6.アディノス王子
「え、誰?」
思わず聞き返したら、パウラは補足してもう一度言ってくれた。
「王子殿下です。アディノス王子殿下。ナノリア様ご執心の」
「やめて。執心してないから」
正確には私は、していない。
「何の用?」
「聞いてませんけど、聞いてきましょうか?」
「普通聞くものじゃないの?」
取次ぎってそういう者じゃないのか。
パウラがさあ、と首を傾げた。
「だってナノリア様は用件を聞いたことなんてなかったので」
そうか、好きな人が来たらすぐさま招き入れてたか。
いや、それでもさ。普段、まったく交流のないレディーの部屋に来るんだから、向こうから用件を言ってしかるべきでは。
コンコン、とノックの音が響く。待ちきれなくて催促のノック。
「あ、来ちゃいましたね」
「え、なに、はやいはやい」
「いつもより遅いからですよ多分。いつも、はーい! って走っていくじゃないですか」
はーい、の所を高い声で再現された。ちょっと悪意を感じる。
それは置いておいて。
私は、王子には特に会いたくもない。それよりお昼ご飯が食べたい。
断ったら駄目だろうか。まだこの体に入って昨日の今日だし、因縁の相手にはもう少し馴染んでから会いたい。
いや、次期国王だし、無碍にしたらだめなんだろうか。
そんなことを考えていたら。
「開けろ」
若い男の声が響く。——アディノスの声だ。
条件反射で体に緊張が走った。
そしてこの部屋の主人の同意の全くないままに、扉は開かれた。
侍従に開けさせたのだろうが、入って来たのはアディノス一人だった。
こちらを見て、あからさまに眉を寄せる。
「いるなら早く開けろよ」
すっごい、偉そう。
そのまま遠慮もなく入ってくると、部屋の中にある椅子にどかりと座った。
ものすごく久し振りに見たような、映画の中の人に会ったような、不思議な感覚だ。
確かに目鼻立ちは整った方かな。母親似の綺麗な顔をしている。
明るい茶髪に、翡翠色の目はいかにも王子様と言った風貌だ。
長い脚を組んで肘をついてる。
態度悪いな。
一周回ってかっこよく見え……ない。全く見えない。
え、この王子のどこが良かったんだろう。
ついまじまじと見つめてしまったけど、一ミリも魅力を感じない。会いたくて追いかけた記憶はあるけど、実際何が良かったのか、その時の感情が抜け落ちてしまったみたいだ。
だって今だって、パウラに顎で出て行けって指図をしている。
偉そうに。
人を顎で動かすって……慣用句の世界だけかと思ってたわ。
「ナノリア」
呼ばれてはっと目を合わせる。
あ、私か。
アディノスが不機嫌そうに私を見つめている。
「何を呆けている」
「いえ」
「いつまで俺を見降ろすつもりだ?」
座れって普通に言えばよくないか?
ため息を押し殺して私は対面の椅子に座った。
「何をしている」
「え?」
座ったんですけど。
「お前は、そこ」
アディノスは床を指さした。
「ここ……?」
くくっ、とアディノスは嫌らしい笑みを浮かべた。
「お前が俺の同じ高さに座れるわけないだろ?」
——うわあ。
私は口を開けたまま一瞬固まってしまった。同時に一昔前の記憶が蘇る。
——床に這って俺の靴を舐めてみろよ。その間は側にいてやる。
一緒にいたいと縋るナノリアにアディノスはそう言い放った。
ナノリアを嘲笑い、楽しそうにもてあそんでいた。そうしてナノリアに馬鹿にしたように言い放つんだ。
——お前は本当に俺の事が好きなんだな。恥ずかしくないのか? ナノリア。そんな誇りも持たない惨めなお前を、一体誰が好きになる。本当に、浅ましく、救いようのない奴だよお前は。
繰り返し、繰り返し……。刻み込まれていく言葉の澱のように。
「身の程を忘れたのか? ナノリア」
いい加減にしろとでも言いたげな口調。
「は……」
ふざけるな——と、叫べたら良かったのに。
自分でも驚いたことに、この体が委縮した。逆らえないほどじゃないけど、アディノスに睨まれただけで体が強張る。
無理ない、か。10年の間ずっとこいつにされてきた事、言われてきた事を思えば……。
ふう、とゆっくり息を整える。
この場で抵抗したっていいことない。
なんとなく、中身が入れ替わったのをこの王子に知られたくなかった。
ピカピカに磨かれた床に座るくらいなんだ。むしろ落ち着くかもしれない。もともと椅子より床に座ってることの方が多かったんだし。
言われるとおりにストン、とその場に座り込んだ。
視線を合わせるのも何となく避けたくて、そのまま床の木目を見つめておく。
木目が1本、木目が2本……。あ、ここまだ汚れてる。
「お前、寝込んでたんだって」
私は話半分で頷いた。
「今朝は食べたんだろ。何で朝食に来なかった」
「できるだけ、部屋を出ないようにと……」
