#20
「うみぃ……お母さん、ホントに厳重にしまってるんだから」
息を切らして駆け込んだ家は、不気味な程に静かだった。
母の部屋の奥、隠すように置かれていた衣装箱を開け、シシィはホッと安堵の息を吐く。
そこに入っていたのは、紛れもなくナルムのお母さん――ユリシィさんが使っていた衣服だった。
――本当に綺麗で、優しく、愉快な人だった。
将来、こんな女性になりたい。そう思える憧れの女性だった。
その人の大事な思い出が、人知れず焼かれてしまうかもしれない、失われてしまうかもしれない――。それだけは、それだけは絶対に嫌だった。
何より、きっとナルムが悲しむ。アイツは意地を張って、強がるだろうけど、誰より怖がりで、泣き虫なアイツに、そんな無理はさせたくない――。
転生者様を迎えに行ったり、自分以外のためだったら、どんな無茶でも無理でもするアイツだから。
「んしょ……」
リュックに丁寧に畳んだ衣服を入れ、背負ったケモノ人の少女は、恐怖にすくみそうな脚を、喝を入れるように、パチンと叩く。
ケモノ人の脚力を用いた全力疾走なら、避難所まで数分とかからない。どんな大怪獣からでも逃げきってみせる……!
意を決し、シシィは開けっ放しにしてあるドアの方向へと走り出す。だが、
「んみ……!?」
霧が、視界を塞ぐ。四肢にまとわりつくような、高濃度の霧が、開け放しのドアから入り込んでいた。
シシィの半獣人の本能が悟る。
これは、最大級の"危険"だと。
「な、なにコレ……!?」
駆け出した脚が速度を上げ、霧の中に蠢く何かを振り切らんと全力疾走を開始する。だが、霧に潜む、禍々しきモノが、それを許すはずがない――。
「きゃっ……!?」
軟質の殻という、矛盾した物体が目前に生え、全力疾走していたシシィの身体は、弾き飛ばされる……!
ケモノ人の反射神経と敏捷性が、シシィに、ふわりと受け身をとらせ、幸い、全身を強打するような事態は、避けられた。
しかし、視界に捉えた、おぞましきモノが、シシィの息を詰まらせる――。
「ま、魔物……? かい、じゅう……?」
どちらでもない。それは実に単純な生物のように思えた。伸び縮みする軟質の殻に覆われた、その柱の如き生物は、先端から触手のような器官を伸ばし、周囲に存在するであろう"獲物"を探していた。
――視覚や聴覚は有していないのだろう。原始的な生物だ。だが、それ故に、単純に"危険"だ。
「ひっ……!」
異変を察知し、家屋から逃げ出そうとした鼠が触手に触れた刹那、容赦なく刺し貫かれる。
言うなれば、これは生命狩る装置。霧の中にある生命を探知し狩る、凶悪な――。
「あ……ああ……」
極限の恐怖に、勝ち気な少女の判断力はひび割れ、怯えた脚は、無軌道に走りだそうとしていた。――そして、それはいま、無残に刺し殺された鼠と同じ選択だ。
「うあぁ……! うみっ!?」
が、走り出そうとしたシシィの腕を、何者かが掴み、その無謀な疾走を阻んでいた。体勢を崩したシシィの身体を左腕で支え、駆け付けた彼は、手にした"精霊式棍棒"を振るう……!
「ナ、ナルム……!」
「うみゃああああ……ッ!」
ナルムの肉球が柄のスイッチを押すと同時に、充填された風の精の力が、先端部から放出され、霧を吹き飛ばす。
自らを包む霧を失った生物は、突如として動きを止め、その隙を突いて、ケモノ人の少年少女は走り出す……!
「ナ、ナルム……! ご、ごめん……!」
「オイらのためなんかに無茶すんな‼ いまは……!」
逃げることだけ考えろ‼
ナルムは叫び、シシィとともに避難所に向け、疾走する。
ナナシと交戦中のグルネブラによる土砂崩れの影響で、滅茶苦茶になった山道を、抜群の嗅覚を頼りに、二人は遮二無二、走り続ける……!
だが、
【―――――――――――】
「なっ……あっ……」
二人の必死を嘲笑う、蒼い悪意が、そこに待っていた。
それは、"絶望の卵"より孵った、最凶最悪の災厄。
その外骨格から蒼い粒子とともに放出される霧が、あの生命を狩るおぞましき装置を、際限なく呼び寄せていた。
(こ、コイツは――)
――ゼルメキウス。この幻想世界における、最大の脅威が、幼い少年少女の前に立ち塞がっていた。




