第十一章 村長が語ったこと
その夜、村長が桃絵を呼んだ。
珍しく夜に呼ばれた。台所には、いつものお茶ではなく、少し濃い色の飲み物が用意されていた。果実を煮詰めたような、甘くて深い香りがする。
「特別なものですか?」
「冬の前に作る飲み物だよ。少し冷えてきたから、温めようと思って」
「もう冬になるんですか?」
「この村の冬は短い。でも、冷えるから」
桃絵は飲み物を受け取って、温かさを手に感じた。
「今日は、話がある」
「はい」
「まず、礼を言いたい。川沿いの木が、少し色を取り戻した」
「ミリィの家の木」
「ミリィが喜んでいた。絵を描いてくれたから、と言っていた」
「ミリィが話してくれたから描けたんです。私だけの力じゃなくて」
「そう言えるようになったのは、変わったことだね」
村長の目は穏やかだった。
「以前は、自分の力で何とかしようとしていた」
「……そうですね。今でも、そう思う部分はあります。でも、ミリィが木の揺れ方を話してくれて、それを聞きながら描いたら、今までで一番手が動いた気がして」
「そうか。話がある、というのは、礼だけではない」
「何ですか」
「君が帰れるかもしれない、という話だ」
桃絵は、飲み物を持ったまま、止まった。
「帰れる……」
「断言は出来ない。ただ、旅人が帰る時、決まって一つのことが起きていた。最後に、何かを描く。それが、帰る鍵になっていた」
「どんな絵ですか?」
「それが決まっていない。旅人によって違った。ある人は村の地図を描いた。ある人は家族の顔を描いた。ある人は、来た時と同じ夜空を描いた」
「五十年前の旅人は?」
「君の前にここに来た人は、夜空を描いて帰った。三角座の入った夜空を」
桃絵はそれを聞いて、窓の外を見た。夜空が見えた。三角座があるあたりを、目が探した。
「その絵を描けば、帰れますか?」
「もしかしたらね。ただ、帰りたいかどうかは、君が決めることだよ」
「帰りたいかどうか……」
それは、まだ整理出来ていない問いだった。
日本には家族がいる。学校がある。美術の授業がある。コンクールがある。帰りたい気持ちはある。でも、帰ったあとの自分がどうなるか、想像しにくかった。また毎日が速く流れて、スケッチブックを持ってコンクールに向けて絵を描いて、入選止まりで悩む日々に戻るのか。
「少し、聞いてもいいですか?」
「どうぞ」
「エルデさんは、若いころに描くのをやめた。忘れた、とおっしゃられていました。それはなぜですか。評価されなかったからですか?」
村長は少し間を置いた。
「評価されなかった、というより……描いていいかどうか、分からなくなったんだよ」
「描いていいかどうか」
「旅人の絵を見て、描くことを始めた。でも、あの旅人のような絵は描けなかった。村人たちに見せても、反応はまちまちで。ある時、年上の人に、『絵を描くのに向いていない』と言われた」
「それで、やめたんですか?」
「すぐにはやめなかった。でも、だんだんと、描く前に考えるようになった。これは向いていない人間が描いていいものか、と。そのうち、鉛筆を持つのが億劫になった。それだけのことだよ」
桃絵は黙っていた。
「君が話してくれたことと、同じかもしれない。コンクールで評価されなかった。それで、自分の絵に意味があるのか、分からなくなった。わしも同じだった。向いていないと言われて、分からなくなった」
「向いていない、って言われてから、どれくらいで描かなくなりましたか」
「二年ほどかけて、少しずつ減っていった。一日おきになって、三日おきになって、一週間に一回になって、それから、気づいたらなくなっていた」
「今は、後悔していますか?」
村長はまた間を置いた。今度は少し長い間だった。
「後悔、かどうかは分からない。ただ、君が来てから、若いころのことを思い出すことが増えた。あのころ描いていた絵が、まだ残っているのを確かめた。君が描いているのを見ていると、何か懐かしい感じがする。それが後悔なのか、懐かしさなのか、区別がつかない」
桃絵は木の箱の絵を思い出した。三角座が描かれた、村長の若いころの夜空。あの絵は、評価されないまま木の箱の中にあった。でも、今も残っている。
「あの絵、木の箱に入れてたのはなぜですか?」
「捨てられなかったから。下手な絵だ。でも、捨てられなかった。なんとなく、とっておいた。それだけだよ」
村長は照れくさそうに伝えた。
捨てられなかった。
その言葉が、静かに桃絵の胸に落ちた。
「エルデさんの絵は、誰かに見せましたか?」
「君に見せた。それが初めてだ」
「五十年間、一度も?」
「一度も。でも、一人で見ることは、時々あった」
「一人で見る、か」
「それで十分だったのかどうか、今も分からない。でも、見るたびに、若いころを思い出した。あの旅人の絵を見た日を。描き始めた日を。夜空を見ながら、星に名前をつけていた夜を」
村長の目が、少し遠くなった。
桃絵はその目を見ていた。
五十年間、木の箱の中にあった絵は、誰の役にも立っていない。村の色を保つ力にもなっていない。でも、村長は捨てなかった。一人で時々開けて、見ていた。
「エルデさん」
「なんだい」
「私、少し前に、ルカと少し言い合いになったんです。自分にしか出来ないことがなくなると怖いって気づいて。それって、つまり、自分が必要とされていないと困る、ってことだと思うんですけど」
「そうだね」
「でも、エルデさんの絵は、誰かに必要とされていなかった。五十年間、木の箱の中にあって、誰も見ていなかった。それでも、エルデさんは捨てなかった」
