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色のない世界に、絵を描く ―スケッチブックから始まる異世界の村暮らし―  作者: 明石竜


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第十二章 描く前の朝

 リネラに来て、六十五日が経った。

 朝、目が覚めた時、桃絵はすぐにそう数えた。

 屋根裏部屋の木の天井を見上げながら、指で折って数えた。最初の一週間は一日ずつ数えていた。それがいつからか忘れ、また気になって数え直したのが、今日だった。

 日本での一日と、ここでの一日が、同じ長さかどうかは分からない。でも、体感としては、ここでの一日の方がずっと長かった。長くて、中身があった。

 窓を開けると、冷たい空気が入ってきた。

 霜が降りていた。石畳の上に、白く薄い霜。朝の光を受けて、少しだけ光っている。ニワトリがいつものように道のまんなかを陣取っているが、寒そうに羽根をふくらませていた。

 桃絵はスケッチブックを手に取った。

 今日、描こうと思っている絵のことを、昨日から考えていた。どんな絵かは、まだはっきりとは見えていない。でも、あることは分かっていた。形より先に、感触がある。何かが、胸の奥で静かに待っている感じ。

 急がなくていい、と自分に言った。

 でも、今日な気がする、とも思っていた。


 朝食のあと、桃絵は村を一周することにした。

 特に目的があったわけではない。

 描く前に歩きたかったし、見ておきたかった。

 理由としては、それで十分だった。


 外に出た瞬間、入口でニワトリに遭遇した。


 一羽だけだった。

 いつもは三羽で道を塞いでくるのに、

 なぜか今日は村長の家の前に、一羽だけ立っている。

 桃絵を見て、ニワトリは目を細めた。

 ――見られている。

 確実に、見られている。

「……おはよう」

 言ってから、なぜ挨拶をしたのか自分でも分からなかった。

 相手はニワトリだ。

「クック」

 ニワトリは体の向きを変えた。

 去るのかと思ったら、そのまま止まった。


 ……行かない。

 というか、動かない。

 桃絵もしばらく止まった。

 どちらが先に動くかの、謎の対決が始まっていた。

 ニワトリは動かなかった。

 桃絵も動かなかった。

 石畳に朝の光が差し込んで、ニワトリの羽根が、少しだけ金色に光った。

 ――あ、構図はいい。

 一瞬そう思ったが、

 今日の一枚は別のものに取っておきたかった。

 ニワトリ対峙図は、まだ早い。

 結局、桃絵が脇によけた。

 ニワトリは、その隙間を颯爽と通り過ぎていった。

 堂々と。

 まるで「当然ですが?」という顔で。

 桃絵はまだニワトリに道を譲っていた。

 しかも、一羽に。

 三羽ではない。

 一羽だ。

 これは成長なのか、後退なのか。

 桃絵には判断出来なかった。

 そもそも、三羽そろっていたはずなのに、

 今日は一羽しかいない。

 残りの二羽はどこへ行ったのだろう。

 石畳の奥の路地へ消えていくニワトリの背中を見送りながら、

 桃絵は思った。

 ――きっと、別の場所でも同じことをしている。

 三羽それぞれが、別の場所で誰かに道を開けさせている。あるいは、開けさせていない。それはそれで、ニワトリとしての仕事を、ちゃんとしているのかもしれない。

 そういうことを考えながら歩くのが、いつの間にか、リネラでの習慣になっていた。

 思えば、ニワトリとの関係が変わったのは、四十日目のことだった。

 その朝も、三羽は石畳の真ん中に立っていた。

