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色のない世界に、絵を描く ―スケッチブックから始まる異世界の村暮らし―  作者: 明石竜


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第一章 スケッチブックの向こう側

 初夏の夕暮れ。駅前の交差点。

 帰り道の人波のなかで、高校一年生の木村桃絵だけが足を止めていた。

 脇に抱えた黒いスケッチブックは、角が擦れかけている。

 開く気になれなかった。

 

  不意に、風が吹いた。

 

 ページが、ぱらりとめくれる。

 夜空の絵だった。眠れない夜に描いた月と星。

「あっ――」

 手を伸ばした瞬間、紙が風にさらわれた。

 信号は、まだ赤だった。

 一歩、踏み出す。

 次の瞬間、足元の感触が消える。

 落ちる、と思った。 

 風の音だけが耳を満たす。そして、目を開けた時――空が、異様に高かった。

 次に感じたのは、草の匂いだった。

 その次に、日差し。日本の春の日差しより、少しだけ白っぽい。

 そして、土の感触。桃絵は地面に膝をついていた。

 頭を上げると、丘の中腹にいた。斜面には低い草が生えていて、下の方に石畳の道が見える。その先に、こじんまりとした建物が数軒並んでいた。石造りの壁、赤茶色の屋根。木の扉。窓際に花の鉢。

 日本の田舎ではない。ヨーロッパの絵本にあるような、でもそれよりもっと素朴な、小さな村だった。

 桃絵は膝立ちのまま、しばらくそこに止まっていた。

 すぐには立ち上がれなかった。

 立ち上がったら、何かが決まってしまう気がした。

 だから、膝をついたまま、風の音を聞いていた。

 空は、青い。日本の空と同じ色なのに、どこか透き通って見える。雲が二つ、ゆっくりと流れていた。

 光があり、重さがあり、草の匂いがする。

 それだけで、世界はちゃんと続いているようだった。


 桃絵は、ゆっくりと立ち上がった。

 膝には土がつき、スカートの裾が草で汚れている。

 爪の間に、細かな土が入り込んでいた。

 痛みは、ない。転んだというより、置かれたような感覚だった。

 丘の上には森があり、下には川が流れている。

 石畳の道が、橋を渡って村の方へ続いていた。

 鳥が二羽、空を横切る。種類は分からない。ただ、鳥だった。

 それだけで、少し息がしやすくなった。


 足元に、スケッチブックが落ちていた。

 拾い上げると、夜空のページが開いたままだった。

 月と星のスケッチ。

 眠れない夜に描いたもの。


 信号待ちをしていた。

 風が吹いた。

 それ以外に、思い当たることはない。

 それでも今、ここにいる。

 草の感触は生々しく、泥は制服に残っている。

 桃絵は、手のひらを見た。しわの間に、土の粒が残っている。

 風だけが吹き、丘の草が波打った。

 きれいだ、と桃絵は思った。

 スケッチブックを胸に抱え、息を整える。

 深く、ひとつ。

 視線の先に、村があった。

 人がいる。それだけが、今分かることだった。

 桃絵は、丘を下り始めた。


          ☆


 石畳の道に出ると、ニワトリが一羽、のんびり歩いていた。

 桃絵を見ても逃げない。

 首を傾け、じっと見てから、「クッ」と短く鳴き、何事もなかったように通り過ぎる。

 桃絵は、そこで初めて息を吐いた。

 ニワトリは数歩進んで、ふいに戻ってきた。

 今度は、桃絵の足元をじっと見つめる。

「……何?」

 首が、右へ、左へ、揺れる。つられて同じ動きをしてしまい、ハッとした。

 何をしているのだろう。

 ニワトリは満足したように、また歩き去った。

 どこか、通学路で見かけていた猫に似ている。

 逃げもしないし、近づきもしない。

 ただ、そこにいる。

 桃絵は、もう一度だけ小さく息を吐いた。


 村の入口には、丸太を削った看板があった。

 文字は読めない。けれど、意味は伝わってくる。

 言語というよりは記号に近いデザインで、見ているうちに「ここは村だ」という意味だとなんとなく理解出来てきた。

 絵を長く描いていると、形から意味を読み取る癖がつくのかもしれない。

 村の中に入ると、数人の住民が目に入った。

 最初の一人は、背の低い老婆で、大きなかごを抱えて歩いていた。桃絵を見て、目を丸くした。

「おや」

 日本語だ……今、日本語だったよね?

