第二十一話 「あるかないか その六」
清子が小屋から出ると、青柳は若木の前に立っていた。
手にはあの依代だけが握られていて、ボウルは持っていない。
清子が青柳のそばに目を凝らすと、彼女の足下が濡れていて、そこに砕けた透明の欠片が散らばっていた。
割ってしまったのだろうか。
そう思いつつ清子が眺める地面には、次々と雫が落ち音を立てている最中だ。
その雫の先を目で追うと、青柳の腕がある。
びしょ濡れだ。
「あの、大丈夫ですか?」
どこか放心しているように見える青柳に清子が声を掛けると。
「…………」
青柳は何か恐ろしいものでも見るような目つきで清子を見ていた。
何か言いたげだということは気配で伝わってくるが、青柳は何も言おうとしない。
不気味な空気が漂っていた。
「あの……」
一応清子が声をかけるも、青柳は無言のまま踵を返し家の裏口へ行ってしまった。
◯
二人が家に戻ると、僅かに酸味を感じる芳ばしいコーヒーの香りが漂っていた。
善と鈴希はダイニングテーブルに隣り合って座っており、それぞれの前にはいかにも高級そうなデザインのカップがソーサーなしで置かれていて、その間には例の紙切れが一枚無造作にある。
「ずいぶん早かったですね」
善が言って二人を向き、カップに口をつけた。
「まあね」
青柳は適当に返事をすると、キッチンの奥へ行き、ワインセラーから一本ボトルを取り出すと、置きっぱなしのソムリエナイフを手に取ってそのまま白い石製のワークトップで開け始める。
清子がそれを、久しぶりだ、と思ったのは、ナイフがワインボトルの首をなぞる光景を以前はわりと頻繁に見ていたからだ。
とはいえ、プロの手さばきを見たのは数回だけ。ほとんどは、文博が家でするものばかりだった。
初めはシールを上手く切り取れず結局ハサミを使ったりしたものだが、何度か遊んでいる内文博は随分様になっていた。
いつからかワインを買って帰ってくることもなくなり、だからいつからか、清子もワインを飲まなくなった。
清子が過去のことに少し耽っている間に青柳はコルクを抜き終え、吊り棚の底にぶら下げられていたワイングラスを取り、ボトルの中身を注いでいた。
先が透けて見えないほど濃い赤色の美しいワインだ。その色味は、青柳の唇に乗ったリップの色に似ている。
「それで、どうでした。儀式は」
善の質問に答える前に、青柳はグラス半分のワインを一口に飲み干す。
「……お気に入りの卵が割れたの」
青柳が言うと、善が訝しげな顔をする。
「お気に入りというと、あの水晶のですよね。それが?」
「そう。死ぬまで使うつもりだったのにさ」
そう言って青柳は疲れたように、はあ、と息をもらした。
「あの、私のせいですよね……たぶん。べ、弁償ってできますか? 私でも……」
恐る恐る清子が訊くが、青柳は答えずに二杯目のワインを注いだ。
そして、「この人って、本当に普通の人?」と言う台詞は清子に向けられていない。
「そこを疑ったことはないですけどね。何が違うんです」
答えて訊いた善にも、「じゃあ、性格かな……」と返事が返事ではなく。
上の空でないにしても、青柳の意識はどこか別のところに向いている様子だ。
だからか善の眉間のシワは解けず。「山下さん」と彼女を呼ぶのは、自分に気を引こうとしているようにも見える。
「彼女に何かあるんですか?」
「わからないわよ。だって、何も感じないんだもん。ほんとに普通、まるで普通、全然、まったく、ちっとも特殊じゃない。それなのに、卵は割れた……」
一応返事と受け取れる発言だが、彼女がまだここにいないような雰囲気は残っている。
呪術師という特別な職業がそうさせるのか。
善ですらそこに入り込むことはできないようで、結局カップに口をつけた。
「私はね、呪い返しなんて受けたことほとんどないの。だから、あの水晶の卵は私のプライドだった。あれが割れたら、呪術業も終わりにしようってくらいにさ。だけど、割れた。割れたのよ、私のプライドが……」
自分で言い、「あり得ない」と青柳は被りを振り。
そして今度は、「まさか」、と驚愕の表情を浮かべた。
「もしかして……」
言って善の方を向き、青柳はそれ以上何も言わない。
それで善はというと、眉間のシワが失せていた。
真顔なのか。目は真剣なようだが、清子には彼の口元にごく小さな笑みで歪んでいるようにみえた。
次の瞬間、青柳はテーブルに向き直り右手で顔を覆い、「こんなことが本当に」と。それも独り言のようだ。
すると突然顔を上げ、思い立ったように青柳は部屋を出て行った。
「どうしましょう……」
三人が三人とも青柳の異変を目の当たりにしていて、そこで真っ先に口を開いたのは清子だった。
これまでなら見守ることしかできなかったが、今回は状況が違う。
