第十章 ルカとの喧嘩、ミリィの涙
川を描いた日から、桃絵は少しずつ描けるようになっていった。
でも、以前とは少し違う感覚だった。
以前は、描きたいから描いていた。今は、描きたいからも描いているが、どこかで「これで本当にいいのか」という問いが消えていなかった。村の色が薄れている問題は解決していない。橋は戻りかけているが、見張り台はまだ白い。ほかにも色あせている場所がある。
そんなある朝、桃絵が橋に行くと、ルカが欄干の前にしゃがんで、小さな鑿を使って何かを彫っていた。石の欄干の表面に、少しずつ線が戻っていくのが見えた。蔦のような、形。実のような形。
「ルカ、何してるんですか?」
「模様を彫ってる」
「橋の?」
「もとはこういう模様だったはずだから、戻してる」
「どこから分かったんですか? もとの模様が」
「村に古い記録があった。橋が作られた時の記録に、模様の絵が残ってた」
桃絵は欄干を見た。ルカが今彫っているところの隣に、ほんのわずかだが、色の温かみが戻っていた。昨日よりも少し、石の元の色が見えていた。
「自分が彫ったら、色が戻るかと思って」
「戻ってる気がします。ここのあたり」
桃絵は隣の部分を指さした。
「そうか」
「ルカって、こういうことも考えてたんですね」
「何を」
「村を助けること」
ルカは手を止めて、桃絵を見た。少し間があった。
「桃絵ばかりが考えることでもない。桃絵が描けない時、他のことで出来ることをやればいい」
桃絵は何か言いたかったが、しばらく言葉が出なかった。
「私が描けないことを、責めてないんですか?」
「責めても仕方ない。鑿で木を削るのと同じだ。削れない日は、磨く。磨けない日は、見る。それだけだ」
「それだけって」
「桃絵は今日、橋に来た。それだけで今日はいい」
桃絵は欄干に手を置いた。石は冷たかったが、ルカが彫った部分の近くは、少しだけ温かく感じた。
そのあと、少し黙って二人で立っていた。川の音がした。
名前がある橋だと思うと、少しだけ大事に見えた。
一枚一枚を描くたびに、手は動く。でも、それで足りているのかどうか、分からなかった。
そういう状態で、ルカと初めて言い合いになった。
きっかけは些細なことだった。
ある夕方、作業場でルカが今日作った小箱を見せてくれた。蓋の部分に細かい彫刻が入っていて、桃絵には見慣れない模様だった。星のような形と、蔦が絡んだ形が交互に並んでいる。
「これ、どこかで見た形に似てる」
「橋の欄干の模様と同じだ。削って作ってみた」
「橋の模様を?」
「欄干の色が薄れてから、模様が見えにくくなった。だから覚えておこうと思って、小箱に彫った」
桃絵はその小箱を見た。
ルカが、自分なりに橋を覚えようとしていた。絵ではなく、木工という形で。
そのことが、なぜか桃絵には少し、複雑だった。
良いことだと分かっていた。ルカは橋のことを覚えようとしている。それは大事なことだ。でも、どこかで「私がやるべきことを、ルカにさせてしまっている」という気持ちが生まれた。自分が描けないでいる間に、ルカが代わりに何かをしている。
「ルカは、私が描けないと思って、自分が代わりにやったの?」
ルカが少し目を細めた。
「代わり、じゃない。やりたかったから作った」
「でも、結果として橋の模様を残そうとしてる。それって、私がやるべきことじゃないの?」
「誰がやるべきとか、決まってない」
「でも、私が描けば村の色が戻るって村長が言ってて、私が描けないでいるから、村が困ってて」
「困ってない」
短い否定だった。桃絵はそこで少し、止まった。
「困ってないって、どういうこと。色が薄れてるのに」
「色が薄れてるのは困ってる。でも、桃絵が描けないことで困ってる人は、この村にいない」
「いない? でもエルデさんは」
「村長は、桃絵に描いてほしいと思ってる。でも、描けないことを責めてない」
「ルカはどう思うの?」
桃絵は少し声が強くなっていた。
「私が描けないでいることを。正直に言って」
「正直に言えば……」
少し間があった。
「早く描ける状態に戻ってほしい。でも、それは桃絵のためだ。村のためじゃない」
「村のためじゃない?」
「桃絵が描けないでいるのを見てると、なんか重そうだ。描けないことより、描けないことを責めてることの方が、しんどそうに見える」
桃絵はしばらく黙った。
「だから、私が責めてないってこと? 私が自分を責めすぎってこと?」
「そう言ってる」
