は、夜になるといつも暗かった。
でも今夜は、内側に明かりが灯っていた。
桃絵が扉をノックすると、ルカが出てきた。
「まだ作業してるんですか?」
「扉の板の仕上げをしてた」
「夜遅いのに」
「きりのいいところまでやりたかった」
桃絵は少し笑った。それがルカらしかった。
「今夜、帰ろうと思ってる」
ルカは黙った。少しの間。
「そうか」
「村長に、夜空を見ていれば帰れると言われました」
「そうか」
「ルカ」
「なに」
「来てから今日まで、ありがとう。最初にエルデさんのところに連れて行ってくれて、スケッチを見てくれて、好きって言ってくれて」
「礼はいい。前にも言った」
「言わせて下さい。言いたいから」
ルカは黙った。それが、受け取った、ということだと桃絵は分かった。
「ルカが笛作ってるとこ、また見たかった」
「また作る。次に誰かが来たら見せる」
「その人、羨ましいですね」
「伝えない」
「え?」
ルカは少しだけ考えてから言った。
「桃絵が言いたいことは、桃絵が言え」
桃絵は笑った。
笑いながら、目が少し滲んだ。
ルカは目が少し固くなったが、それ以上は言わなかった。
「木目も、また見たかった」
「木目なら、どこの世界にもある。帰っても、見れる」
「そうですね。帰っても、木目を見たら、ルカのことを思い出します」
「俺は、桃絵のことを、作るものを見た時に思い出す」
「何を作った時に?」
「きれいな木目の板を見た時。桃絵が、最初に木目がきれいって言った。あれから、木目を見る時少し変わった」
桃絵はその言葉を、静かに受け取った。
何かを変えていた。自分の絵が、ではなく、自分がここにいたことが。村の色が戻ったかどうかとは別に、ルカの木目の見方が少し変わっていた。それは、数えられない変化だったけれど、確かにあった。
「行ってきます」
「うん」
扉が閉まった。
丘に戻った。
最初にこの世界に来た場所。斜面の草の上に、桃絵は立った。
スケッチブックを持っていた。
空を見上げた。星が多かった。街灯のない夜は、いつもこんなに星がある。最初の夜から変わらない星空だった。
三角座を探した。
――あった。
桃絵はスケッチブックを開いて、ページをめくった。最初のページ。来る前に描いた夜空の絵。月と星のスケッチ。右上の角に「眠れない夜」と書いてある。
このページが、リネラの空と共鳴した、と村長は言った。
桃絵はそのページを見た。来た時と、今の自分は違う。でも、このページは変わっていない。あの時の眠れない夜の空が、ここにある。
描こう、と思った。
最後にもう一枚。
最初のページの隣に、新しいページを開いた。
今夜の空を描いた。
三角座から始めた。名前をつけた星座。ここに来てから何度も描いた星座。五十年前の旅人も描いた星座。村長の箱の中にもあった星座。今夜もそこにある星座。
周りに星を置いた。天の川の流れ。月は今夜も出ていない。
指先に、あの感覚があった。
さっきより、さらに深い感覚だった。
体の中を、何かが流れていく感じ。痛くはない。熱くもない。でも、確かに通っている。
描きながら、今日一日のことを思い出した。
丘からの眺め。ガルドの鍬の音。ルカの「今日はいる」という言葉。ミリィが夕暮れに話してくれたこと。村長のお茶。
全部が、今、この線の中に入っている気がした。
描き終えて、ページを見た。
最初のページの夜空と、今夜の夜空が、向かい合っていた。
来る前の夜空と、帰る前の夜空。
どちらにも三角座がある。
どちらにも星がある。
どちらも、眠れない夜に描いた絵ではなかった。でも、どちらも、見たから描いた絵だった。
スケッチブックが、ふわりと動いた。
風ではなかった。
ページが、ゆっくりとめくれていった。最初の夜空のページへ向かって。
桃絵はスケッチブックを両手で持った。
草の匂いがした。
空が、澄んだ。
何かが、動き始めた。
桃絵はスケッチブックを胸に抱きしめた。
目を閉じる前に、もう一度だけ空を見た。
三角座が、そこにあった。
いつでも、そこにある。
帰っても、そこにある。
目を閉じた。