青柳がおかしくなっているのは、間接的にも自分のせいであのボウルが割れたからだと清子は思っていた。
「お気に入りだったんですよね。それを私のせいで……」
言葉を変え、清子は改めて自分の罪を意識していた。
他人の宝を守るために、自分の宝を失う。今自分に守りたいものがあるからこそ、その苦しみを理解できる。
「弁償なんて言ってしまったけど、そういう問題じゃないですよね。どうしましょう……」
悩んで、「霧峰さん」と善を頼ったのは、あくまで自然の流れだった。
自分には謝罪しか思い浮かばない。
青柳がプライドだと言ったものを砕き、弁償は自分の人生をかけても返せない気もしていた。
だからなんにせよ力を貸して欲しい。
清子の単純な願いは、「くだらない」と一蹴された。
「もう戻せないものは、どうしたって戻らない。それができれば誰も後悔なんてしないし、謝罪も必要なくなるでしょうね」
というよりも、と善は清子を見た。
「おそらく、あれが壊れたのはあなたのせいじゃありませんよ」
だから、外面だけの誠意にもまるで意味はない。
そう言って善は清子を嘲笑するように、ふっ、と鼻で笑った。
「そ、外面って。私は本当に悪いと思って……」
「じゃあ、返したらいいじゃないですか。彼女に満足してもらえるまで、あなたの全てをかければいい」
「それは……」
口ごもる清子に、善は「嫌ならそれでいい」と。
突き放すような冷たい言葉、清子はそう感じたが。
「やりたくもないしやりもしないことなら、わざわざ悪いと思う必要もないと思いますがね。私はあなたのように正義の面を被る気もないので、それをおすすめしますよ」
「じゃあ、何もしなくていいってことですか?」
「するもしないもあなた次第だ、ということです。まあ、あえて言うなら、そんなふうにしていても天国にいけるとは限らない、といったところですか」
「……てん、ごく」
どこかで訊いた台詞だ。
つい最近誰かが自分に対し、天国にいけるとは限らない、というようなことを言った。
どこで、誰が言ったことだったか。
それを思い出せなくても、きっと今また自分の良くない部分が出ているのだということはわかった。
天国に行きたいのか。
考えたこともなかったが、その発想が今ある謝罪の意識とどう関係するというのだろう。
現状雑念としかいえない清子の疑問は、「そんなことより」と鈴希に区切られた。
「清子さん。美杏ちゃんがまだ見つからないって」
「えっ、ど、どういうことですか? たしかジョージくんと一緒にいるって、家の場所も黄地さんは知っているんですよね?」
言いながら、清子はポーチからスマートフォンを取り出す。
時刻は午後九時三十五分。美杏からのメッセージはない。
困惑する清子を尻目に、善は「つくづく面白い娘さんだ」と笑っている。
そんな善をまたよそに、鈴希が「そのはずですけど」と。
「でも。陽介は、美杏ちゃんに聞いた住所に言ったのに誰もいなかったって。出掛けただけだと思って待っていたけど、今の今まで戻って来てないらしいんです。一応わたしも連絡してみたけど、やっぱり出なくって」
「そんな、どうして……」
わけがわからない。
警察に追われるという事態も、今は吉木が沈下させたはずだ。
粘着するであろう所轄の監視は、陽介がするはず。
だから本来の束縛よりももっと行動しやすい状況ができているというのに。
美杏はそれすらも我慢ならなかったというのだろうか。
その疑問が愚問であることは、清子が一番よくわかっている。
「……きっと、何か理由があるんだと思います」
「それって、雅くんのことですよね?」
「それ以外はないと思います。でも、だからって連絡もなしに行くなんて。あの子……」
雅のゲームの件についてもそうだが、美杏は一度やると決めたら危険を顧みない傾向がある。
その猪突猛進さを成就させるだけの勘と知恵があるからこそ、そうなのだろうが。
だとしたら、今回はいったい何に夢中になる必要があるのだろうか。
清子に思いつくのは、プレステ、ジョージ、それと。
「……もしかして、美杏も石を探しているのかも。あの子から来た最後のメッセージには『ヌリ』のことが書いてあったし、私と同じことを考えて黒い物体を探すつもりじゃ……」
清子が推察すると、善が「根拠は?」と訊いた。
「根拠は……」
それを考えるためには、まず美杏が清子のしようとしていることを知っていた、という状況が重要だろう。
美杏は、清子が雅のことを任せろと言ったのを聞いた。
だから黒い物体を自分が探さなくても、母親がそうすることを理解していたはずだ。
それなのに、黒い物体を探すのはなぜか。
そうではない可能性もあるが、なら探すのは雅自身だろう。