「でも、村の色が薄れてるのは、現実に起きてることで」
「起きてる」
「それを何とか出来るのが私だって言われて」
「言われた」
「なのに、描けなくて」
「描けない」
桃絵は息を吸った。
ルカは全部、短く肯定していた。それが余計にもどかしかった。
「ルカはなんで、そんなに冷静なの?」
「冷静じゃない。ただ、責めても意味がないと思ってる」
「責めなかったら変わらない」
「責めたら変わる?」
桃絵は、答えられなかった。
責めたら描けるようになるか、と聞かれたら、ならない、と思う。
一ヶ月以上、自分を責め続けて、描けない時間の方が長かった。
「……分かった。ごめん」
「謝らなくていい」
「いや、八つ当たりした。ルカが何かしたわけじゃないのに」
「八つ当たりはしてない。桃絵が思ってることを言っただけだ」
桃絵はルカの顔を見た。静かな目だった。怒っていなかった。ただ、まっすぐに見ていた。
「私、何が嫌だったんだろう。ルカが橋の模様を彫ったことに、なんか反応して」
「桃絵にしか出来ないことがなくなるのが、怖かったんじゃないか」
「そうかもしれない」
もし自分じゃなくても村が守れるなら、自分がここにいる意味は何か。
その問いが、ずっと底に沈んでいた。
☆
翌日、ミリィが泣いているのを見た。
川沿いの木の根元で、膝を抱えて、小さな肩が震えていた。桃絵が近づくと、顔を上げた。目が赤かった。
「どうしたの?」
「……川の木」
「ワタシの家の木。今朝、触ったら、幹の色がほとんどなくなってた」
「え」
「葉は、まだある。でも幹が、白い。真っ白。もう模様もない」
桃絵は川を見た。白い幹の木が見えた。確かに白かった。遠くからでも、存在感が薄く見えた。
「ミリィの家が、なくなるの?」
「なくなるわけじゃないと思う。でも、好きな木だった。枝の形が好きで、葉の揺れ方が好きで。そういうのが、少しずつ薄くなってく感じがして」
桃絵はミリィの横に座った。
何か言いたかったが、言葉が出なかった。ごめん、と言いたかった。自分が描けないでいるせいで、ミリィの家の木が薄れているのかもしれない。でも、ごめんと言っていいかどうかも、分からなかった。
「描いてほしい、とは言わない。それはももえが決めることだから。でも、ちょっと悲しくて」
「うん」
「好きだった木が、薄くなるのが、悲しい」
「うん」
二人で、しばらく並んで座っていた。
川の音がした。鳥が鳴いた。ミリィが鼻を啜った。
「ミリィ」
「なに」
「その木、どんな枝の形をしてた? どんなふうに揺れてた?」
ミリィは少し考えた。
「右の方に大きく張り出してる枝があって。そっちは重いから、風が吹くとゆっくり揺れるの。左の方は細い枝が多くて、風が吹くとすぐに揺れる。二種類の揺れ方が同時に起きて、面白い感じがする」
「面白い感じ」
「右のがゆっくり揺れてる間に、左のはもう止まってたりするの。テンポがずれてて、なんか音楽みたい」
桃絵はスケッチブックを取り出した。
「見ながら描くのは難しいかもしれないけど、今の話をしながら、木を見ててくれる?」
ミリィはうなずいた。
二人で木を見る。
ミリィが話してくれる揺れ方を耳で聞きながら、桃絵は線を引いた。
右に大きく張り出した枝。そこから下がる重そうな葉の束。左の細い枝。葉が軽そうに散らばっている様子。幹の白さは、鉛筆では表現しにくかったが、輪郭の線を丁寧に引いて、内側をあえて少しだけ残した。
描きながら、ミリィはずっと木を見て、揺れ方の話をした。
風が来るたびに、
「ほら、右がゆっくり動いた」
「左はもう止まった」
と言い続けた。
それを聞きながら描いていたら、指先に感覚が戻ってきた。
強い感覚だった。今までで一番はっきりした、あの感触。
描き終えて、桃絵はミリィを見た。
ミリィは木を見ていた。その目が、少し変わっていた。泣いていた目が、落ち着いていた。
「描けた。気配、感じた」
「うん」
「ありがとう」
「ミリィが話してくれたから、描けた」
「じゃあ、ワタシがありがとう言う理由ないじゃん」
ミリィは笑った。小さな、でも本物の笑顔だった。
「でも、ありがとう」
「……どういたしまして」
桃絵はスケッチを見た。白い幹の木。右に張り出した重い枝。左の細い枝。
上手いかどうかは分からない。でも、ミリィが話してくれた木が、ここにある気がした。
木を見ると、幹がほんのわずかに、温かみを帯びていた。真っ白ではなくなっていた。完全には戻っていない。でも、何かが動いた。




