第二十話 「あるかないか その五」
入り口以外、外と繋がる口を持たない丸太小屋。
広さは六畳程度。
清子が持つ電池式のランタンに照らされてぼんやりと浮かぶ、でこぼこの壁や剥き出しになった梁、その照り艶がなおさら口内を思わせる。
その最奥に置かれているもの。
胸の高さほどの小さな丸テーブルが三つ。
左右のテーブルには空の花瓶が置かれ。中央のテーブルには、空の透明なボウルが一つと剥き出しの果物ナイフ、その奥に楕円形の鈍い色の銀盤が一つ立てられているだけ。
ここが呪術を行う場所と知っていてもそうでなくても、やはり素っ気ないものだと清子は感じた。
青柳が手に持っている物は二つ。
左手に白い陶器の水差し、右手にはダイニングテーブルにあった花瓶から抜いてきた花の束だ。
また、彼女のジーンズの左の後ろポケットからは小屋の手前にあった若木から折って来た枝が三本顔を覗かせていた。
ランタン一つの明かりではまだまだ薄暗い部屋の中を徐に行き、青柳はまず両方の花瓶それぞれに花束を同じくらい差し。
それから、水差しの中身を中央にある透明のボウルに全て注いだ。
だから、例の物はジーンズの右の後ろポケットに入れられていた。
何かの束だ。
ほら、と言われて手に取り、清子はその時初めてそれが毛髪だと気づいた。
傷んだ細い毛質の黒髪。
本人から切り離されている状態で触るのは初めてだ。
「これ、雅の……?」
清子が訊くと、青柳は「そ」と答えた。
善がこれをいつ雅から切り取ったのか。考えればあの時だと、すぐにわかった。
だけど、だとしても少し妙だ。
どうして善はこれを準備したのだろう。
疑問が清子に質問させる。
「あの、呪い返しっていうことには、髪の毛が必要なんですか?」
言うと、青柳は「別にそうでなくてもいいよ」と。
「爪とか皮膚とか、指でも脚でも頭でもなんでもいいの。呪いを受けた呪受体と、そこにかけられた呪いの方法がわかればね」
「……ということは、そもそも雅に呪い返しはできなかったんですか?」
多少驚き、清子は訊いた。
「だから、そのために雅くんの鑑定も依頼されてたわけ。ま、鑑定っていうよりも実験だけどね。それをやるから、私は売れっ子なのよ」
そう言って青柳は、ふふ、と妖しげに笑うが。
呪いと実験、そう聞いてまともな方法でないことは想像がつく。
だから、肝が座っている、という言葉はこういう人のためにあるのだろうと、清子は身震いする気分になった。
「その、実験っていうのは……?」
好奇心で訊くと、青柳はあの妖しげな笑みを浮かべ、「お金あるの?」と言った。
「や、やっぱりいいです。ごめんなさい」
清子が頭を下げると、青柳は軽く息を抜き、「やっぱ、パンピーだもんね」と明らかに肩を落とした。
それから青柳は髪を解き、そのヘアゴムでポケットから取り出した三本の枝を大の字に組んでそれを清子に渡した。
「その頭んとこに髪の毛差し込んで。抜けないようにしっかりね」
と、それが一つ。
言われた通りに清子が大の字の一番高いところに雅の髪束を差し込むと。
もう一つ別の指示として「これ、持って」とテーブルの上のナイフをよこした。
刃がこちらを向いている。
手を切らないよう慎重に、清子が刃を指先で摘もうとした瞬間。
「い、たっ」
突如ナイフは返され、清子の指の間からはナイフが消えていた。
「どうして……っ!」
つまり、わざと切られた。
イタズラだとしてもやりすぎだ。
怒りを込めて清子が睨みつけると、青柳はおどけた表情で舌を出していた。
「あら、ごめんなさい。痛かった?」
悪びれもせず言う青柳。
「どうしてこんなことするんですかっ」
清子が声を荒げるも。
「あんたがパンピーだからよ。伊藤清子さん」
またしても、ふふ、と笑い。
