第十六話 「あるかないか」
「霧峰さん!」
大音量。車内に響く雑音の全てを掻き消す清子の声が、善の口に加えられていたタバコを落とした。
善が慌てて急ブレーキを踏むと、後続の車が一台急ハンドルを切り脇を抜け、さらに後ろの車はブレーキを踏んでクラクションを鳴らした。
車を路肩に寄せ、サイドブレーキを引き、ウィンカーを上げるまでが一動作。
股の間に落ちたタバコを拾い、それを灰皿に押し付けると、「おい……」と善の低い声がした。
「あんた、何考えてんだ。いきなりデカい声出して」
バックミラー越しに後部座席を睨みつける善は、明らかに怒っている様子だが、清子にとってはどうでもいいことだ。
「くっ、黒い物体! これってもしかしてってこと考えられませんか!」
「黒い物体……?」
怒りの形相のまま訝しげに呟くと、今度は「運転代わってくれ」と鈴希に声を掛け、善は助手席の間をすり抜けて後部へと移動し。清子の隣に座る。
「見せてください」
善が清子からスマートフォンを受け取るタイミングで、車はまた走り出した。
流れる町並みを窓の向こうに、善は雅の日記を読んでいる。
それがどの辺りか、目を見開き口を半開きにした。
息を飲む人の顔だ。
善には似合わない表情だと、清子は思った。
「どうしたんですか?」
一応清子が訊くと、善は「スズ……」と彼女の名の端だけを口にした。
しかしそれで通じたのだろう。
鈴希は一瞬だけバックミラーを覗き込み、「まず落ち着きな」と言った。
この時、清子は初めて二人の年齢を考えていた。
美貌から年齢不詳で解決していたが、もしかすると鈴希のほうが年上なのかもしれない。
清子が隣を見ると、そこには善が神妙な面持ちでスマートフォンを見つめたままでいて、取り乱しているように見えなかった。
すると一呼吸置き、善は「わかったぞ」と顔を上げた。
「人が人でなくなる。それが、シツシツジュバンだ」
バックミラー越し、目と目が合う二人。
落ち着け、と言った鈴希の目つきが異常なまでに血走っている。
「だから、なの? だからヤコは……って、そういうこと?」
「きっとそうだ。いや、間違いない」
続けざま、伊藤さん、と突然清子を向いた善は、今しがたの鈴希との会話の説明もないまま「だったら、息子さんは鍵になる」と頷いた。
「鍵って、どういう意味ですか?」
「全てのです。俺たちが見てきた不可解な事件、異世界、それを証明する鍵になる。だから……」
絶対に守らなければならない。
そう言った善は、やはり神妙な面持ちのままだった。
余裕もなく、期待に満ちているわけでもない。
清子には、それが少しだけ違和感に感じられた。
誰のためなのか、それがはっきりしなかったから。
「……そうですね」
清子の返事は曖昧だったが、自分のスマートフォンを取り出してどこかに連絡し始めた善にはどうでもいいことだったのだろう。
目的が一緒なだけ。
雅を救う理由がそんなふうに感じられて、清子は疎外感のようなものを感じていた。
そのせいか善が遠く見え、流れる街並みと同じく魅力を感じられなくなった。
そんな清子の隣から聞こえてくる、「黄地くん」という人の名。
続く「なんとしても、触媒を手に入れるぞ」という意気込み。
全ては、「これで、ヤコをやらせた奴をあぶり出せる」からだ。
雅の今をヒントにして、過去の事件か何かが解決に向かっている。
だから、十年前の善が見た未来には清子がいた。善は、それを光栄だと思った。
「そっか……」
ふとひらめいて、清子は柔くため息をもらした。
通話が終わり、そして善が前の席に移動しようという時。
「あの、ヤコさんというのは、霧峰さんの……?」
今訊くようなことではないと知りながら、清子はそう口にしていた。
善は何も答えなかった。
◯
『三つ日の月、第十週八日目。
エスタと久しぶりに会って話をすることができた。
学校を卒業して以来だ。
ポワが使えなくなったおかげか……。
だけど、本当にただ口実にするだけならよかった。
いつか治るって、親もそう思っているけどおれはそうは思わない。
ムコウでの記憶をまだ話せていない。
頭がおかしくなったと思われるだけならいいけど、もしかしたら自分の子供じゃないと思うかもしれない。
もしそうなったら、おれはどうなるんだ。
姿も形もウィウットだっていうのに、頭の中にだけいる伊藤雅がおれの生活のジャマになってる。
消してしまいたい。
また意味のない不安に怯えてくらすのはイヤだ。
恵まれた環境で、せっかく新しい命に変わったのにこんなの……。
シツシツジュバン。』
『必要なのは、おれがコッチの人間だって証明することだ。
ウィウットがおれだと信じてもらうことだ。
そのためにいろいろ考えているけど、見つからない。
どうすれば、おれがウィウットだと証明できる?