いつもの光景だ。

 桃絵が来た。

 三羽が見た。一羽が、こちらを向いた。

 ――あ、来たな、という顔だった。

 いつもなら、ここで桃絵が脇に寄る。

 だが、その日は違った。

 違ったというより、考えごとをしながら歩いていた。

 昨日描いたスケッチのこと。

 線の流れ。

 影の置き方。

 橋の向こうの景色。

 気づいたら、三羽の隣を歩いていた。

「クック」

 一羽が短く鳴いた。

 桃絵は驚いて立ち止まった。

 が、三羽は動かなかった。

 代わりに、真ん中に、人ひとり分の隙間が出来ていた。

 ――開いてる。

「……開けてくれたんですか?」

 答えはなかった。

 でも、道は確かに開いていた。

 桃絵はゆっくり通った。

 三羽は、静かにそこにいた。

 通り終えて振り返ると、三羽はまた、元の位置に戻っていた。

「ありがとうございます」

 一羽が、「クック」と短く言った。

 それだけだった。

 その話をルカにすると、

「あいつらは、信頼した人の道は開ける」

「信頼……ニワトリが?」

「この村の動物は、人を見てる」

 毎朝通って、逃げなかった。

 それだけで、覚えたのだと。

「逃げなかったのは、怖くなかっただけです」

「同じことだ」

 ルカは、あっさり言った。

 桃絵は少し笑った。

 ――描くことと、似ているかもしれない。

 評価が怖くて逃げていると、何も覚えてもらえない。

 怖くても、そこにいれば、少しずつ、見てもらえる。

 ニワトリから学ぶとは思っていなかったが、妙に納得してしまった。

 このことを、桃絵はミリィにも話した。

「四十日!?」

 ミリィは、言った瞬間に飛び上がった。

「道が開いたの!? あのニワトリが!?」

「……開きました」

「すごい! やったじゃん!」

 ミリィは自分のことのように喜んでいる。

「でも、ニワトリって頑固だから、結構かかったね」

「ルカは一週間って言ってました」

「ルカは毎日、ちゃんと朝通るから」

 ミリィは、腕を組んでうんうん頷いた。

「ももえはさ、描くのに夢中で、別の道を歩いたりしてたでしょ」

「……しました」

 桃絵は少し思い当たった。

 確かに、朝の挨拶を数日飛ばしていた時期がある。

 川に絵を描きに行った日。

 橋の前で立ち止まって、動かなかった日。

「……ちゃんと通り続けてれば、もっと早かったですかね」

「そうかも!」

 ミリィは、あっさり言った。

「でも、四十日でも覚えてもらえたんだから、すごいよ! ニワトリ相手に四十日だよ!?」

「そう言われると、なんか……すごい気がします」

「でしょ!」

 ミリィは胸を張った。

「ミリィに褒められると、なんか……すごく単純に嬉しいです」

「精霊が褒めたら本物!」

 ミリィは自信満々だ。

「精霊は嘘つかないから!」

「……それ、最初に会った日も言ってましたよね」

「大事なことだから!」

 桃絵は、その一貫性がなんだか可笑しくて、少し笑った。

 ミリィのレパートリーは少ない。

 でも、それが変わらないのが、安心でもあった。

 ちなみにその日の夕方。

 桃絵は、三羽のうちの一羽が、雑貨屋の前で立ち止まっているのを見た。

 ヘルダが店先に出していた小さなかごを、ニワトリがじっと覗き込んでいる。

「あんたにあげるものは何もないよ」

 ヘルダがそう言うと、ニワトリはぶっきらぼうに、

「クッ」

 と言って、去っていった。

「……確認してる」

 遠くから見ていた桃絵は、思った。

 信頼するだけじゃなく、ちゃんと確認もするらしい。

 なかなか抜け目がない。

 