そして青柳は痛む清子の右手を掴んで引っ張った。
それが唐突な出来事だったのと、青柳が思いの外強い力だったために、半ば引きずられるような形で清子は抵抗しきれず。
そのまま部屋の最深にまで連れられ、透明のボウルの上に腕を差し出された。
「やめてください! 何をするんですか!」
恐怖なのか怒りなのか。
指先が痛むのと、伝う血液の生暖かさと。清子がパニックに陥る条件は揃っている。
とにかく、清子は焦っていた。
すると青柳は腕を握る力をさらに強め、ナイフを置き空いたもう一方の手で痛む清子の指先を絞る。
玉となり、限界を達した血溜まりはこぼれ落ち。
大きな一滴、続くニ、三滴とボウルに溜められた水の中に沈んでいく。
不思議と痛みは和らいでいた。
指を圧迫されているからだろうか。
水面に落ち、根のように広がっていく自分の血液を見ていると、それも相まって清子は恐怖すら忘れかけていた。
だが、それとも。
横目に見る青柳の顔の真剣さが、これを意味のある行動だと理解させたからかもしれない。
そうしてボウルの水が清子の血で薄茶色に染まると、青柳は不意にその指先を口に入れた。
「ちょ、ちょっとっ」
慌てて口の中から指を引き抜くと。
「それ、ちょうだい」
代わりに手を差し出され、清子が大の字の枝を渡すと、青柳はそれを受け取ってボウルに立てかけた。
着々と、清子が何もわからないまま儀式の準備は整っていく。
ただ導かれるまま、相手が善や鈴希でなくなっても状況は変わらない。
どうしてなのだろう。
今自分の立場は、当事者のはず。
それなのに、いつまでも蚊帳の外で意見するばかり。
清子は、パンピー、という青柳の言葉が気になっていた。
一般人という意味だ。
この特異な状況においてなお、自分は一般人とされている。
だから、手引きもなく青柳はことを進めるのだ。
痛感する無知な自分。
鈴希がいなければ、善がいなければ何もできなかった。のではなく。
きっと何もしなかった。
清子が感じる一抹の不安。
それは、青柳が突如自分の髪を切り落とし、雅の髪に混ぜてボウルに放り込むという一連の動作によるものではなく。
ましてやそれでどうなるという少し先のことに対するものでもなく。
雅を救い出した後に、だった。
今行っていることが呪いで、しかし雅が呪われているわけではなく。
だったら魔術も召喚もなかったのではないだろうか。
たとえ雅の体を取り戻せたとして、雅は元に戻るのか。その方法はあるのか、見つかるのか。
考えれば考えるほど、一抹では足りず不安ははっきりとした色を帯びて清子の心に染み付いていく。
もしも目に見えるのなら、これは黒色なのだろうか。
清子がふと自分の胸元に目を向けると。
「それそこにおいて、私の前に来て」
声がして慌てて清子が顔を上げると、そこに彼女は背中を向けて立っていた。
言われるまま、清子は足下にランタンを置き、向き合って彼女の前に立つ。
もともと足りない明かりは、遠くに置いたため部屋を照らすには全然足りず、顔から上は外側にあって薄暗く。
その上清子に当たる光のほとんどは目の前に立つ青柳に隠され、向かい合って立つ二人は互いに薄い影を被っている。
「伊藤清子さん。今からあなたには呪いをかけてもらう」
「雅に、ですか?」
「そうだけど、そうじゃない。今は余計なこと考えないで、とにかく私の言うことを聞きなさい」
緊張感のある喋り方だ。
どことなく青柳の気配が変わったことを感じ、清子は押し黙った。
「呪いとは、方法はいくらでもあるが出来事は一つであるもの。一つの出来事とは、不幸。でも、起こるか起こらないかを含めて何がどうなるのかはわからない。
その不幸を起こす確率を上げるには、呪う人間の想いである呪容が必要。それがどんな想いでも、ただ強ければいい。それが呪いとなり、現象となる。対して、私はそれを届ける呪与者という存在。わかった?」