「そうだよ」
「その絵は、意味があったんですか?」
村長はまた、少しの間があった。
「あったと思う。ただ、それは誰かが意味を決めたんじゃなくて、わしが時々開けて見ることで、意味があり続けていた、ということかもしれない」
「自分が見続ければ、意味がありますか?」
「かもしれないね。あるいは、描いた瞬間にもう意味があって、それ以上でも以下でもないのかもしれない。わしには分からない」
桃絵は飲み物の残りを飲み干した。温かかった。
「帰る前に、一枚描きたい絵があります」
「どんな?」
「まだ分からないです。でも、あります」
村長は静かに微笑んだ。
「焦らなくていいよ」
「はい」
「ただ、一つだけ言っておこう。帰っても、描き続けなさい。コンクールのためでも、誰かのためでも、それだけのためではなくて」
「何のために?」
「君のために」
「……」
桃絵は頷いた。
まだ、その言葉の重さを全部受け取れた気はしなかった。でも、否定する気にもなれなかった。
翌朝、桃絵はルカの作業場に行った。
ルカは今日も何かを削っていた。木の棒を、鑿で整えている。
「昨日、エルデさんと話しました」
「そうか」
「帰れるかもしれないって」
ルカは手を止めた。
短い沈黙があった。
「そうか」
「ルカは、どう思う?」
「帰れそうなら帰ればいい」
いつもと同じ声だった。
「それだけ?」
「それだけじゃないけど、俺にはそれしか言えない」
「ルカが言えないことは、どんなこと?」
ルカはまた少し黙った。木の棒を手の中で回した。
「いてほしい、とは思う。でも、それはもの的に言えることじゃない」
「もの的、って?」
「桃絵は、帰るべきところがある。俺には言う権限がない」
桃絵はルカを見た。静かな顔だった。でも、いつもより少しだけ、目が固い気がした。
「ルカ、最近、笛は作った?」
「先週、子どもに渡した」
「音、出た?」
「出た」
「良かった」
「桃絵が見たかったかもしれないな。渡す時、子どもが吹いたら音が出て、すごく喜んでた。見せたかった」
「見たかったな。見せてほしかった」
二人は、しばらく黙っていた。
作業場の外で、風が吹いた。葉が揺れる音がした。
「また笛、作る?」
「作る」
「次は、見せてくれる?」
「帰る前に間に合えば」
その言葉が、「帰る」という現実を、少し具体的にした。
桃絵は胸の奥が、じわりとなるのを感じた。悲しい、とまでは言えないけれど、何か重いものが動く感じ。
「帰るのが、怖い」
桃絵は気づいたら声に出ていた。
「なんで」
ルカは責めるでもなく、ただ聞いた。
「帰ったら、また一人になる気がして。絵を描いても、誰も好きって言ってくれなくて、コンクールで評価されなくて、自分の絵に意味があるかどうか分からないまま描き続けるのが、また怖くなりそうで」
「ここでも、そうだったじゃないか。桃絵は、描けない時間もあったし、役に立てるか不安な時間もあった。でも、今、少し違う顔で描いてる」
「違う?」
「前より、見てる顔してる」
桃絵はその言葉を、繰り返した。
「見てる顔?」
「前は、描こうとしてる顔だった。今は、何かを見てから描いてる顔だ」
違いがあるように聞こえる。でも、桃絵には、そのどちらが正しいのかまだ分からなかった。分かっていなかったけれど、ルカがそう言ったことは、なぜか信じられた。
「ルカは、私が描いているのを、ちゃんと見ていたんだね。ありがとう」
「礼は、いい。桃絵が描いてるのを見るのは、俺が好きでやってることだから」
桃絵は笑った。
小さな笑いだったが、本物だった。
ルカも、ほんの少し、口の端が上がった。桃絵がリネラに来てから、ルカが笑ったのを見たのは、初めてかもしれなかった。
☆
その夜、桃絵は窓を開けて、星を見た。
三角座を探した。
今夜は少し高い位置にある。季節が動いているのかもしれない。
スケッチブックを開いた。
今日は、描きたいと思うものが、はっきりとあった。
ルカの横顔。ミリィが木の揺れを語ってくれた時の声。ガルドの、土を握る大きな手。ヘルダの、雑貨屋の前で笑う顔。橋のたもとで欄干に手を置いた瞬間の、石の冷たさ。川の水面の光。白い幹の木と、二種類の揺れ方。村長の木の箱と、その中の三角座の絵。
全部、描ける気がした。
全部、描く必要はないかもしれない。
でも、全部が、ここにあった。
桃絵は鉛筆を持った。
まず、三角座を描いた。名前をつけた星座。五十年前にも誰かが描いていた星座。村長の箱の中にもあった星座。
描きながら、指先にあの感覚があった。
かつてないくらい、はっきりした感覚だった。
ページの上の星が、一つ、瞬いた。
今度は、桃絵が気づいていた。
消えた。でも、確かにあった。
桃絵は続けた。三角座の周りに、ほかの星たちを置いていった。天の川の流れを描いた。月のない夜だったから、星が近かった。全部の星に、名前まではつけられない。でも、ここにある、と思いながら描いた。
描き終えて、桃絵はページを見た。
村長の箱の中の絵と、今日の自分の絵が、頭の中で重なった。
同じ空を、違う人間が、違う時代に描いている。でも、同じ星座がそこにある。
描いた人間が帰っても、消えても、星座はそこにある。絵の中に、星座がある。
それが何を意味するのか、まだ全部は分からない。
でも、桃絵はこの絵が好きだった。
上手いかどうかではなく、コンクールに出せるかどうかでもなく、ただ、好きだった。
この感覚を、忘れないようにしよう、と思った。
帰っても、この感覚だけは、持ち帰ろうと思った。