 あの日から二十五日。今日は、そのニワトリを少し眺めた。

 歩き方が、やっぱり面白い。

 足の上げ方が大げさで、一歩一歩が「踏み込み!」という感じだ。

 スケッチブックを取り出しかけて、

 ――今日は、別の一枚にしよう。

 そう思って、やめた。

 ニワトリが、ふとこちらを振り向いた。

「……何ですか?」

 桃絵が問うと、ニワトリは答えなかった。

 ただ、首を一度傾けて、何事もなかったように歩き去った。

 その無言の立ち止まりが、なんとなく「分かってる」みたいに見えて、桃絵は少しだけ鼻の奥がじんとした。四十日以上かけて覚えてもらった相手だ。少し惜しい気もした。


 今日、最初に向かったのは、橋だった。

 欄干に手を置いた。石は冷たかった。霜のせいかもしれない。でも、石の色は戻りつつあった。完全ではない。模様もまだうっすらとしか見えない。

 でも、あの時、桃絵が描いた一枚から、何かが少しずつ積み上がっていた。

 川を見た。

 冬の近い川は、夏より水が少なく、澄んでいた。底の石が透けて見える。水の色が青というより、透明に近かった。川底の石は丸くて、大小さまざまで、光の屈折で少し歪んで見える。

 ずっと川を見ていたら、足が冷えてきた。霜が溶けた水が石畳に残っていて、じわじわと靴の底から冷たさが来る。でも動く気になれなかった。この川を、もう少し見ていたかった。

 次に、川沿いの木の所に行った。

 ミリィの家の木だ。幹の色は、あの夜よりずっと戻っていた。まだ完全な色ではなかったが、木らしい褐色と灰色が混じった幹の色が、ちゃんと見えた。右に大きく張り出した枝。左の細い枝。冬に向かって葉が減っているが、枝の形はしっかりある。