 桃絵は声をかけようとしたが、その前に通り過ぎてしまう。

 二人目は、石造りの建物の前で木箱を運んでいた若い男だった。茶色い髪で、耳が尖っている。猫の耳、ではなくて、犬に近い形の大きな耳が頭の上に生えていた。

 獣人、という言葉が桃絵の頭に浮かぶ。見た目は十六か十七歳くらい、自分と同じくらいの年齢に見えた。

 彼は桃絵を見ると、静かに足を止めた。

 敵意はない。ただ、確かめるような視線。

「……こんにちは」

 桃絵が恐る恐る挨拶をすると、一拍置いて、うなずきが返る。

「……来た」

「え?」

「外から、来た人」

 視線が、桃絵のスケッチブックに移った。

「それ、持って」

「あ、はい」


 短い沈黙。


「村長に、連れて行く」

 拒否の余地はなさそうだった。

 桃絵は頷いた。

「あ、お願いします」


 こうして桃絵は、村長の家へ案内されることになった。

 村長の家は、村の中央にある二階建ての石造りの建物だった。入口に古い木のベンチがあって、たくさんの草花が軒先から吊るされていた。ラベンダーに似た紫の花が、風に揺れている。香りは少し甘くて、草っぽい。桃絵には嗅ぎ慣れない匂いだったが、嫌いではなかった。