清子が頷くと、青柳も頷いた。
「でも、今回、伊藤雅くんはすでに死んでいる。体にいくら変化があっても、魂がないのであればそういうこと。だから、呪いはあくまで物の状態であるあの体につけなければならない。
とはいえそういう、物、には感覚がないから、呪いを現象としては捉えない。だけど、呪いの本質は現象だから、つまり物そのものを呪うことはできない。いい?」
清子はまた頷く。
「だから、これからあなたが行う呪いは、雅くんではなく。雅くんに関与しようとする者にかかるようにしなければいけない。
わかりやすくいえば、罠をかける、ということ。
おとぎ話でよく聞く呪われた宝物っていう状態を雅くんに作るってことね。
本来そういう物には、所有者の並々ならない強い思い入れがあって、それが呪いとして作用し不幸の発動確率を上がるものだけど……。
雅くんはあなたにとって想い人であっても、思い入れのある物ではない。
そこに無理やり呪いを付与するためには、雅くんの親であり彼をよく知り強い情を持つあなたの呪容と、呪与者の私という関係が重要。本当は伊藤雅という呪受体も必要だけど……」
今はあれしかない。
青柳は清子の背後にある大の字の枝を指差した。
「あれは、今から雅くんとを繋ぐ依代になるの。善くんの機転に感謝することね。おかげで効果的に呪いをかけられる」
さて、と青柳は清子に目を合わせる。
「説明は以上。状況は理解できてる?」
「い、一応……」
清子が言うと、青柳は大袈裟にため息をついた。
「それじゃ困るの。高度な呪いには立場と理解が重要だから、わざわざ説明したっていうのに……。あなたって、見た目通り鈍くさいのね」
「すいません……」
「で、なにがわからないわけ?」
「その、具体的になにをすればいいのかがわからなくて」
清子の言葉に、一度は引き締まった青柳の表情が崩れた。
「あ、あなた何を聞いてたの。言ったでしょ、強い想いが必要だって」
「だから、それです。たとえばどうすればいいのかが……。雅に触れる人は痛い目を見せる、とかですか?」
嘆息の後にされた返答は、「脳みそプラスチックで出来てんのか」という独り言だ。
「それじゃ、雅くんじゃなくて雅くんに触れる人に強い想いを抱くってことになるじゃん。そうじゃなくて、雅くんに対する強い想いが必要なの」
「雅に対する強い想い……」
「そうよ。たとえばどんな、とか聞かないでね。あなたが雅くんをどう想うかなんて知ったことじゃないから」
はい。
と返事をしたものの、清子が訊きたいことはまだあって。それが、たとえば雅に対してどう想えばいいのか、だった。
それがもし、呪いではなく願いなら、きっとすぐに考えられただろう。
しかし、息子を呪うために何を想えばいいのかなんて、清子には思いつかなかった。
悩む清子を置き去りに、「とにかく」と青柳は清子を部屋の奥に向き直らせた。
ボウルに浮かぶ大の字の枝、それが依代と聞いて、清子は急に無残な光景のように思えた。
「始めるよ」
それも急に言われ、まだ心の準備が整っていない。
清子が慌てて「待ってください」と振り返ろうとすると。
「大丈夫。なんでもいいの、ただ子供のことを想いなさい」
背後から青柳が言い、清子の背中に指先を突き立てた。
何かはわからない。だが、始まるのだ。
突き立てられた指先の感触だけを頼りに、清子はきつく目を閉じた。
すると聞こえてくる青柳の深い息遣い。
それは吸う時に強く、吐く時には弱く。
少しの間目を閉じてそればかり聴いていると、清子は眠くなってくるような感覚に陥った。
きつく閉じていたはずの瞼からは力が抜け、次いで肩の力が落ち、徐々に気が遠くなっていく。