 ミリィはいなかった。でも、木が、ちゃんとそこにあった。

 桃絵は幹に触れてみた。冷たかったが、硬かった。この木は冬を越したことが何度もあるのだろう。どれだけ色が薄れても、幹は揺るがなかった。

 畑に行くと、ガルドが一人で作業していた。

「おはようございます」

「おう。今日は描くのか? 顔が違う」

「今日な気がします」

「そうか」

 ガルドはそれだけ言って、また作業に戻った。

 桃絵は畑の端に立って、作物を見た。葉が霜で少しだけ縁が白くなっている。土は暗い色で、湿っている。ガルドの鍬が土に入る音が、静かな朝に響いていた。

 ガルドは今日も何も余計なことを言わなかった。それが桃絵には、今日ちょうどよかった。今日は言葉じゃなくて、景色が必要だった。

 描こうとは思わなかった。今日の一枚に取っておきたかった。でも、目に入るものは全部、しっかり見た。霜の白。土の黒。ガルドの肩の丸さ。鍬の音の柔らかさ。

 次に、木工の作業場へ行った。

 ルカはいつも通り、いた。今日は何かの扉の板を削っていた。大きな板で、作業台いっぱいに広げている。

「おはよ」

 ルカはいつもと同じように挨拶を返した。

「おはようございます。今日、絵を描こうと思ってるの」

 ルカは手を止めて、桃絵を見た。

「そうか」

「何を描くかは、まだはっきりしてないんだけど」

「描けば分かる」

 桃絵は少し笑った。ルカらしい言葉だった。考える前にやれ、ではなく、やれば見えてくる、という意味の言葉。

「ルカが笛作ってるの、また見てみたかったな」

「今日は扉の板。笛は、また作る」

 ルカは続けて言う。

「帰る前に間に合わなくても、また誰か来た時に見せる」

 その言葉が、桃絵の胸に一瞬引っかかった。

「ルカにとって、旅人が来るのは、よくあること?」

「よくはない。でも、たまにある」

「私の前にも、来てた?」

「俺が知ってる限りでは、一人だけ。もっと昔にはいたらしいが」

「どんな人だった?」

「商人だった。荷物をたくさん持って来た。村に売っていって、帰った。桃絵とは全然違う」

「どう違う?」

「商人はここを通過しただけだった。桃絵は、ここにいた」

「まだいるけど」

「そうだな」

 ルカはそう言った後、少し間があった。

「今日はいる」

 それ以上は言わなかった。

 でも、それだけで十分な気がした。


 村長の家の前を通った。扉が少し開いていた。中からお茶の香りがした。桃絵は少しだけ立ち止まったが、入らないことにした。

 村長にはあとで報告しよう。今は、まず描きたかった。


 村を一周して、桃絵は丘の中腹に戻ってきた。

 最初にこの世界に落ちてきた場所だった。丘の斜面に低い草が生えていて、少し下に石畳の道が見える。あの時、膝をついて、草の匂いを感じて、ここはどこだと思った。

 今は、ここがリネラの丘だと分かっている。

 桃絵はそこに腰を下ろした。

 村が見えた。石造りの建物が並んでいる。赤茶色の屋根。木の扉。窓際に花の鉢。川が光っている。木工の作業場の屋根が見える。畑の向こうに、丘の森の稜線がある。

 少し風が吹いた。草が波打って、村の煙突から薄い煙が斜めに流れた。遠くでニワトリが一声鳴いた。川の音が、風に乗って少し大きくなって、また消えた。

 桃絵は息を深く吸い込んだ。

 草の匂い、土の匂い、石畳の匂い。リネラの匂いだ。最初にここに来た時、この匂いを感じながら「どこ、ここ」と思った。今は「ここはリネラだ」と思う。匂いで場所を思い出せるくらいには、ここが体に染み込んでいる。

 見ていると、この場所に来た最初の日のことを思い出した。

 あの日は、怖かった。どこに来たのか分からなくて、言葉が通じるかどうかも分からなくて、帰れるかどうかも分からなかった。でも、ニワトリが逃げなかった。石畳がちゃんとした感触で、風が本物だった。

 村に降りて行って、ルカに会って、村長のお茶を飲んだ。

 六十五日前の自分と、今の自分は、同じ場所に立っている。でも、見えているものが違う気がした。

 あの時は村の形しか見えなかった。今は、村の中に何があるかが見える。ガルドが鍬を入れている畑の土の色。ルカが今日削っている扉の板の木目。ミリィの木の枝が二種類の速さで揺れること。村長の木の箱の中で眠っていた三角座の絵。

 見えている、ということは、覚えている、ということかもしれない。

 桃絵はスケッチブックを膝に置いた。

 鉛筆を取り出した。

 何を描くか、ここに来てやっと分かった気がした。

 正確には、最初から分かっていたのかもしれない。ただ、準備が出来ていなかっただけで。

 描き始めた。

 村の全体を描くつもりではなかった。

 最初に描いたのは、丘からの眺めの中の、ほんの一部分だった。川沿いの木。白い幹と、右に大きく張り出した枝。左の細い枝。葉は少なくなっているが、枝の形はしっかりある。

 この木を、ミリィが言葉で見せてくれた。右の枝がゆっくり揺れて、左の細い枝がすぐに揺れて。テンポがずれた、音楽みたいな揺れ方。

 描きながら、ミリィの声が頭の中で聞こえた。「右の方にゆっくり揺れる枝があって、左の方は細くてすぐ揺れる。テンポがずれて、なんか音楽みたい」

 その声を聞きながら、線を引いた。ミリィが見ていた木を、自分の目で見て、自分の線で引く。

 指先に感覚があった。

 次に、橋を描いた。欄干の石の形。模様の痕。川の上にかかった石の橋。

 そこに、人物を一人、加えた。

 橋の中央に立って、川を見ている人。後ろ向き。耳が少し前を向いている。手が欄干に置かれている。

 ルカだった。

 描きながら、最初にルカを描いた夜のことを思い出した。描けない夜に、なぜかルカの後ろ姿が描きたくて、手が動いた。あの夜の感覚が、今の線に重なっていた。

 次のページを開いた。

 今度は、ガルドを描いた。畑で土を握っている手。節くれだって、大きな手。土の黒が手についている。その手の後ろに、朝の光の中の畑が広がっている。

 描いていると、ガルドの言葉が戻ってきた。

「うまい下手より、好きな気持ちが続く方が、作物が育つ」

 あの朝、あの言葉を聞いた時、桃絵はまだ半分しか分かっていなかった。今は、もう少し分かる気がする。

 次のページ。

 ヘルダを描いた。雑貨屋の前で、かごを持って笑っている顔。細い目の笑い顔。皺が深い。あの笑い顔は、桃絵が店の前を通るたびに声をかけてくれた。名前を覚えてくれた最初の住民だった。