黒い物体だ。なんとしても欲しい。
イルノもそれが何なのかわからないと言っていた。
だけど、それは人を殺すだけの力を秘めたもの。剣か、ヤリか。刃物か毒に違いない。
ヌリ術で、死をもたらすことができるもの。キンキとされていること。誓約をムシしてニーマがつかなくなったって、今のおれに関係ない。
どうせポワがないんだ。意味なんてさいしょからない。
黒い物体をつきとめる。シツシツジュバンを成功させてやる。
伊藤雅を消す。
もう二度とこんな思いは一秒もしていたくない。』
『今日で一つ日が消える。二日前、ウィウットのニーマが死んだ。
大学入学まであと六週しかない。時間がない。
入学までにポワが戻るか、雅を消さなければ、おれの未来は絶望的だ。
父さんもポワが戻らないことにあせり始めているようだ。
今おれは、グランポワなしにいられない。
アルタネティアの守り人一族が天然のニーマを連れて歩いたんじゃ、きっと笑われる。
トレ・ニーマの期間の言い訳だって、いつまでももたない。
なんとかごまかせたって、一つ日の月になれば言い訳もたたなくなる。
イーナさんにけいこをつけてもらっているけど、天然ニーマの使い方にはまだ慣れない。
だっておれは伊藤雅でもあるんだ。これがジャマをして、ウィウットとしての才能を殺している。
このままじゃおれは、レイを切れないポンコツ戦士だ。
雅がいるかぎりニーマ使いのジャマになるし、パーティはポワ師に限られるのに、ヌニーマと一緒じゃ天然ニーマが近づかない。
ナマでケモノと戦うためには、もっと痛みに強くならないと。
今のおれにはそれしかない。
我慢するのは慣れてる。きっと大丈夫だ。』
何度めか、残る三つの日記を読み終えて、清子は深いため息をもらした。
ため息の重さには、シツシツジュバンに用いられる黒い物体の正体がわからないことの落胆も込められているが。
それだけでなく、雅には異世界での生活なんて無理があったのだ、という思いが強い。
辛いことを我慢しながら生活しなければならないなんて、それだったらこっち側にいたほうがいいに違いない。
こっちにいれば、自分が守ってあげられる。
清子に湧き上がる感情の強さは、二度と雅を一人にしないと、美杏とした約束のおかげだ。
「絶対に、助けてあげるから……」
清子がスマートフォンを硬く握りしめるのと同時、鈴希がブレーキを踏んだ。
「到着」
誰に伝えるでもなく、鈴希のそんな声が聞こえ。
清子がようやく目線を窓の外に向けると、そこは都内なのかどうかもわからない場所に変わっていた。
枝を広げた一本の松の木。その根本には大きな赤茶色の庭石が二つ組み置かれていて。その左手のニ、三メートル離れたところには、小ぶりな紅葉の木と玉状に整えられたツゲとツツジが二つずつ彩りを添えている。
そこにも灰色の小さめの庭石が三つと、石灯籠が距離を開けて置かれており。そのどれもが煤けて分厚い苔帽子を被っているところ、ずいぶん長いこと放置されていることがわかる。
さらにその奥、竹垣に沿って細い幹の木が数種類連ねて植えられているが、自由気ままに枝を伸ばしているようにみえるそれらに手入れが行き届いているのか、素人の清子にはわからなかった。
「あの、ここって……」
車から降り、足下の枯れた芝生を気にしながら清子が訊くと。
「キヨキダさんの家、でしょうね。たぶん」
先に行った善を目で追いながら、鈴希が自信なさげに言った。
「たぶん、ということは鈴希さんも初めてなんですか?」
「ええ、まあ。透視っていうといかにもですもんね」
「……あの、いかにもっていうのは?」
「怪しいじゃないですか。いまいち未知の部分が多いっていうか……」
「そ、そうですか」
言いたいことはあったが、清子はとりあえず飲み込んだ。
問題は、その先。
古びた二階建ての民家の向こうにあるとわかっていたからだ。
盛大にガラガラと音を立て、横に開かれた玄関扉。
「善です」
そう言った時すでに彼の体は家の中に入っていた。
すると、声に反応した家主が玄関のすぐ左手にある襖の向こうから顔を覗かせた。
「おう、久しぶり」
五十代くらいの男性。
小太りで頭が禿げ上がっている。
「キヨキダさん、お久しぶりです」
善が言うと、キヨキダさんは「とりあえず上がれ」と手招きをした。