 扉をノックすると、しばらくして、白髪の老人が出てきた。

 背が高く、腰は少し曲がっているが、目が明るかった。深い皺の中に、笑い皺が混じっている。黒いコートのような服を着て、手に太い杖を持っていた。

「エルデ村長、外から来た人です」

 獣人の少年が伝える。

 村長は桃絵を見て、一瞬だけ目を細めた。何かを確かめるような表情だった。

「やあ。よく来たね。迷い込んだのかい?」

「……たぶん、そうだと思います」

「スケッチブックを持って?」

「はい」

「ふむ。入りなさい。話をしよう」


 台所のような部屋で、桃絵はお茶を出された。

 見慣れない葉のお茶だった。

 甘くて、あとからわずかに苦みが残る。

 一口飲むと、肩の奥に溜まっていた力が、ゆっくり抜けていくのが分かった。

 カップを両手で包みながら、室内を見回す。

 棚には瓶が並び、乾燥した植物が束になって吊るされている。

 古いテーブルの木目が、やけにきれいだった。

 窓の外から、柔らかな光が差し込んでいる。

 ホッとした途端、喉の奥が少し詰まった。

 知らない場所で、知らない人に迎えられて、温かいものを出されただけなのに。

 桃絵は、泣きそうになる前に、もう一口飲んだ。

 そのまま、カップを見つめる。

 ――変なもの、入ってないよね。

 そう思ってしまった自分に、少し苦笑した。

 親切そうな顔しか見ていないのに。

 それでも、異世界だ。

 もう一口飲んだ。さらにもう一口。

 ……美味しい。

 もし何か入れるなら、こんな味にするだろうか。

 そんなことを考えながら、結局飲み干していた。

「少し顔色が悪いね。怖かっただろう」

「あ、いえ……」

 言葉を探して、結局やめた。

 村長は、それ以上聞かずに微笑んだ。

 カップは空になった。体に変わった感じはない。

 ただ、少しだけ、呼吸が楽になっていた。


「ここは、どこですか?」

「リネア地方の、リネラ村だよ」

 それだけ言って、村長は湯気の立つカップに視線を落とした。

 窓の向こうで、川の音がしていた。

「……別の場所、ですか?」

「そうだね」

 肯定とも否定ともつかない返事だった。

「帰れる、ということですか?」

 村長は、すぐには答えなかった。

「帰れた人もいる」

 それだけだった。

「私は……帰れますか?」

 帰れるかどうかより、帰る時の私は何を持っているのだろう、と思った。

 村長の視線が、桃絵の膝の上に移った。

「君は、スケッチブックを持ってきた」

 桃絵は、少し考えてからうなずいた。

「信号待ちで、風が吹いて……ページが勝手にめくれて。夜空の絵が開いたところで、落ちた気がします」 

「ふむ」

 村長は、ゆっくりとうなずいた。

「その絵が、ここに触れたんだろうね」

「……どういう意味ですか?」

「説明出来たら、楽なんだけどね」

 村長は、穏やかに笑った。

「今は、ここで暮らしなさい。食事と寝床はある。困ったことがあれば、言えばいい」

 あまりにも自然な言い方だった。

 桃絵は、村長の顔を見た。優しそうで、警戒する理由が見つからない。

 だからこそ、少しだけ、落ち着かなかった。

「一つ、聞いてもいいですか?」

「どうぞ」

「外から来た人は……皆、何か持ってきましたか?」

 村長は、ほんの少しだけ考える素振りを見せた。


「スケッチブックは、久しぶりだよ」


 それ以上は、何も言わなかった。

「さ、部屋を案内しよう。今日はゆっくり休みなさい」

 こうして、桃絵のリネラでの生活が始まった。

 部屋は二階の端にあった。村長が扉を開けると、小さな室内に、夕暮れ前の柔らかな光が差し込んでいた。木の床に、厚みのある布を重ねたベッド。窓には薄いカーテン。壁に古い釘が一本打ってあって、そこに何かを吊るせるようになっていた。

「タオルは棚の中にある。夜は冷えるから、布はもう一枚追加出来るよ。何か足りなかったら言いなさい」

「はい、ありがとうございます」

 村長が出ていったあと、桃絵はベッドに腰を下ろした。


 その夜、桃絵はなかなか眠れなかった。

 用意してもらった部屋の窓を開けると、夜風が入ってきた。

 昼間より少し冷たくて、草の匂いがする。

 空を見上げた。

 星が多い。数える気にならないくらい、散らばっている。

 スケッチブックを膝に置いたまま、しばらく動けずにいた。

 描こうとは思わなかった。ただ、見ていた。

 ふと、今日、学校であった出来事を思い出す。

 ――木曜日だった。

 コンクールの結果発表は、いつも昼休みに掲示されて、放課後まで人だかりが出来る。

 美術室の前の廊下。壁に貼られた一覧表を、少し離れたところから見た。

 近づく気にはなれなかった。

 今年も同じだと、なんとなく分かっていたからだ。

 それでも、目を逸らしたまま帰るのは、出来なかった。

 深く息を吸って、歩いた。


 県展・入選。

 一年・木村桃絵。


 入選。

 去年と同じ文字だった。

 落選ではない。

 でも、賞でもない。

 中一の頃から、ずっと同じだった。

 名前はあるのに、どこにも届いていない感じがした。

 

「よく描けてたよ」

 顧問の声が、少し遠くで聞こえた。

 よく描けている絵は、ここで止まる。

 そう言われた気がして、桃絵は何も返せなかった。

 駅までの道を、スケッチブックを抱えて歩いた。

 中には、誰にも見せない絵が詰まっている。

 猫。雲。夜空。手のデッサン。

 描いている時、手が止まらなかった絵ばかりだ。

 信号待ちで、風が吹いた。


 ――そこで、記憶は途切れている。


 桃絵は、窓の外の星に視線を戻した。

 ここには、一覧表もない。

 評価も、順位も、貼り出されない。

 ただ、空がある。

 スケッチブックを、そっと抱え直す。

 入選、という言葉は、ここまでは追いかけてこなかった。

 スケッチブックを膝に乗せる。

 開かない。ただ、手の中にあることを確かめる。

 今は、それで十分だった。

 開いたら、また好きになってしまう気がした。


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