 次のページ。

 村長を描いた。台所の椅子に座って、窓の外を見ている後ろ姿。白い髪。少し曲がった背中。杖が椅子の横に立てかけてある。木の箱は、膝の上ではなく、テーブルの端に置いた。蓋が少しだけ開いている。

 次のページ。

 ミリィを描いた。川沿いの木の枝の上で、膝を抱えて座っている。泣いていたあの日の姿ではなく、普段の姿で。羽根を少し広げて、何かを見ている。視線の先は、描かなかった。何を見ているかは、ミリィだけが知っていれば良い。

 そして最後のページ。

 桃絵は少し手を止めた。

 最後に何を描くか、ここに来る前から、うっすらと分かっていた。

 夜空だった。

 でも今は朝で、空には星がない。

 桃絵は目を閉じた。

 三角座の形を、思い浮かべた。三角形が二つ、重なった形。左下に、ほかの星たちより少し暗い一群。でも、桃絵が名前をつけた星座。村長の箱の中にもあった星座。五十年前の旅人が描いた夜空にもあった星座。

 目を開けて、描いた。

 昼間の空のページに、夜の星を置いた。

 おかしな絵かもしれない。青い空に、星が浮かんでいる。でも、空とはいつでも同じ空で、星はいつでもそこにある。見えないだけで、ある。

 三角座を描いた。その周りに、覚えている星を置いた。天の川の流れを、淡い線で引いた。

 描きながら、指先にあの感覚があった。

 昨夜より、さらにはっきりしていた。

 ページの全体から、何かが通り抜けていく感じ。指先だけじゃなくて、手の平全体、腕の全体、胸の中まで。

 描き終えた。

 桃絵は鉛筆を置いて、ページを見た。

 昼の空に、夜の星。三角座。天の川。

 上手いかどうかは分からない。コンクールに出せるかどうかも分からない。誰かが評価してくれるかどうかも、分からない。

 でも、好きだった。

 この絵が、好きだった。

 それが、今この瞬間、はっきりと分かった。

 評価されるかどうかとは別に、ただ好きだという気持ちが、胸の中にちゃんとあった。それを感じたのが、今日が初めてかどうか、桃絵には分からない。でも、今日は、感じていることに気づいていた。

 丘の草が、風で揺れた。

 桃絵はスケッチブックを閉じた。


 閉じてから、また開いて、最後のページを見た。

 昼の空に、夜の星。

 これでいい、と思った。

 これでいい。その言葉が、頭の中で静かに響いた。足りないとか、もっとうまくとか、誰かの役に立てたかとか、そういう声が一瞬あったが、それより先に「これでいい」が来た。

 こんなことは、今まで一度もなかった。

 桃絵はもう一度スケッチブックを閉じて、丘に寝転がった。

 草の匂いがした。土の冷たさが、背中に伝わってきた。空が広かった。雲が、ゆっくり流れていた。

 この空の向こうに、日本がある。家族がいる。学校がある。コンクールがある。帰ったら、また高校一年生に戻って、授業を受けて、スケッチブックを抱えて電車に乗る。

 怖いか、と聞かれたら、まだ怖い。でも昨日より少し、怖さが小さかった。

 持って帰れるものがある、と思えるから。

 目に見えるものではなく、形でもなく、スケッチブックの中の何枚かの絵でもなく。

 ただ、描いた日の感触。見たものが線になる瞬間の、あの感覚。それが、自分の中にある、と分かったこと。

 それを持って帰れる。

 桃絵は目を閉じた。霜が溶けていく冷たい空気の中で、少し眠くなった。眠れなかった夜が多かった分、今日の昼の陽射しが、体に沁みた。


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