「そんなもの、今まで守ってなかったのに?」
あんたに会いに行く以外は守ってた。とはいえ、言い返す気にもならなくて黙っていた。
早く出て行ってくれないかな。
「その羽はどうした」
「え」
「何故隠さずに出している」
「その……窮屈、で」
「恥ずかしくないのか。そんな貧相なものを出して」
アディノスは、とりわけこの羽を嫌った。父を殺したかもしれない羽と思っているのか、何なのか。
汚物を見るような目でしばらく私の羽を眺めていた。
「久しぶりに見たら、色が変わったんじゃないのか。こんなに青が濃かったか」
何の前触れもなくアディノスの指が私の羽を撫でた。
「ひっ……」
思わず声が出る。
ぞわぞわと、敏感なところに触れられた不快感で全身の毛が総毛立つ。
羽を他人に触られると、どうにも耐えられない。例えるのが難しいけど、内臓を直接素手でかき回されているような、そんな気持ち悪さだ。
アディノスは指先で掠め取った鱗粉をふっと息で吹き飛ばした。
「この粉に使い道があればいいのにな。お前もいつまでも役立たずのままではいられないだろ?」
役に立ってほしいなら勉強でもさせてくれたらいいのに。こんなところに閉じ込められていたら、何もできない。そもそもまだ15なんだし。
「どうした。何か言ったらどうだ」
何か、と言われても。
出て行って下さいって言ったらだめかな。
怒られるか。
ずっとここにいてほしいって、今までのナノリアだったらいいそうだし。——考えたら寒気がしてきた。
「えっと……殿下も、もうじきご即位ですね」
当たり障りのない世間話で済ませよう。
現時点では、役立たず具合で言えば私もあんたも変わらないはずだ。
10年前はまだ8つだったから、前国王は甥である公爵を摂政として辺境から呼び寄せた。この10年間、滞りなく国政が回っているのはその公爵様のお蔭だ。
ナノリアの記憶にある限り、このぼんくらが国政に携わっているところはほとんど見ない。
今年成人なのにそれでいいのか。
「ふん。何も問題なく回っているのに、急ぐ必要はないだろう」
アディノスは生粋のなまけものだ、多分。
それほど苦労しなくても勉強やら何やらができてしまうから余計なのか、努力をしない。
「そもそもお前、そんなことを言っていいのか? 俺が即位したら俺が国王になるんだぞ」
何を当たり前のことを言ってるんだ。
訳が分からない私に対して、アディノスは楽しそうに続けた。
「お前が生かされてるのは父上の勅命があったからだ。国王が変わればそれは無効となる」
脅しているつもりなんだろうか。
でも確かに、こいつが即位するまでに身の振り方を考えないといけないって事か……。
「手を出せ」
「え」
「早くしろよ、のろま」
言われた事に今まで逆らった事もないから、当然言うとおりにすると疑っていない様子だけれど。
怪しすぎて出したくない。
でも、出さないと終わらないようだから、私は渋々手を差し出した。
その上にアディノスはポケットから白いハンカチを出す。
何だ? そのハンカチをフリフリして、中から——。
「———っっっっ!!」
声にならない悲鳴を上げた。喉で悲鳴が止まって、息も止まる程に私は固まった。
アディノスはハンカチから虫の死骸を私の手のひらに落としたのだった。
バッタ、それも大きめな奴だ。黒ずんで、死後だいぶ経過していそうな……。
アディノスはじっと私を見ていた。観察するように、私の反応でも確かめるような。
「な、な……」
「どうだ、この虫」
「え……」
意味が分からない。泣きそうだ。
一体どういうつもりなんだ、こいつは。
今どき小学生でもこんな嫌がらせしないわ! いや、世界線違うけども。
固まったままの私に飽きたのか、ふん、といってアディノスはハンカチも床に落とした。
「お前に、一度会いたいと申し出があった」
え、何? この状態で別の話題?
この王子はぼんくらでせっかちで、それからサイコパスだったのか。
どうすればいいのだろう、この手の中の仏様を。
話は半分も入ってこないのに、アディノスは続けた。
「ずっと断っていたが、いよいよ断れなくなったから、許可した」
私に会いたいと言って、それが通る人物と言えば限られてくる。
王妃は会いたくなったら来るだろうけど、国王が亡くなってから心を病んでしまい、ほとんど部屋から出ていない。重臣一同はそんな王妃の顔色を窺っている。
だから、皆目見当がつかない。
「ど、どなたが」
声が震える。とりあえず落されたハンカチの上に、そっと虫の死骸を乗せた。
うう……手を洗いたい。
「摂政——ブレイク・コーンワルド公爵だ」
どうしてそんな人が、ナノリアに会いたいというのだろう。
この国の摂政殿下。
ナノリアの記憶の中で会ったのは、10年前の一度だけだった。




