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色のない世界に、絵を描く ―スケッチブックから始まる異世界の村暮らし―  作者: 明石竜


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第九章 村長の部屋にある絵

 翌朝、桃絵は村長に会いに行った。

 用件は、一つだった。

「エルデさんが、若いころ描いていたというのは、どんな絵でしたか?」

 村長は少し驚いた顔をしてから、台所に招き入れてくれた。


 お茶が出てきた。窓から朝の光が入っていた。

「なぜ急に」

「昨夜、役に立たないものを描いてしまって。村の色あせとは関係のない絵を。でも、それが久しぶりに手が動いた絵で。それで、村長の話を聞きたくなって」

 村長は少しの間、お茶を飲んでいた。

「見せようか」

「え?」

「わしの絵を。捨ててはいないから」

 桃絵が頷くと、村長は立ち上がって、奥の部屋に入った。しばらくして、木の箱を持って戻ってきた。古い箱で、蓋に文字が彫ってある。桃絵には読めない言葉だった。

 村長が蓋を開けると、中に紙が何枚か畳まれて入っていた。

「広げていいですか?」

「どうぞ」

 桃絵は一枚ずつ、丁寧に広げた。

 最初の一枚は、村の風景だった。石畳の道と建物の並び。稚拙な線で、遠近法が少し狂っていたが、村の雰囲気はある。建物の窓に、小さな花の鉢が描かれていた。

 二枚目は人物。老婆と、後ろ向きの男の子。おそらく村人を描いたものだろう。老婆の顔の描写が細かく、皺一本一本がていねいに引かれていた。

 三枚目は夜空。

 桃絵は、その絵を見て、手が止まった。

 拙い絵だった。星の配置もあやふやで、天の川の流れもざっくりしている。でも、紙の右下に、小さく、星座が一つ描かれていた。

 三角形が二つ、重なった形。

 三角座だった。

「これ。この星座、エルデさんが描いたんですか?」

「そうだよ。若いころ、この村に来た旅人の絵を見て、自分でも描くようになったと言っただろう。あの旅人が、夜空の絵を描いていた。その星座が、忘れられなかった」

「三角座、というんですか?」

「誰が名付けたか知らない。でも、そう呼んでいた」

 桃絵の胸が、不思議な感じで満ちた。

 自分が来る前から、あの星座はここにあった。自分が名付けたと思っていたが、村長も同じ名前で呼んでいた。

 もしかしたら、ずっと前から、その名前があったのかもしれない。

「この旅人というのは、どんな人でしたか?」

「若い人だった。君と同じくらいの年齢に見えた。スケッチブックを持っていた」

 桃絵は村長の顔を見た。

「……私と、同じですか」

「ほぼ同じだった。あの人も、コンクールとかそういうもので疲れていると言っていた。自分の絵に意味があるのか分からないと」

「それで、どうなったんですか? その旅人は」

 村長は少し間を置いた。

「帰った。しばらくこの村で過ごして、帰っていった。その時、描いた絵を一枚だけ置いていった」

「どんな絵を」

「夜空だよ。三角座が描かれた夜空。それが、今もわしの部屋にある」

 桃絵は木の箱の中を見た。今広げた三枚は村長自身が描いたものだ。旅人が置いていった絵は、どこにあるのだろう。

「見せてもらえますか?」

「見せよう」

 村長はまた奥に入った。今度は、額に入った小さな絵を持って戻ってきた。

 桃絵は受け取って、見た。

 夜空だった。

 丁寧に描かれた絵で、鉛筆の線が細く、星の一つひとつが丁寧に置かれていた。天の川の流れが柔らかく、右上にひときわ明るい星がある。そして左下に、三角座。三角形が二つ、重なった形。

 桃絵のスケッチブックの夜空の絵と、ほとんど同じ構図だった。

「この絵。この旅人が来たのは、いつですか?」

「五十年ほど前だよ」

 村長から伝えられると、桃絵は無言で絵を見た。

 五十年前に、誰かがこの星座を描いた。その絵が、今も村長の部屋にある。五十年前に描かれたものが、今もここにある。それが何を意味するのか、桃絵にはまだ言葉に出来なかった。でも、何かが、胸の奥で静かに動いた。

「この旅人の人は、自分の絵に意味があると分かって帰ったんですか?」

「分からない。帰る時、まだ迷っているような顔をしていた。でも、最後に一枚描いてから帰った。それだけは分かる」

「最後に一枚」

「この絵だよ」

 桃絵は額の絵をもう一度見た。

 迷いながら描いた絵が、五十年間、この部屋にある。

 誰かの迷いが、五十年間、ここに残っている。


 村長の家を出て、桃絵は村を歩いた。

 考えながら歩いていたら、気づかないうちに橋のたもとまで来ていた。

 色が少し戻った橋。欄干に、うっすら模様の痕が残っている。完全には戻っていないけれど、あの時、桃絵が描いたあの一枚が、何かを変えた。

 今も変わらずそこにある。

 桃絵が描いたスケッチは、スケッチブックの中にある。でも、橋に残った変化は、スケッチブックの外にある。

 役に立てようとして描いた絵は、固かった。でもルカが川を見ていると言ったから見に行って、見たから描いた絵は、何かを変えた。

 違いは何か。

 見たかったから描いた。

 それだけだ。

 でも、それだけで十分なのかどうか、まだ分からなかった。

 自分でも何が足りないのか、うまく言えなかったけれど。

 欄干に手を置いた。石は冷たかった。でも確かにそこにあった。

 桃絵はスケッチブックを取り出した。

 今日は描けるかもしれない、と思った。橋を見ているうちに、手が動きたくなってきていた。でも今日は橋ではなくて、川を描こうと思った。橋から見える川を。流れを。水の色を。

 川は、この世界に来てからずっとここにあった。でも一度も描いていなかった。

 なぜ今まで描かなかったのだろう。

 特別なものでも、珍しいものでも、色あせているものでもなかったから。ただの川だったから。

 でも、この川の水音は、リネラでの最初の朝から毎日聞いていた。眠れない夜には特に聞こえた。静かな夜の川の音が、少し、日本の自分の部屋の近くを流れていた用水路を思い出させた。懐かしいような、遠いような、不思議な音だった。

 川を見た。

 水面が光っていた。朝の光を反射して、細かくゆれている。一つひとつの光の点が、違う形で揺れていた。

 描いた。

 役に立つかどうかを考える前に、手が動いていた。


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