それはまだ外にいる鈴希にも清子にも向けられたものだろうが、躊躇なく敷居を越えたのは鈴希だけだ。
知らない人の家。それも家主が直接、どうぞ、と言われたわけでもないのに。
礼儀のつもりで飛び石の上に立ち尽くす清子の目には、玄関の脇の柱に掛けられた『木与木多』という変わった名字が映っていた。
すると。
「清子さん、さあ」
家主ではなく、鈴希に言われて清子は家に入った。
お邪魔します。と一応声にしたが、応答はなく。
それよりもまず清子が気になったのは、香りだ。
想像していた他人の家の香りとは違う。
青い草と芳ばしい木の香り。
それが意外で周囲を見回すと、木与木多が顔を覗かせた部屋に青い染め物の暖簾が掛かっていることに気がついた。
靴を脱ぎ、廊下に上がって部屋を覗いてみると、すぐそばの黄土色の砂壁に寄りかかって立つ鈴希が見える。
善は庭を背に、木与木多が座る正面であぐらをかいていた。
奥の襖は閉じている。
「ビールでいいか?」
「いや。運転があるんで、お茶もらえますか」
「麦茶?」
「まさか。玉露とは言わないけど、せめて煎茶出してくださいよ」
善が言うと、「変わらねえな」と木与木多は笑った。
「で、なんだ。画像がどうのって言ってたけど」
部屋の隅にある茶箪笥から桜皮の茶筒を出し、急須に茶葉を入れながら木与木多が訊く。
「少し前のネットオークションの画像なんですけどね。画像が削除されていてわからないんです。だから、視てもらいたくて」
「へえ。でもそういうのは、なにも俺じゃなくたってネットに詳しいやつに頼めばいいんじゃねえのか?」
「それが、そうもいかないんですよ。オークションサイトにハッキングできるようなのは知り合いにいませんし。ああいうどうでもいい画像なんかは、記録にも残らないで、とっとと削除されて復元なんてできるもんじゃないんです。もう少し早く気づいてれば話は違ったのかもしれないんですけど」
するとまた「へえ」と声をもらし、木与木多は三杯分のお茶を座卓の隅に並べた。
それに合わせて鈴希も座卓につき、「いただきます」と早速お茶をすすった。
合わせて清子も部屋の入口のそばに正座する。
「ってことは、念写だな。一枚百万、失敗分も一枚にカウント」
「失敗、ね。まあいいですよ」
「じゃ、交渉成立な」
よっこらせ、と座卓に手をついて立ち上がると、善は自分のスマートフォンを渡した。
「……ここの画像が欲しいってことだな?」
「はい、そうです」
「わかった」
それだけ言って木与木多は善にスマートフォンを返し、奥の襖に手をかけたところでふと動きを止め。
「昼飯まだだったら、そこの出前頼んどけな。蕎麦屋なのに、丼のほうが美味いんだ」
電話を指差してそう言うと、改めて襖の奥へと姿を隠した。
そういえばまだ何も食べていない。
清子が入り口そばの柱に掛けられた振り子時計に目をやると、時刻は午後二時十分を差していた。
「ねえ、善くん。こういうのって時間かかるもんなの?」
鈴希が訊くと、口につけた湯呑の向こうで善は怪訝な顔をした。
「社長」
「……ねえ、社長。こういうのって時間掛かるもんなの?」
「木与木多さんの場合は、ニ、三時間だった」
「なるほど、だから出前か。じゃあ……」
と電話の脇に立てられた緑色のメニューを広げる鈴希、「清子さん何にします?」と手招きをした。
かけそば、肉そば、天ぷらそば、ざるそば、天ざる。
定番メニューの下の方にめしものとして、親子丼、天丼、カツ丼、カレー。その最後には、新作、と書かれている。
「……なんでしょうか、これ」
「頼んでみます?」
「え、っと……」
千二百円。失敗するには少しおしいか。
結局清子はざるそばを選択し、鈴希は新作、善はカレーを選んだ。
そうして届いた出前を食べ終えたのが、午後三時近く。
それから一時間、交換し忘れている情報がないかすり合わせを行い。清子は善と鈴希に雅の日記をスクリーンショットにして送り、鈴希はそれを読んでいたり。善は時々外に出てタバコを吸っていたが、一度もスマートフォンを見ていなかった。
そして、午後四時三十分。
振り子時計が一度だけ鳴った直後、襖が開き、シャツの色が変わるほど汗だくになった木与木多が、奥座敷から出てきた。