眠いのとは違う、少しぼんやりした感覚。
しかし意識は案外はっきりしていて。遠くなっていく意識の反面、吐く息も血も内蔵も、自分の持つもの全てが床に吸い寄せられるような妙な引力を感じてもいた。
だから立っていられる。
これだけぼーっとしているのに、自分がブレずに立っていられることが不意に不思議に思えた清子は、むしろもっとしっかり真っ直ぐに立っていたいような気に駆られた。
固く、自分が棒になったように。少しも動かず、真っ直ぐに。
それを実現するためには、息をするのも無駄な気さえした。
呼吸を鎮め、ただ床に吸い寄せられる感覚に身を委ねる。
その時だった。
突如遠くに白くぼやけた光が視え、そして徐々にその輪郭がはっきりとしていく。
楕円形の光だ。
さながら出口とでもいうかのように、それは清子の意識が視る視線の先に佇んでいた。
恐怖はない、不安も。
ただそこに自分が向かっているのだという感覚だけがあり、しかし自分は身動ぎすらしておらず。
それでも、光は大きくなって感じられた。
近づいているのか、近づいてきているのか。わからない。
白い光に集中する清子は、いつの間にか白光に包まれていた。
目を閉じているはずなのに明るい。
奇妙なはずの感覚が、そうは感じられなかった。
相変わらず自分が動いている気はせず。それなのに、増えた感覚が一つ。
自分は手に何か持っている。
それが何なのかわからないまま、すると。視えた。
雅だ。
あの薄黒い色をしていない、健康的な雅。
仰向けに寝そべっていて、穏やかな表情で眠っている。
離れて何時間経っただろう。
今すぐにでも会いたいと思っていたはずなのに、清子は目の前にいる雅に触れようとは思っていなかった。
ただずっと見ていたいと。
ずっとこの穏やかな顔を見ていたいと、感情があふれてくる。
雅。
ただし。
元気でいて。
ずっと、何事もなく元気でいてほしい。
お願い、死なないで。
感情が、唯一手に持つ何かを強く握らせた。
届いて欲しい。
強い願いが握力となり、再びきつく閉じた瞼からは温かいものがこぼれる。
とめどなく流れる涙。
目の前にいる雅の安全だけを願い、健やかでいることを願い。
すると唐突に、清子は雅に触れたい衝動に駆られた。
その最も近づきたいと想った瞬間に、清子の周囲には暗闇が戻っていた。
まるで無かったことのように、白光はどこにも見当たらない。
探せば探すほど、それまで感じていた引力も遠ざかる意識も失せ、感覚が取り戻されていく。
清子は、跳ね上げるように瞼を押し上げた。
「…………」
目の前にあるのは、無色の水で満たされたボウルと銀の円盤。
その銀盤を見て、もしかするとあの光はこの錯覚だったのではないか、と疑った。
白昼夢。まさかそれをこんなにも簡単に体験するとは思わなかった。
半ば感心して、涙を拭い清子が振り返ると。
そこで青柳も涙を拭っていた。
清子よりも断然多く涙を流したのだろう。
彼女のシャツの襟元が濡れている。
「や……山下さん……」
青柳がなぜ涙を流したのか、それがなんとなくわかっていて清子は親近感から彼女を呼んでいた。
すると。
「成功よ」
青柳はまるで手術に成功した医者が言うように、落ち着いた声で言った。
「あれにはあなたの呪いがかけられた。あなたがそう想うように、呪いがあれを守るわ」
呪いが守る。
奇妙な言い回しだ。
「どういう意味ですか?」
訊いた清子に、「あれが宝なら、そうでしょ」と青柳は脇を通り過ぎ。そしてボウルを抱えてまた清子の脇を通り過ぎて、小屋を出て行った。
ランタンの明かり一つで照らされる明暗のはっきりしない室内。
わけもなく青柳の動線を再びなぞる視線の先、花瓶に禿げた茎だけを残し周囲に花弁が散っているのに清子は気がついた。