むしろそのために清子は石を求めているわけだが。
もしも雅の居場所が特定できているのだとすれば、美杏はどうやってそこを知ったというのだ。
そこは誰かが教えた、と考えるのが妥当。
今清子が知る中で、雅の居場所を知れるような人物はいないはずだった。
だが推測で物を言うことができる人は、いる。
今までにないほど思考を回転させる清子がふと思いついたのは、とある一人の情報提供者だった。
それは、自分たちが石を探すきっかけを与えてくれた人物。
「おまんじゅうさん、かもしれません。彼も雅のことを気にしているようですし、もしかすると美杏に何か伝えたのかも」
清子が精一杯の根拠を伝えるが、善は「それはどうでしょう」と肩をすくめた。
「そもそもそいつは、ネットで削除された画像すら手に入れられない程度の奴だ。曲がりなりにもプロである私たちが見つけられていない情報を、ただのネットユーザーごときが見つけられるはずがない。と思いますがね」
その意見こそ、根拠はあるのだろうか。
恐る恐る清子がそれを訊くと、善がニヤリと顔を歪ませた。
「もしそうでないなら、奴が黒幕かもしれない。実は色々と能力があるのに隠しているなんて、情報をよこしたことと矛盾しますしね。
それに、あなたの娘さんのSNSを読んだって件についても、本名の明かされていないSNSでどうして彼女だと特定できたのかも妙だ。
でももし、全てを知っていて知らぬふりをしているのなら。やっていることが愉快犯のそれ、息子さんのネットフレンドが全て故意にやったって考えられる、ということになりますよ?」
まさか。
鵜呑みにしかけた清子を、善が笑う。
「あり得ませんけどね」
「ど、どうしてそう言い切れますか?」
「連絡が遅かったからですよ。本当に奴が事態を楽しむつもりなら、事件が発覚しないことには意味がない。しかし全てを知っているほどの情報を持っているなら、警察が事件を封殺することは簡単に想像がつきますしね。それに、あなたが綿串とつるんでSNSを利用して情報を流布することを予想していたとでも?」
「それは……」
確か善の言う通りかもしれない。だが、超能力があるなら、それだってあり得る。
今日一日で透視能力者と呪術師にあったのだ、信じないというほうが頑なだ。
清子が言うと、善はまた笑った。
「確かにその通りです。じゃあ、その予知超能力者かもしれない愉快犯を問いただして息子さんの居場所を訊きましょうか」
それができれば苦労しない。
だからできないとわかっているはずなのに、わざわざそんなことを言う善はその笑みもあってどこかおどけて見える。
「……ふざけているんですか?」
凄んだつもりで清子が善を睨む。
すると。
「そう見えますか?」
と善がニヤついていた。
「あなたは勘違いしているようですけどね。どうせ、ここでいくら問答したとしても答えは得られない。だから言いますけど、俺はその情報提供者はソンダーダッハの竜だと思っていますよ」
すらすらと憶測を語る善の口角がさらに唇を引き広げた。
そうして裂けた薄い唇の隙間から覗く生々しい白い色の歯は、幕開けの隙間から覗く演者の足のようで。見られたがっているはずなのに、その表情は緞帳に隠れて窺い知れない。
そんな裏腹の期待と興奮を感じさせる。
「宝を守る竜、が……」
それをあり得ると清子が思ったことに根拠などなく、勘だ。
どこからか雅のことを知り、その情報を病院から消し、そして警察のSNSを乗っ取った腕利きのハッカー。
その人を単なるハッカーと捉えるのか、とんでもない情報屋と捉えるのか。
事実からわかる考え方一つで、清子にあの未知の存在ならあり得ると思わせた。
「強いて根拠というのなら、SNSの警告が尾のひと振りだったことでしょう。俺もあれは警察に向けた警告だと思っていたが、実はメン・イン・ブラックなんて組織が首を突っ込んでいた。
特に宝荒らしという点では、今はメン・イン・ブラックのほうが怪しいと言える。それなのに、奴らは息子さんを奪ったんだ。だったら……」
次にソンダーダッハの竜が起こすのは、山津波だ。
そう言って善はついに、ハハッ、と声をもらした。
「どういうやり方になるかはわからない。でも、期待しましょう。おそらく、メン・イン・ブラックは壊滅しますよ」
「そ、そこに美杏が関わるってことですか……」
「わかりませんがね。覚悟は必要かと思います」
どこか楽しげに言う善。
今清子の前には、まるで好きな物語を選べといわれているかのように、どうにでも解釈できる現実的な未来が先に伸びている。
その最も根拠らしくない根拠を持つ憶測が、清子にはどうしてかネットフレンドが黒幕かもしれないという可能性よりも現実味を帯びて感じられていた。




